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礼拝

2006.1-3

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*2006.3.19 浜野好邦
**門であるキリスト

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。ヨハネ10:7
イエス様が言われた門とはどのような門のことを指しているでしょうか。実は、ここで言う門とは、門柱というよりも扉のことです。
門がついていると、中にいる人は外敵から守られます。イエス様の中にいる人に対して完全な守りがあるということです。門は出口でしょうか入り口でしょうか…。イエス様が言っている門とは、入り口のことです。入り口を通ってどこへ行くでしょうか。わたしたちは、イエス様を通って、天国に行くことができます。
私たちの心にある攻撃とは、どのようなものがあるでしょうか。弱気、もうこれ以上で出来ないかもしれないという思い、負けるかもしれないという恐れ、恐怖心…。そのような思いでイエス様なんか、と思ってしまった時点で、悪魔の勝ちになってしまう。立ち上がることのできない心の状態になってしまいます。そういうところで、イエス様はすべての忌まわしいものから私たちを守ってくれると約束してくださっています。わたしがあなたとともにいる。死のちからにさえも打ちかったイエス様がついているから、罪の誘惑があっても、恐れがあっても、心の中には平安が与えられます。他人の攻撃にも罪の恐れからも自分の弱気からも守られます。

*2006.3.12
**正当化しない自分
中上勝雄師

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされるからです。」
ルカ18:14

人の心を美化して見せかけることはできます。しかし、本当の心を映し出すことはできません。
私は以前、人に対してすごく怒鳴ったことがありました。その言葉を後から振り返ると、自分を美化した言葉ばかり並べて自分を正当化しようとしていたことに気づいたんです。
人を思いやっているかのような言葉、自分がどれだけやったかという言葉、自分が正しくて、周りが悪いような言葉、自分が悲劇のヒーローのような言葉。そのような言葉の数々で、自分を美化しようとしていました。
しかし、神様の前では、美化することはできない。

ルカ18:9-14
パリサイ人と取税人、人々の目から見たら、偉いのはパリサイ人で、取税人は最も嫌われていました。
しかし、祈りの内容からそれぞれの姿が見えてきます。
パリサイ人…自分を際立たせるために周りの人間を卑下する言葉
人と比較して自分のほうが良いという自分の評価
自分自身が同じ罪人であることを忘れていってしまう
取税人…人は関係ない、すべて自分が金に目がくらんだから悪いのだという思い
こんな罪人を赦してくださいという、ありのままの告白
正当化せず、自分の罪をすべて認めたなら、神様はそれを受け入れ完全に赦してくださいます。
正当化しようとしていたら、平和な人間関係は生まれません。
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*2006年3月5日
**光であるキリスト
創世記1:1~3
「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」
ヨハネ1:1~5
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
この創世記の言葉と、ヨハネの言葉はとても似ています。ここから、天地をお造りになった神様は、新約聖書に出ている神と同じで、光とはキリストのことであるということが分かります。
わたしたちの中で忌まわしいもの、苦痛、悩みは、「やみ」です。イエス・キリストは人間の社会の中に光として来てくださいました。光によって輝きのある人生を歩むことができます。イエス様は、私たちの罪を赦すということで、私たちの心の闇を破ってくださる、闇から解放してくださるのです。

ヨハネ9:1~9
盲人がどうして盲目に生まれついたのか、と弟子がイエス様に尋ねています。イエス様の答えはこうです。「神のわざがこの人に現れるためです。」つまり、「盲目に生まれついたのは目が見えるようになるという経験をするためです」
わたしたちが本当に見なければならないものというものがあります。しかし、それを見ることはできません。その一つ目は神様です。神様を見ることができたらどんなに幸せでしょうか。二つ目は天国。三つ目は地獄です。
わたしたちはそれらを肉眼で見ることはできないが、神様はそんなわたしたちの心の目を開いてくださいます。また、見なければならないのに見えないものがまだあります。それは自分の心、人の心です。
イエス様はわたしたちに世の光として現れてくださり、私たちの心の目を開いて光を見させてくださるのです。
*2006年 2月12日 浜野好枝師
**信仰によって生きる
ヘブル10:32-39
『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』

先週木曜日に、聖書勉強の際、ある姉妹が「手が動かないから今日病院へ行きます」と言われました。聖書勉強が終わった後、私はずっとそのことが気になっていました。その姉妹には小さなお子さんがいます。彼女が手が痛い、病院へ行くと言ったとき、「○○ちゃん(お子さん)、私がみてるよ。」とすぐ言えなかったことを悔やんだのです。そのことは、ルカの福音書を読んだときに、神様が教えてたことでした。

イエス様信じてもいいことないじゃない、と思う人はいませんか?多くの人が、神様を信じてクリスチャンになってから、良いことばかりでなく、試練の方が多いかもしれません。しかし、ここに”いつまでも残る財産”が与えられると書いてあります。辛く、苦しいことはたくさんあるかも知れませんが、私たちは”財産”が与えられているのです。私の罪が赦されて救われていることが、すべての財産なのです。これでもか、これでもかとたくさんの波風が来るでしょうが、その時にその財産、信仰の確信を持っていれば、力強く生きていくことができます。その信仰の確信は神様の言葉から来ます。

37節、「イエスさまが必ず来られる」とあります。イエス様が来られたとき信仰によって生きている事が大切です。反対に地上の力で生きることを、神様は喜ばれません。自転車を漕がないでいるとその自転車は倒れます。そのように、地上の力で生きるとき、私たちは「恐れ退く」事になります。みことばによって前にすすまなければ倒れてしまいます。恐れ退いてしまいます。しかし、信仰によって生きる人は、一歩一歩前進します。
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*2006年 2月 5日 浜野好邦師
**永遠のいのちを養ういのちのパン
ヨハネ6:31-40

イエスキリストの7つの自己紹介
自己紹介をしてもらうとその人のことがよくわかる。それを聞くと、色々興味や関心がわき、質問をしたくなる。

イエス様は35節で「私がいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」と自己紹介なさいました。これを聞くと興味が出てきますよね。パン、というのにも気がひかれると思います。じゃあ、私たちはイエス様を食べることができるのですか?どんなパンなんですか?いろんな疑問がわいてきます。いつも食べられますか?(34節)そんな疑問を弟子たちも持ちました。

31節「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。」
イスラエル人が、エジプトで奴隷になっていたとき、モーセという人がそのイスラエル人を連れ出しました。紅海をわたりました。渡るとき、神様は紅海を二つに分け、地面を歩かせてくれました。エジプト人たちもそこを歩こうとしましたが、イスラエル人たちがわたりきると紅海は元通りになり、エジプト人はその中で死んでしまいました。その後のイスラエル人の旅で困ったことは、食べ物です。木も水も何も無いところを旅していたのです。神様は、その場所で勉強させました。なにもないところで、神様は岩から水を下さり、天からマナを下さったのです。三千四百年前、四十年間空から食べ物が降り続けました。このことを通して、神様が私たちを生かしてくれるんだ、食べ物を与えてくれるんだ、命をくれるんだ、ということがわかります。イエス様は、今はそのマナは無いが、私がそのマナなのです。まことのパンなのです。と教えています

35節「私がいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
ものを食べないと、力が出なくなり、寝ているだけで仕方が無い状態になってしまいます。ものを考えられなくなり、やる気がなくなり、力がなくなりますね。
私たちは毎日の生活の中で、生きていこうという気力が弱くなることがあります。その反対に、力強く生きて生きたい、と意欲に燃えるときがあります。どんなときに意欲があるでしょうか?そえはやりがいがあるときや恋人ができたとき、友達ができたとき、仕事ができたとき、ほしいと思っていたものを手に入れたとき、良いことをしたときなどです。逆に、意欲がないときは、うそついたりごまかしたりと悪いことばかりしているときです。そのような時は、生きていることが面白くありません。

ヨハネ4:34「私を遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが私の食物です。」
いのちのパンであるイエスキリストを食べるということは、御言葉を受け入れ、信じ、実行するということです。
いのちのパンであるイエス様がわかったら、そのパンをどうやったら食べることができるでしょうか。

実行するとは、具体的に御言葉から人に対して何かを行うことです。手紙を書く、人に会いに行くということは、とてもいいですよね。愛と恵みを届けられます。そういうことをしていくことで、イエス様をいただいていくことができます。

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*2006年 1月29日
**ラザロ生きかえる

「イエスは言われた。私はよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」  ヨハネ11:25

 ”死んでも”生きると書いてありますが、”死ぬ”ことは確かなことだということです。しかし、死ぬことは確かであっても天国でいつまでも生きていることができます。神様と一緒にいることができます。

 イエスさまは死んだ人でも生かすことができます。こんな力がある神様が他にいるでしょうか。

ヨハネ11:38~

 ラザロという人がいました。ラザロにはお姉さんが二人いて上のお姉さんがマルタ、次のお姉さんがマリヤでした。この三人の姉弟は、いつも神様と一緒で、いつも心が嬉しいという幸せな生活を送っていました。
 しかし、ある日、その三人姉弟の弟ラザロが病気で死にそうになりました。マルタとマリヤはすぐに「助けて下さい」とイエスさまに伝えました。しかし、イエス様はすぐには来てくれませんでした。二日後にラザロのもとに来ました。お姉さんたちは、イエスさまに文句をいいました。イエスさまがお墓の前で「ラザロよ、出てきなさい」とさけぶと、ラザロはミイラのように包帯が巻かれたまま出てきました。
 周りにいた人々はびっくりしたでしょう。日本人なら「足を見ろ!!!」というでしょう(お化けかと思うということ)。ユダヤ中にそのニュースが広がりました。

イエスキリストはたとえ死んでも生かしてくれる方です。
イエスさまからいのちをもらって生きているのが私たちです。

神様から与えられるいのちで生きることが、現実のことであることが分かるようにラザロが生き返りました。それが分かるために最後にイエスさまがやったこと、それは、十字架による死です。イエスさまは十字架に掛かり、真っ赤な血を流し死にました。金曜の夕方、イエスさまは埋葬され、土曜は地獄で苦しみを受け、それに打ち勝ち、日曜の朝早くよみがえった姿を500人以上の人に見せられました。

イエスさまがわたしの罪のかわりに死んでくれたこと
そのイエスさまがよみがえったこと
それを信じるときに私たちも生きることができます。
死んでも生きることができます。


十字架から与えられるもの、それは、一人ひとりへの激しい愛です。
神様の愛がわたしは嬉しいという感激が与えられます。
*2006年 1月29日
**ラザロ生きかえる

「イエスは言われた。私はよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」  ヨハネ11:25

 ”死んでも”生きると書いてありますが、”死ぬ”ことは確かなことだということです。しかし、死ぬことは確かであっても天国でいつまでも生きていることができます。神様と一緒にいることができます。

 イエスさまは死んだ人でも生かすことができます。こんな力がある神様が他にいるでしょうか。

ヨハネ11:38~

 ラザロという人がいました。ラザロにはお姉さんが二人いて上のお姉さんがマルタ、次のお姉さんがマリヤでした。この三人の姉弟は、いつも神様と一緒で、いつも心が嬉しいという幸せな生活を送っていました。
 しかし、ある日、その三人姉弟の弟ラザロが病気で死にそうになりました。マルタとマリヤはすぐに「助けて下さい」とイエスさまに伝えました。しかし、イエス様はすぐには来てくれませんでした。二日後にラザロのもとに来ました。お姉さんたちは、イエスさまに文句をいいました。イエスさまがお墓の前で「ラザロよ、出てきなさい」とさけぶと、ラザロはミイラのように包帯が巻かれたまま出てきました。
 周りにいた人々はびっくりしたでしょう。日本人なら「足を見ろ!!!」というでしょう(お化けかと思うということ)。ユダヤ中にそのニュースが広がりました。

イエスキリストはたとえ死んでも生かしてくれる方です。
イエスさまからいのちをもらって生きているのが私たちです。

神様から与えられるいのちで生きることが、現実のことであることが分かるようにラザロが生き返りました。それが分かるために最後にイエスさまがやったこと、それは、十字架による死です。イエスさまは十字架に掛かり、真っ赤な血を流し死にました。金曜の夕方、イエスさまは埋葬され、土曜は地獄で苦しみを受け、それに打ち勝ち、日曜の朝早くよみがえった姿を500人以上の人に見せられました。

イエスさまがわたしの罪のかわりに死んでくれたこと
そのイエスさまがよみがえったこと
それを信じるときに私たちも生きることができます。
死んでも生きることができます。


十字架から与えられるもの、それは、一人ひとりへの激しい愛です。
神様の愛がわたしは嬉しいという感激が与えられます。

2006.1.8 「イエスさまに目を開かれて」

彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。                                        ヨハネ9:11

 目が見えないと、人や物にぶつかることがあります。”見えない”と、人にぶつかり、壁にぶつかります。人間関係でも、そのような衝突があるのではないでしょうか。そして、人にぶつかり、難問にぶつかると、ついにはいやになって絶望してしまいます。私たちがどうしても見なければならないものは、光(神様)です。イエス様を信じると神様がわかるようになります。光は、私たちに生きる希望を与えてくれれます。見えないと、色々な問題にぶつかるが、イエス様という光を見続けていれば、私たちは希望で満たされるのです。

 泥を洗う行為から、”洗う”ということについて考えて見ましょう。先日、下関の駅に火をつけた人は、『おなかが減ってむしゃくしゃして』やったそうです。どうしてそういうことをしてしまうのか、それは、その人の心が汚いからです。おとなでも子どもでも、男でも女でも、心が汚れることはあります。どうやったらきれいになるでしょうか。イエス様によって心を洗ってもらわないと決してきれいになりません。そして、洗ってもらうと、素直な気持ちになり、神様のことがもっとよくわかるようになります。また、天国や神の国がわかるようになります。 ”洗礼”とは、罪を赦され心を洗ってもらう儀式です。罪が赦されると、神様の愛の中で生きがいを持って生きられるようになります。すばらしいことですね。

 では、私たちが心をきれいにするためには、まず何をしなければならないか。

*キリストに反発しないで、穏やかな気持ちでキリスト自身にうなずく・・・信じるということ

→そのとき、キリストが私たちの心を洗って清くしてくださり、私たちは見えるようになる。

元旦礼拝

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。」イザヤ60:1

 イザヤがこの言葉を書いたとき、イスラエルは堕落していました。堕落、つまり、悪い心の状態になっていたということです。もう聖書読むのなんかイヤだ。お祈りするのなんてイヤだ。そのとき、神様の栄光が、光が、あなたの上にあるではないか。と、イスラエルよ輝く人になりなさい、と言い、教えてくれたのです。

 「ケダルの羊の群れもみな、あなたのところに集まり、ネバヨテの雄羊は、あなたに仕え、これらは受け入れられるいけにえとして、わたしの祭壇にささげられる。わたしは、わたしの美しい家を輝かす。」イザヤ60:7

 神様の家とはどこでしょう。神様が住んでいるところ、それは、私の心、人の心、私たち自身です。私たち自身が神様によって輝かせてもらおう。

では、何をすれば輝くことが出来るのでしょうか?

三つのポイントで考えたいと思います。

①「クリスチャンの心」Ⅰヨハネ3:2

「イエス様のような人になろう!」これがクリスチャンの心です。神様は天地創造のときに「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。」のです。もし、私たちが神様に似てないなら私たちは神の子ではないでしょう。イエス様に似ている人になっていくこと、これがクリスチャンとしての人生の最大の優先事項です。イエス様が輝く方であるように、私も輝きたい。イエス様が優しい方であるように、私も人に優しくする。イエス様が私を許してくれたから、私も人を許す。イエス様が私を愛してくれたから、私も人を愛す。イエス様の真似をして行こう!と、思いながら生きていく。それだけでいいと思います。到達はしないかもしれないけど、願いながら生きていくことはできます。イエス様のような人になりたいという希望を持ちましょう。

②「クリスチャンの定義」Ⅰヨハネ2:12~14

 ここには、クリスチャンとしての定義が書かれています。一つ目は、イエス様が私の罪を赦してくれた、と思い、心に平安が与えられていること。二つ目は、神様が天地をお造りになったんだ。私が信じている神様はそういう神様なんだと、知ることです。罪の赦しからの安らぎがあり、天地を造られた神様が、私といつもともにいてくれるという安心感で包まれている、それがクリスチャンです。

 そして、はじめのみ言葉に「起きよ、光を放て。」とありましたが、起き上がった私たちが何をするのでしょうか。この二つのことをすることが、「起き上がる」ということです。

③「クリスチャンの歩み」ミカ6:8
 神様は私に何を求めておられるのでしょうか。私に期待していることはなんでしょうか。それは、公義を行うことです。

 公義とは、永遠の正しさということです。その内容は、「赦す」ということです。イエスさまによって赦されたものとしてお互いに赦しあい、助け合って生きていきましょう。祝福がありますように。

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最終更新:2006年09月03日 10:37