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2006.7-9


2006.9.24濱野好枝師


「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものす。私はその罪人のかしらです。 1テモテ 1:15

【ルカ5:17-32】

【罪人を救う神】

中風の人を助けたいという仲間がイエスさまのところに運び込むと、イエスさまは始めになんとおっしゃたでしょうか。
「友よ。あなたの罪は赦されました。」
ユダヤの人達は病気は罪からくるものだと思っていました。ここで、罪が赦されると、病気が癒されるということが起こりました。罪を赦すとは神さまの大きな権威からのものです。罪を赦す方が他にいるでしょうか。イエスキリストが地上で与えられている権威は罪を赦す権威です。あなたの罪は赦されました、それがどんなに大きなことでしょうか。




2006.9.7  浜野好枝師

ルカ20:9ー18

この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。ルカ20:18

神様の領域を超えること、それが罪です。罪の払う値は死だとありますが、必ず罪を犯した刈り取りをすることになります。イスラエルが散ったのもそのためです。しかし、神様は待っておられます。

この箇所でイエスキリストは「最愛の息子」として現れています。この例えを持って、神様は教えてくださっています。主権者である神様の権威を犯してはいけない、その神様から私たちは所有権を得いている、ということです。神様に明け渡していない領域が、私たちの心にどのくらいあるのか、それも考え、チェックしてみるといいと思います。

2006.9.3 濱野好邦師

マタイ7:24-27

 獄中の祈り
 神様 朝早くあなたに向かって呼びかけます。
 私を助けて祈らしめ思いをあなたに集めさせて下さい。
 一人ではそれができないのです。
 私の所は闇ですが あなたのみそばには光があります。
 私は孤独でありますがあなたはお見捨てになりません。
 私は臆しておりますが あなたには助けがあります。
 私は不安でありますが 御もとには平和があります。
 私の言葉は辛辣ですがあなたの御もとには忍耐があります。
 私があなたの道を理解しなくてもあなたは私のための道を御存知で す。
 主イエス・キリストよ あなたは私のように貧しく みじめで捕わ れ 見捨てられ拾いました。
  あなたはあらゆる人間の困窮を知り給います。
 たとえ一人の人間もわたしの側にいなくてもあなたは留まり給いま す。
 私を忘れることなくたずね求め給います。
 私があなたを認め あなたのもとに帰ることをあなたは望んでおら れます。
 主よ あなたの呼び声をきいて御跡に従います。
 ボンフェッファー

この人は獄中で目覚めたときに祈り書き留めました。罪を犯していないにもかかわらず、人から悪口を言われるとき、私達の心は揺らぎます。そして。「うるさい!」「そんなことしていない!」と一生懸命訴えようとします。すると、そこの人間関係は断絶されてしまいます。
もし、自分に疚しいことがあり、人からそれを指摘されると私達は罰を受けざるを得ません。
このボンフェッファーという人は、無実の罪で獄中にありながら、なおも神さまの栄光を褒め称えています。

日本でも130年前ぐらいまでは、キリスト教を信仰していることがばれると幕府によって殺されることが当たり前でした。

わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 マタイ7:24

私達は砂の上に建てられた家が崩れるように、弱いものです。私達の信仰は弱いものです。神さまによって信仰を強めて頂いて、神さまによって支えて頂かないと、私達は自分の人格を形作っていくことができません。私達は弱さの中で、惰性にずるずると引きずられてはいないだろうか。イエスさまのご期待に添った形で生活できているだろうか。


聴いたみことばは実行すると決心しよう。


06.8.27 濱野好枝師


「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」
2コリント4:7

聖書箇所【民数記20:14-29】

出エジプトの地代、エジプト内のイスラエル人の力が強くなるのを恐れ、エジプトの王はイスラエルは奴隷として使っていました。それに耐えられずイスラエルは神さまに求め、出エジプトすることとなります。そして、行く方向の分からないイスラエル人に、神さまは雲の柱や火の柱で導きました。数々の試練を乗り越え、カナンに入りましたが、旅を始めたときにいた人々は、みな約束の地、カナンを見る前になくなりました。それは、神さまに呟いたから。文句を抱いていたから。です。うずらやマナ、水など食料を用意していてくださる神さまへの感謝よりも、愚痴を言うことの方が多かったと言うことです。

神さまはしっかり、計画を持っておられ、確かな手で導いてくださっています。私たちは目に見える上辺のところで判断しがちですが、そこで呟くことなく、神さまの力を信じて信頼したいものです。

永遠に変わらない、確実な御手をもって導いてくださる神さまに信頼しましょう。


06.8.20 濱野好邦師

「空の鳥、野の花」

何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、
などと言って心配するのはやめなさい。           マタイ6:31

心配することはありませんと、教えてくれている箇所です。自分の生活上の問題で心配するのは止めなさいとイエスさまは言っておられます。私達は悩むととことん悩むものです。この様な人がいまいした。空を見ながら、雨も雹も雪も降ってくる、あの空がぜんぶ降ってきたらどうしようとひどく悩んだ人です。また、仕事が上手くいかなくて悩む人がいるでしょう。我が家では、織物業をしていましたが、織物をするための糸を売ってくれる人がいなくなってしまったことがありました。父の悩み方は大変なものでした。泣きながらガラス戸をけったりしていました。糸が買えなければ織物ができない、仕事ができなければご飯を食べられない、養っていけない、死ぬしかない、、、そう父は悩んだのでした。
しかし、イエス・キリストは思い煩ってはいけませんと語っておられます。空を飛んでいる小鳥も、私達にとったら、なんの意味も持たないように見えます。そんな小鳥も神様がしっかり養って生かしてくださっています。
「空の鳥を見なさい。」


私は、「明るいですね。」とか、「にぎやかですね。」「説教が面白いです。」とほめられると、とても嬉しくなります。しかし、そんな私が、誰の目にも留められないような小さな花をみたとき、とても感動しました。誰にほめられるわけでもない、何も悩まない、ただ神様から与えられた装いを、静かに見せている、そんな花に感動しました。自然は第二の聖書と言われています。自然を養っていてくださる神様がいるから大丈夫なんだという安心感をいつも心に持っていけたら良いと思います。

何かに悩むときは、イエスさまが共にいることを思い出してください。天地を造られた神様を思い出してください。

祈り

神よ
 変えることのできるものについて
 それを変えるだけの勇気を与え給え。
 変えることのできないものについては
 それを受け入れるだけの平静さを与え給え。
 そして
 変えることのできるものと
   変えることのできないものとを
 見分ける知恵を与え給え。
		ラインホルト・ニ一バー	


06.7.16 浜野好邦師

「人を癒す福音」

使徒5:12-16

「エルサレムの付近の町から、大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まってきたが、その全部がいやされた。」使徒5:16

癒しという言葉は、病気が治ること、そして、傷が治ることです。ほんとに困っている人はいます。心が当たり前の状態でないとき、頭が当たり前の状態でないときに、困ります。神様は私たちを癒し、治し、立ち上がらせてくださいます。

聖霊が下ってから弟子たちはイエス様と同じように病人を癒すようになります。それを見ていた人は、イエスキリストが神だったことを知ります。

春、5月頃に学校へ行きたくない、会社へ行きたくない、などで悩んでいる人は多いです。人から受けた傷は同じ人に取り扱ってもらわないと癒えていきません。しかし、イエス様は癒してくださいます。イエスキリストの癒しには癒されないことはありません。それは、イエス様が心を解放して下さるからです。言葉によって、心が固くなっている人はいるのではないでしょうか。人の言葉に心を縛られている人はいませんか。今から60年前、人の言葉に左右され、天皇陛下を神だと信じていた人がいました。戦時中、天皇陛下を神だと思っていた人の中には、天皇陛下が「人間」だと知ったときに生きるのが嫌になった人がいたかもしれません。敗北による絶望というものがあるでしょう。しかし、終戦をきっかけに、福音が入ってきました。それによって癒された人が沢山あります。イエスキリストの勝利によって救われます。

「よみがえらせる」の意味には立ち上がらせるという意味もあります。イエスキリストは信じるものをよみがえらせる。つまり、立ち上がらせることができるということです。ダメージを受けてダウンした状態からよみがえっていくことができます。

今日の週報の証しには、私の証しが載っています。協団の牧師たちが、人間と教会を立て上げるということの実際を見ることができました。イエスキリストがよみがえったというこの事実が、いかに生身の人間に希望と力を与えるものかということに自信が深まっています。イエスキリストが罪に打ち勝った悪魔に勝った勝利者であることが福音です。
その福音を味わい、勝利を勝ち取ることを日ごとできたら良いですね。心を縛られているものから解放される、それが癒しであり、救いであり、福音です。

私たちは救われた喜びを笑顔で周りの人に伝えられたらいいですね。



2006.7.9

ヨハネ15:1-12
浜野好邦師
「実を結ばれるキリスト」

7月17日の海の日に山へ登ります。一緒に行く方はいませんか。山頂で日本の救いのために祈ってきます。
去年からヨハネの福音書の中にある七つの奇跡、七つの自己紹介を見てきました。今日が最後です。
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」これが、七つ目の自己紹介です。

私たちの脳の目的は育つこと成長することです。だから、私たちは成長したときに喜びます。足が大きくなったとか、貯金の残額がふえたとか、、。その成長を見るとき嬉しさがあります。しかし、目に見えるものだけが大きくなることだけでは私たちの心は満足しません。
人間が成長し成熟すると何ができるようになるのかというと、それは、人間関係をうまく持つことができるようになります。幼い赤ちゃん、子どもはまだその人間関係をうまく持つことはできません。人見知りで泣くこともあるかもしれません。私には弟がいますが、その弟の娘や息子は、幼いとき、私の顔を見るとすぐに泣きました。

教会に来ている私たちは、神様との関係があります。イエスキリストが自分の体に釘を打たれて私たちのために死んでくださった、そこに大きな愛があるんだと感じたとき、神様との関係を結びなおすことができます。そして、周りの人との人間関係も良くなります。神様ご自身が分かったときに非常に大きな成長を遂げることができます。イエスキリストによって成熟していくことができます。

私たちが人間としてなかなか実らないならば神様は絶望します。(2節)イエスキリストというお方は最高のぶどうの木です。たっぷり実をつけられるぶどうの木です。私たちがぶどうの木の枝としてイエスキリストにつながっているならば豊かにぶどうの実を実らせることができるというわけです。もし私たちが豊かに実らせることができなかったのならば、私たちの人生はいったいなんだったのかということになってしまいます。みのらせていな人はすぐに怒ります。私は怒りっぽいんです。自分じゃまったく実っていないな~と感じています。八王子教会を兼牧しているとき、私を褒めてくれた人がいました。「浜野先生、八王子教会に行くようになってから怒らなくなりましたね。」ある日とは「先生はニコニコしている時もあるけど突然怒ることもありますね。」といいます。「心の中に不満があるのは私である」という思いがあるときは、簡単に悪魔の策略にのってしまいます。

実らせる実について、ガラテヤに書いてあります。ガラテヤ5:22,23「御霊の実は、愛、喜び、平安、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」
「浜野さんを見ていると愛そのものを見ているようだよ」、と言われるようになりたいですね。私も時々仏頂面のときもありますが、喜びを表しているときに周りの人へ希望を与えることもできます。
不安や焦りで心がいっぱいでも、神様を信じて祈るとき、平安が与えられます。イエス様につながるとき、力が与えられます。イエス様の十字架を眺めているとき、自然と人を助けようと言う思いが与えられます。怒りがこみ上げてきそうなとき、思い出してください。髪の愛の中にとどまり、豊かな実を実らせるものになって行きましょう。


2006.7.2

愛ゆえのとりなし
浜野直子
創世記18:16~29

ソドムという街は、ソドミズムという名が生まれるぐらい、とても悪い街であった。アブラハムはそのような罪まみれのひとを救って欲しいと思っていました。神様のご計画は、もうソドムを滅ぼすと決まっているものでしたが、それでもアブラハムはお願いしました。
私は信仰の葛藤があったとき、父にそれを言うのがすごく怖かったんです。父は受け入れてくれないだろうという思いがありました。十字架がわからないといったら張り倒されるかと思ったでも言わなきゃこれ以上教会生活ができないとおもいメールやり取りをした父はそれはお前の信仰に良いことだと受け入れてくれた。大切なはなしを打ち明け、受け入れてもらえたことで、今はとてもいい関係がある。
アブラハムの願いを神様は聞いてくれた
なぜここまで必死に願ったか、それは、ソドムの人への愛です。アブラハムの愛です。
悪い人が死刑で当然だと思うのではなく、悪い人をも助けたいという愛。このことから何が見えますか。イエス様の十字架です。イエス様も同じように死に値するほどの罪を犯している人々、私たちを救いたいと思い十字架にかかりました。
今、私たちの心の中に、どれだけ他の人が救われてほしいという思いがあるでしょうか。
まず、愛することから始めたいと思います。他の人が救われて欲しいならば、その人々を愛さなければならないでしょう。だれを、愛すことから始めますか。一番近い人、、、自分です。まず、このままで神様が愛してくれてる自分を認め、愛すことから始めましょう。その次は、家族です。言葉、表情、行動で愛を示していきましょう。職場や学校ではどうでしょうか。この人は愛せないというような人はいないでしょうか。自分が愛せない人でも、そのままでイエス様に受け入れられ、そのままで愛されてるということを思い出してみましょう。

愛には三種類あります。
アガペー 神様の自己犠牲の愛。無条件の愛
フィレオ 友達への愛
エロス  恋人との愛

アガペーの愛でなければ、愛せない人を愛すことはできません。与える愛をくださいと、神様に祈ってみましょう。与える愛は、広まっていくものです。連鎖するものです。神様から愛される、人に愛を示す、連鎖して広がっていく。祈り、求めていきましょう。

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最終更新:2006年09月24日 10:48