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2007.1-3

2007年3月11日 浜野好枝師

創世記7:1

ノアの時代は今から約4500年前ぐらいのことです。
ノアの箱舟は歴史的にも確認され、証明されています。

この当時の人たちは、本当に神様のことを自分勝手に解釈して自分勝手に歩むようになっていました。創世記の6章5節にはこうかいてあります。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみないつも悪いことに傾くのをご覧になった。」悪いことに傾くのをご覧になった。私たちの心は簡単に悪いほうに傾きます。人格のある神様が、心を悔やまれました。人を造ったことを悔やみ、心を痛められた、ともあります。神様はご自分で造られたものをすべて、壊そうと、なくならせようとしました。この時代のすべての人が、悪に傾いているにもかかわらず、ノアだけは「正しい」生き方をしていました。悪の中にあって、正しく生きるためには、色々な困難があったでしょう。ノアは神様の命じるとおり、箱舟を作り、家族とともにはいります。箱舟を作る間、ノアは伝道をしました。もうすぐ洪水になります。みなさん、神様を信じ、一緒に箱舟に入りましょう。そのノアの声もむなしく、誰一人として箱舟に入るものはいませんでした。ノアは七日間、人々に伝えましたが、答えるものは誰もいませんでした。そして雨が降り始めました。すべてのものが水の中に沈められました。

ヘブルにはこのように書いてあります。
信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を作り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続するものとなりました。

あなたを赦す、あなたを救う、と、語ってくださる方にすべて任せていきましょう。


2007年2月25日 浜野好枝師

ヨハネ6:1-15
命のパンであるキリスト

およそ一万人の人々が満足できるほど、食べ物が与えられたという、この奇跡は、悲しい出来事の後のことでした。この少し前に、イエス・キリストにバプテスマを授けたヨハネが、斬首されたのです。イエス様は、大きな悲しみが心にあったことでしょう。しかし、そんな中でも、イエス様は休むことなく、伝道を行い、病人をいやし、多くの人のために働きました。それを見ていた人々は、イエスの話を聞きたいと、次々についてきました。

夕方近くになり、イエス様はやらなきゃいけないことがありました。それをご自分で分かっていながら、ピリポに問いかけます。イエス様には、明確な信仰がないピリポにご自分を分からせようとする考えがあったのでしょう。ピリポはイエス様を遠巻きに見ているような、そんな姿がありました。ですから、イエス様のほうから近づき、その距離を縮めたいという気持ちがありました。ピリポが一生懸命頭を使い計算して、ピリポなりの答えを出したとき、アンデレが少年のお弁当に気づきイエスに知らせます。そして、いよいよこの奇跡が行われたのです。弟子たちがパンを人々に分け与えているとき、それを見ていた人々が、あることに気づきます。出エジプトの時代に、荒野で神様がマナを降らせて食べさせてくださったことを思い出したのです。そして、預言者であるイエスを王にしたいと考えたのです。しかし、イエス様はそのような人々の思いからするりと通り抜け、山にこもります。

信じるときに、神様は必ずそれに優る物を用意していてくださいます。必ず、してくださいます。キリストの弟子となっている私たちがすべきこと、「信じること」それがすべてです。
永遠の命にいたる朽ちない糧のために働く(=キリストを信じる)ことを目指して生活しましょう。


2007年2月18日 浜野好邦師

Ⅰヨハネ1:1-4
「私たちの交わり」

「私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全き者となるためです。」

イザヤ43:4には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」とあります。私たちの脳は、「愛してます」といわれるときに一番活性化されます。日本人の男性はなかなか言いませんよね。私の父は母によく言っていたそうですが、、、。今日は、ここにいる人でやってみませんか。聖書を見ながら、読むのでも結構です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
認知症になる人というのは、近所に話し相手がいない人が多いようです。わたしたちはいろいろな人と声を掛け合い、時には、「愛してます」と表現しあうことができます。
Ⅰヨハネ1:1から読んでみましょう。4節に、わたしたちの交わりから生れる喜びが、全きものとなる、本当の喜びになる、これです。わたし達の教会では、礼拝の後お茶を皆で飲みます。お茶を飲みながら話しをする、ここまでが礼拝なのです。このお茶を飲みながら色々な話をすることができる事で、わたし達の交わりができ、そこから喜びが生まれ、全きものとなるのです。水曜日の集会や、早天では、一人ひとりが聖書を読んだ感想や意見を言う時間がたっぷりあります。そうすることで、自分の考えを伝えることができ、人の考えることを知ることができます。
イエス・キリスト様がわたしたちに何をしてくださる方であるのか、それを経験していくといいと思います。私たちは心に傷を負うことが多くありますが、「邪魔にされる」ことほど、大きな傷を負う事はありません。イエス様はわたしたちと一緒にいてくださる方で、一緒にいることを本当に喜んでくださる方です。私がイエス様を信じ、信仰生活を始めた頃、神様はわたしに語りかけてくれました。「好邦よ。わたしはお前がここにいてくれることが嬉しい。」自分が祝福されていることを感じ、救われた思いでした。イエス様がどれほどわたし達の交わりを求めているか、その神様の招きをしっかり受け止めていきたいですね。なんでもかんでもイエス様と一緒にしたらこんなに楽しいことはありません。いつも一緒にいてくださる、そばにいて守ってくださる、愛してくださる神様、御子イエス様、聖霊様との交わりを深めていきましょう。

交わりの成熟を目指していきましょう。



07.1.28 中上勝雄師

全力で生きる
Ⅱサムエル10:8-12

ダビデ王がイスラエルをサタンの力から守る、ダビデ王の人生はそのような戦いの人生でした。私達の人生も戦いです。人間関係、病気、仕事、信仰生活、伝道、、、などの戦いがあるかもしれません。

このサムエル十章ではイスラエルの民の戦いの章です。アモン人、アラム人とイスラエルの戦いです。ダビデ王は攻撃される前に先手を打つことにします。ダビデの将軍ヨアブが先頭に立ち戦いに出ます。しかし、意気揚々と戦いに出たとき危機が訪れます。ヨアブは挟み撃ちに合い、あっという間に包囲されてしまうのです。このときヨアブは、二手に分かれて戦う策に出ました。そして、次のように声を掛け、励まします。「主はみこころにかなうことをされる。」直訳すると、こうです。「神は彼のよいと思うことをされる。」とにかく、愛する家族のため、町のため、国のため、神様のために頑張ろう。結果は神様のご計画の中にある。私たちがすべきことは、全力を尽くすことだ。ヨアブはそのように思ったのでしょう。死をも覚悟した上で、なすべきことは神様により頼み、信じ、最善を尽くすことだと悟ったのです。

私達にとっての戦いとはなんでしょうか。皆さんの祈りの課題とはなんでしょうか。イエス様のために取り組んでいることはなんでしょうか。復員をどのように伝えたらよいか祈ってるかもしれません。家族が救われるように祈ってるかもしれません。私達がすべきことは、神様の力を信じ、祈ること。そして、考えうる最善策を考え、全力を尽くすことです。祈るだけでなく、そのために全力を尽くしたかどうか、それが重要です。最善を尽くして、結果がだめだったらどうしよう、と結果を恐れることがあるかもしれません。祈り、全力を尽くすことで、悔いが残ることはありません。神様は良いと思われる結果を用意されています。

神様に信頼しつつ、最善の道を考え、自分の全力を尽くしましょう。



2007.1.21   浜野好邦師

祝福するもの

アブラハムが神様から選ばれて救いの基となるすばらしい祝福が書かれている箇所です。神様は、老人アブラムを選び、神様の言葉で生きていくことをさせました。そして、アブラハムが神様により頼み、従ったことにより、大きな祝福を受けました。
アブラハムが祝福の基であったように、わたしたちも祝福を受ける存在、そして、その祝福を広げる基としての存在です。
今朝、マルコ1章を読みました。イエス様が、弟子を選ぶ場面です。アブラハムがどこに行くのかわからずに神様に従ったように、イエス様によって招かれた人たちもイエス様の言葉により、すべてを捨てて、すぐにつき従いました。アブラハムもシモン、アンデレも神様に導かれていく生活神様の後ろから歩いていく生活をしたという点で共通点があります。行く場所が分からなかったアブラハムは、迷いが沢山あったはずです。しかし、結局は神様が導いた場所で、落ち着き、礼拝をささげることができました。シモンやアンデレはキリストを眼で見ることができました。直接イエスキリストが選び、「わたしについてきなさい」と導いてくださったのです。神様を見ながら生活することができました。
礼拝という言葉がありますが、礼拝とはなんでしょうか。わたしたちが今ここで行っているのは、礼拝であり、礼拝式です。儀式です。礼拝堂の中での、礼拝で、出席しているものの礼拝できていない人と、礼拝できている人がいます。
弟子たちがした礼拝とは、キリストの顔を見ることでした。そして、「ついてきなさい」という言葉に従い、キリストの背中を見ることで礼拝しました。わたしたちが礼拝できたかどうかは、この、キリストの顔を見る、背中を見ることができたかどうかで判断することができます。イエス様の顔とはどのような顔でしょうか。どういう風に見えるでしょうか。自分に笑顔を向けてくれているでしょうか。警察官のようにおっかない顔をしているでしょうか。お母さんのような顔をしているでしょうか。イエスキリストがどういう眼差しでみているか、そのイエス様の視線を感じながらコンタクトを取ること、それが礼拝です。わたしたちもイエス様からの招きを見ることができます。後ろから見ているような格好です。神様から選ばれたアブラハムは礼拝の中で神様とはどのような方なのかを知ることができました。神様がどういう方か分かっているとき、その人は恵まれた状態です。神様がどういう方なのか分からないときは信仰的に落ち込んでいる、弱ってる状態です。
新約聖書でも旧約聖書でも、神様は、恵み深く哀れみ深い方です。汚れているからといって、見捨てることはありません。必ず赦してくださいます。あわれみを受けなければならない存在である私たちを神様はこうやって選び今ここに招いてくださっています。

あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたをのろう物をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。創世記12:3

隣人の存在を祝福する生活をしましょう。



07.1.14 浜野好枝師

ヨシュア1:1-11
神ともにいます

新年聖会に行ってまいりました。新年とはいいものだ、と感じましたね。集まってくる兄弟姉妹にお会いして、嬉しく思いました。その会で私が特に教えられたことは、特に、悔い改めの必要を強く教えられました。横山先生から、ダビデの生涯の話を聞きました。ダビデは華々しいデビューをしたものの、姦淫という大きな罪を犯しました。しかし、ダビデはその罪をナタンから指摘されたとき、その罪を徹底的に素直に悔い改めました。その悔い改めがあったからこそ、ダビデはしっかりと神様の前に立つことができました。私もこの一年神様の前にそのように素直になれる信仰者でありたいと思います。

あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかるものはない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」ヨシュア1:5

今教会学校の中でも、この箇所が読まれています。ここには神様からの励ましが書かれています。モーセが出エジプトした後40年たち、召されました。その後、みなの前に立ったのがヨシュアです。ヨシュアはモーセのやることをじっと見つめ忠実に歩んできた人です。人の死を悲しむまもなく、神様はヨシュアに命令しました。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民はたって、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」指導者をなくして、普通であれば、どうしよう、、、と途方にくれているかもしれません。しかし、ヨシュアは神様からの励ましと約束を受けて、従いました。「わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう」「あなたがたが足の裏で踏むとことはことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなた方に与えている。」・・・神様は命令だけでなく、確かな約束もくださいました。
 わたしたちは、恐れというものが来ることがあります。五感で感じるところからその恐れは入ってきます。神様の言葉に没頭して進んでいくときに、恐れは入ってきません。ヨシュアの信仰がすごかったから、イスラエルの人々の信仰がすごかったから、すばらしい結果が生まれたわけではありません。ただ、「神様がともにいたから」それだけです。
イエスキリスト、神ともにいます、という約束です。イエス様が生まれてくださったこと、これこそ神様が生涯ともにいてくださる約束です。

一年の歩みを御言葉により目標を示し、足元を照らしていただいて進みましょう。


2007年1月7日 浜野好邦師

マタイ7:7-12
神さまの賜物

あけましておめでとうございます。今年第一回目の礼拝です。
神様の賜物とは神さまがプレゼントしてくれるものです。一番分かりやすいプレゼントは、イエス・キリストです。賜物は英語の辞書で見ると、ギフトです。神さまはイエス様を私たちにくれました。では、イエス様は私たちに何をしてくれるでしょう。イエス様は罪を赦してくださいます。私たちを罪のないものにしてくださいます。罪の許しを得た私たちは、さらに賜物として、信仰をいただきました。希望をいただきました。愛をいただきました。
「信仰 希望 愛」の色紙をまだもらっていない方、聖書愛読暦をまだもらっていない方は、今、差し上げます。この聖書愛読暦のすばらしいところは、同じテーマで、聖書の違う箇所を一週間読むことができるところです。七つの角度から勉強することができます。また、それを人と分かち合うと、同じテーマから受けたそれぞれの恵みを知り、さらに学びが深まります。今朝は、創造主なる神様のことを学びました。そこから、創造主なる神様のすばらしさと、「寛大さ」を学びました。自分の手で作った地球が、人により汚される。しかし神さまは、決して怒りません。そこに、「神さまの寛大さ」があると知りました。もしかしたら、クリスチャンが一番環境問題について考えなければならないのかもしれません。この学びをした後、中上先生と教会の掃除をしました。神様がお造りになった地球をきれいにしておくこと、そして、心もイエス様によってきれいにされていることを留めておいていただきたいと思います。
イエス様は一人ひとりのために、一人ひとりの賜物を用意しておられます。求めなさい。そうすれば与えられます。そして、求めるものに、それを与えてくださいます。「いらない」と思っている人には、決して与えられません。神様は与えたいと思っていても、与えることができないのです。だから、ほしいという気持ちを持ってください。ひとこと、「ください」といってください。くださいという気持ちを表すことが祈るということです。
私たちは信仰と希望と愛を与えられることにより、他の人のために何かをできます。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」許しを得ないと、互いの幸せのために仕えあうということができません。神様が私たちに希望しておられることは、神様が私たちの幸せのために仕えてくださっているように、私たちが互いの幸せのために仕えあうことです。神を信じることは、互いの幸せのために仕えあうことに同意することです。

   神様の賜物をもって、互いの幸福のために仕え合いましょう。
最終更新:2007年03月13日 09:05