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―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 『コーヒーブレイク/モカ』 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 真夜中だというのに、ひどくコーヒーが飲みたくなった。 私の部屋からキッチンに向かうためには階段を降りなければならない。築二十年にもなろうかという家の階段はかなりガタが来ていて、一歩踏み出すごとにぎしぎしと嫌な音を立てる。幸い向かいの部屋で眠っているはずのつかさが起きる可能性は限りなくゼロに近いけど、物音に敏感な母をはじめとする他の家族を起こしてしまう恐れがないわけじゃない。だから私は、不必要に騒がしくならないようにと、慎重に歩みを進めた。 キッチンは暗く、空気はうそ冷たくて、そのうえわずかに濁っていた。もちろん人の気配などあるはずもない。冷蔵庫のかすかな動作音だけが妙に耳に響いてくる。小さい頃はその暗闇に何か潜んでいるのではないかと怯えたものだが、さすがに今はそんなことはなかった。 窓からわずかに差し込んでくる街路灯のほの暗い灯火だけを頼りに、半ば手さぐりでキッチンライトのスイッチを指だけで引く。ぱちんという音と共に、ライトが二、三度またたいて点灯する。冷え冷えとした青白い蛍光灯の光が、シンクの周りだけを暗闇から浮かび上がらせた。 食器棚から自分のコーヒーカップを取り出し、水を一杯汲んでやかんに注ぐ。それをガスコンロにそっと置いてから、つまみをいっぱいにひねる。かちんという固い音がして、ぼうっと青い炎が盛大に噴き出す。もちろんそのままではやかんの取っ手が溶けてしまいかねないから、再びつまみを操作して適当な火力に調整し直しておく。 それからシンク直上の収納庫の扉をそっと開け、私専用のコーヒーセット一式を取り出した。といっても別に大したものじゃない。茶色のペーパーフィルターとレギュラーコーヒーの入った袋、そして陶器製の白いコーヒードリッパー、だ。 ドリッパーとコーヒーの粉は、こなたに譲ってもらったものだ。レギュラーコーヒーというのはサイフォンみたいな大掛かりな道具が必要だと信じていたのだが、一人分くらいならドリッパーで淹れるという方法もあるのだと教わった。そして袋に入っているのはモカのシティロースト。あいつの話によると、これが日本ではもっとも一般的らしい。 『まずは定番を押さえて、そこから徐々に自分の味を開拓していけばいいと思うヨ』 脳裏にあいつのニヨニヨ顔が浮かぶ。まったく、自分のこだわることになると、とたんに饒舌になるんだから。 そもそも、とりたててコーヒー好きというわけではない私が、なぜレギュラーコーヒーの味をしめてしまったかというと、あいつのあの一言が実はかなり痛烈に影響している。 『コーヒーはね、ダイエット効果もあるんだヨ』 その時はなんか眉唾だなと感じたが、あいつに勧められるままに道具をそろえ、何日か飲み続けているうちにすっかりハマってしまった。なんとなくあいつに踊らされているようで気にいらないのだが、確かに手間隙かけて淹れたレギュラーコーヒーの味は、インスタントのそれとは比較にならない、という事実だけは認めよう。 そんなことを考えながら、ドリッパーにペーパーフィルタの端を交互に折ってセットし、そこに一杯分のコーヒーの粉をスプーンですくって入れる。蛍光灯の光を反射してキラキラと輝く純銀製の専用計量スプーンは、ちょうど一杯がコーヒー一人分にあたるという優れものだ。 『これなら不器用なかがみんでも、計り間違える可能性が減るしネ』 ああ、もうっ。いちいち人の脳内にまで沸いてきてツッコミいれんな。 ほどなく、やかんが盛大に湯気が吐き出し始める。コンロの火を止め、一度は沸騰したお湯を、泡が出なくなるまで落ち着かせる。それから火傷しないように気をつけながら、オーブンミトンを手にはめて、やかんの取っ手を掴む。ただしここで焦って、いきなりお湯をどばどば注いではいけない。コーヒーの風味を百パーセント引き出すにはコツがあるのだ。 『コーヒーの粉はね、三十秒くらい蒸らすと、ぶわ~っと膨らんで味が出やすくなるんだヨ』 またもや脳内に出現したあいつが、いらんアドバイスを送ってくる。 「はいはい、わかってますよ~」 軽く応じながらお湯を少しだけ注ぐと、キッチン全体にレギュラーコーヒー特有の香ばしい香りが立ち込めていく。これもまたインスタントコーヒーでは味わえない魅力のひとつだ。 キッチンタイマーでかっきり三十秒を測り終えてから、さきほど注いだ時の泡が消えないうちに、残りのお湯をドリッパー上で円を描くように注いでいく。これが一番むずかしい。大量に注ぐとフィルターに張り付いた粉の壁が崩れ、コーヒー成分を均一に抽出できなくなる。逆に量が少なすぎるとお湯が途切れてしまい、香りが逃げてしまう。 「よしっ」 今回はなかなかうまくいった。フィルターの内側にコーヒーの粉が綺麗に張り付き、まるで噴火口みたいな様相を見せている。思わず小さなガッツポーズまで取ってしまう。やれやれ、こんな所はとても他人様には見せられないな。特に、あいつには。何を言われるか知れたもんじゃない。 さっそく淹れ立てのコーヒーを一口含む。わずかに苦味のある、しかし独特の風味がブレンドされた液体が口の中に広がっていく。いつの間にか冷えてしまっていた身体まで、ほのかに温められていくような感触を覚える。 「おいしいよ、こなた」 暗闇の中から一瞬、あいつの笑顔が浮かんで見えたような気がした。 (Fin) **コメントフォーム #comment(below,size=50,nsize=20,vsize=3)
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