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魔法使いには、なれない - (2023/10/13 (金) 17:29:36) のソース
遠く遠くと駆けていく子供たちの姿を見ながら、かつて幼かった時分に行った稚気溢れるいくつかの遊び、鬼ごっこやかくれんぼや缶けり……懐かしくそして今はもう行う事のないそれらの遊びを思い出しながら、年月を経てしなくなった事はどれくらいあるのだろう、とこなたは思った。 歩道を駆けていくランドセルの子供達はまだ鬼ごっこやかくれんぼの世界の中に確かに眩しく存在して、時間の有限さを知らず、過去の時間に見つめられ未来の時間に待ち伏せされる時間の残酷さと無縁に、はしゃいだ声をあげながら走り去っていく。かつて自分もランドセルを背負っていた時分には、あのように無邪気にはしゃいでいたのだろうか、とこなたは疑問に思い、しかし母は死に性格が内向的であった自分は、ランドセルを背負っていた頃から鬼ごっこや缶けりよりも、テレビゲームやアニメの方に慣れ親しんでいたのではなかったか、あるいは無理矢理行かされた合気道などの格闘技の方に。 長じて今でもテレビゲームやアニメに親しみ続ける自分は、年月を経たというのに何も変わっておらず、視界から消えた子供達よりもなお子供なのかも知れない、とこなたは思って苦笑した。 ……黒い服を着たのは、何年振りだろうか。 かつての母の葬儀の時は幼く、こなたは喪服を着なかった筈で、今も本来なら陵桜高校の制服で葬儀に参加しても構わない筈だった.それでもこなたが着慣れない喪服を着たのは、自分が陵桜高校の生徒ではなく、泉こなた個人として葬儀に参加するからだ、という子供染みたこだわりが理由だった。 そんな風に喪服を着なければならなくなったのは、中学時代の友達が突然夭逝したからで、こなたは彼女の葬儀に行く途中で、不意に駆けていく子供達の姿に目を奪われたのだった。 死んだ旧友は、文集に魔法使いになりたいと書くような独特な感性の持ち主で、一度、それをネタとしてかがみに話した事もあったかも知れない。彼女は中学時代にあまり友達のいなかったこなたの、数少ない親友の一人だった。 しかし、彼女はもういない。 死ぬには余りにも早すぎる歳だ、とこなたは思う。 死ぬのに丁度良い歳というのが幾つなのか、こなたには分からないけれど。 遠くに見える鯨幕の黒と白を見ながら、自分の同世代が死にはじめる歳になったとは思えないこなたは、現実感を失ったまま葬儀会場へと入っていく。久しぶりの喪服が不思議なほど窮屈に思えるのが、妙に気になった。 会場は黒と白で彩られたモノトーンの世界で、不意に外では霧雨が降り始め、湿った空気の匂いが鼻腔に満ち、こなたはふとその匂いに誘われるように思い出した。 かつて彼女とこなたは教室の片隅で、眩しく輝くクラスの中心の和気藹々とした空間を遠い目で眺めながら、二人だけで閉じているけれど充分に幸福な、ゲームやアニメのオタク話をしながら過ごしていた。それは中心に居る人たちから見れば地味で暗くて気持ち悪い光景だったのかも知れないが、彼女とこなたにとってはこの上なく幸福な時間だったのだ。 そういう、不意に思い出した他愛無い思い出の数々がもう戻らないものとしてこなたの胸に迫り、魔法使いになりたい、と文集に書いてしまうような彼女の幼さを自分はどうしようもなく愛していたのだ、とこなたは息が出来なくなるほど切実に思った。 香典帖に名前を記入しながら、そうじろうと一緒に来なくて良かった、とこなたは思う。 多分、こんな様子じゃ心配をかけてしまうし、誰かと一緒に居たい気分ではなかった。特に、彼女の事を知らない人間とは。 「クラスのお友達ですか?」 と不思議そうな顔をした受付の女性に声をかけられ、こなたは我に返る。 何故そんな事を聞くのか分からない、と反射的にこなたは思い、しかし、別にそれを聞くのは不自然な事でもないのに、と思ってこなたは自分の疑問を不思議に思った。 「いえ、中学時代の親友です」 そう答えて頭を下げたこなたが入った葬儀会場は静まりかえり、どこか奇妙な雰囲気があった。 制服姿の参列客は無く、いるのは大人ばかりで、生前の彼女の友達とは思えない。同世代の彼女の友達で、ここに来ているのがまるで自分だけみたいで……こなたは不意に納得する。 受付の人の言葉には、棘があったのだ。 だから自分は、何故そんな事を聞くのか、と思ったのだ。 こなたは彼女の死因を知らなかった。 彼女が自殺したと知るのは、後日の事だった。 ★ ☆ ★ 遠い教室のざわめきが聞こえる。 まるでそれは遥か宇宙の彼方から聞こえるように私からは遠い、とこなたは思った。 かつてのように、自分はその中心から余りにも遠すぎて無関係で、結果、自分は遥か辺境の片隅でささやかに、しかし残酷なほど冷たい視線でクラスメイトを見ている、とこなたは思う。 高校に入ってから、殆ど思い出す事もない感覚だった。 「元気ないわね?」 不意に目の前で、綺麗な二房の髪が揺れる。こなたを覗き込むのは、均整のとれた顔。 隣のクラスの親友、柊かがみだった。 彼女の、微かに厳しさを感じさせる、人の心の内を問うような切れ長の目と、その内にある、優しい世話焼きな心が自分に向いているのを感じて、こなたは笑みを浮かべた。 「べっつにー。今月いろいろあるのにお金が厳しいなー、って思ってさ」 「まーた変なグッズとか買ったんでしょう。しょうがないなあ」 かがみが呆れたような笑顔を見せる。こなたは彼女が、しょうがないな、と言って見せる笑顔が好きだった。その笑顔には彼女らしい世話焼きな愛情が感じられ、かがみが優しいというのが、よく分かるような気がするから。 余り他人と関わるのが好きではなかったこなたが、高校に入って大きく変わる事が出来たのは、彼女の力が大きい。 オタクとして自分の趣味にどんどんのめりこんで内向的だったこなたに、躊躇無く踏み込んできたのはかがみで、オタク趣味と他人との付き合いを両立させる事は出来ないとか、オタクじゃない人にはオタクの事は分からないとか思っていたこなたにとって、かがみの存在は眩しいほどに綺麗で、まっすぐで、愛しいもので、気づけば、彼女の影響で自分は変わっていた。 「グッズを買うのはオタクのデフォだよー。保存用や布教用も要るし」 「お金がないなら、まずその同じものを複数買うのを止めろよ」 実際にはこなたは、最近は余りグッズを買っていなかったが、彼女の事をかがみには説明したくなかった。オタク向けの店に入る度に、どうしても彼女と過ごした時間を思い出し、いつものようにのめり込めない、などという話は。 「どしたの?こなた?」 かがみが不思議そうな顔をしてこっちを見ている、その凛として澄んだ眼差しの中にある幼さが、チラチラと覗くようにこっちを見ている。 「何でもないよ」 とこなたは笑った。 かがみがこなたの様子がおかしい事に気づいたのは、今朝の事だ。 こなたが、何でもないよ、と笑った時、かがみはどうしても拭えない違和感を覚えて、一度気になりだすと、それがひっかかって仕方がない、まるで喉の奥に小骨が刺さったみたい、とかがみは思う。 絶対おかしいと言えるほどハッキリした何かがある訳じゃないけど、かがみには、今日のこなたはどうにも変に思えるのだ。そう思うのが自分だけなのか、かがみはみゆきやつかさに尋ねてみた。 「今日のこなた、何か変じゃない?」 「え、そうかなあ」 そう言うつかさは、のんびりした様子で首を傾げる。そんな仕草のいちいちが子犬みたいで愛らしくて、双子だけど自分とは違うな、とかがみは度々、つかさについて思う。 「みゆき、どう思う?」 みゆきはいつものように笑顔を絶やさない様子で、眼鏡の奥の柔和な目をかがみに向けた。 「そうですねえ……言われてみれば、少し元気が無かったかも知れませんね」 「そうよね!」 みゆきが同じ意見だったので、かがみはつい声を大きくしてしまって、周囲からの奇異な視線を貰ってしまう、かがみは赤面して咳払いした。 「ただ……泉さんはお金がなくて、とおっしゃっていますし、それが理由ではないでしょうか」 「でも、あいつがグッズが欲しくてお金が足りないとか言うのは、いつもの事じゃない」 なんていうか、いつもの落ち込み方とは違うのだ、とかがみは思うけれど、みゆきやつかさにはイマイチ伝わらないみたいでもどかしい、それに何だか自分ばかりがこなたを心配しているのがハッキリして、馬鹿らしくも思った。 どうせ、またなんかネトゲでアイテム無くしたとかそんなのよね。こなたを心配して損した事なんて、今まで一回や二回じゃ済まないもの。 そう思いつつも、かがみは放課後、こなたを誘おう、と心に決めたのだった。 放課後の雑踏が目の前を流れていく。 プラスチックのテーブルの無機的な白さが目に眩しい。外資系の有名なコーヒーチェーン店の外のカフェテラスで、かがみ達は行きかう人々を横目に、四人で歓談していた。 街のざわめきは静かに四人を包みこんで、遠い車道の音と人々の足音が控えめに聞こえてくる。かがみがその遠い音を聞きながらこなたを見ると、小さい体がいつもより頼りなく、その幼い膝を揺らしているのが見えた。折れそうに細いふくらはぎが力なく椅子から伸びている。 相変わらずどこか元気がない。さっきまで一緒に遊んでいても、どこか上の空だった。そしてかがみはそんなこなたが気になって、いつだって視線はこなたを追いかけて、いつの間にか自分まで上の空になってしまっているのだ。 これじゃいけない、とかがみは思う。 「あのさ……」 かがみは言いかけた言葉を飲み込んだ。 不意にこなたの視線が、一点を注視し始めたからだ。 かがみが店内を見回すと、テラスの白い天井につけられたテレビがニュース番組を流していて、それを見ているこなたが固まっている。 ニュースは高校生がいじめで自殺した事を伝えていて、それを聞いたこなたはみるみる青ざめ、尋常な様子ではなく、微かに震えてさえいる。 「こなた、どうしたの?」 声をかけられて、ハッとした様子でこなたは言う。 「ん……何でもない」 そう言うこなたはもう震えておらず、少しわざとらしいほどに明るく、にこりと笑ってみせる。かがみは訳が分からず、それを説明もしてくれないこなたを不満に思った。 「ああいう事件って、多いわよね」 その言葉にまた、こなたの表情が固くなる。 「ん……うん」 「まあ、ああいうのってイジメられる方にも問題があるものだけどね。それにしたって……」 かがみにとってそれは何気なく言った言葉だったが、その言葉を聞いた途端、こなたは再び震えだし、突然椅子を倒して立ち上がると背を向けて駆け出そうとした。 「こなた!?」 「ちょっと。ごめん……!」 振り返らず走り去ろうとするこなたに、つかさとみゆきは呆気にとられ、気づけば、かがみだけが反射的に走り出してこなたを追いかけていた。 「来ないで!」 振り向いたこなたは。 泣いていた。 「こなた!」 こなたは足が速い、雑踏の中をその小さな体ですり抜けて走るこなたに、かがみはすぐにでも置いて行かれそうになる。人々は泣きながら走る小さな女の子を、まるで興味がないものみたいに無視している。一瞬だけ視線を注ぐ人々も、見てはいけないものを見たみたいにすぐ顔を逸らし、灰色の人々の群れの中へと紛れ込んでいく。 午後の曇り空の街で、かがみは無感情な人ごみの中を、ただただこなたを追いかけて必死な気持ちで走った。涙の理由を聞くために。 かがみの胸の中に不安が、水の中に落とした黒いインクみたいに広がって、手足が痺れるような感覚と共に寒気に変わる。 こなた、何で泣いてるの?何で元気がないの?何で……。 さっき振り返ったとき、こなたの目にはかがみへの敵意が……憎悪があったような気がした。それが、かがみを傷つけて必死にさせている。 「こなた!!」 闇雲に走っていたこなたが、暗い路地裏の行き止まりに入ってしまい立ち往生した。追いついたかがみに振り返る彼女の幼い頬は涙に濡れていて、感情を抑えきれないこなたは、まだ微かに震えている。 「何で逃げるのよ」 こなたはまるでどんな顔をしたらいいか分からないみたいに目が泳いで、泣きそうな顔をしたかと思うと、怒り出しそうな雰囲気になったり、その少女らしい表情をめまぐるしく変えた。こなたはきっと、自分の感情をどう整理したらいいか分からないんだ、とかがみは思う。 「かがみ……」 涙に濡れた目で、こなたはかがみを見てはっきり言った。 「私も、死ななきゃいけない……!」 小さく切実な、悲鳴のような叫びにかがみはどう答えていいか分からず戸惑った。 「何言ってんのよ、急に……」 「ニュースで言ってたでしょ。イジメで自殺したって……あの子は、私の親友だったんだよ。前に話したよね。文集に、魔法使いになりたい、って書いた子」 そう言うこなたの震えは、もう止まっていた。 「あの子に問題があって、自殺しなきゃいけないなら、私も自殺しなきゃいけないんだよ。ううん、かがみが悪いって言ってるんじゃないよ。私は、私達は本当は健全な人間じゃないんだ。だから私も本当は、この世界にいちゃいけない……!」 かがみは、自分の不用意な発言が激しくこなたを傷つけたのを知った。こなたの言葉の本当の意味は分からなくても、自分の親友が自殺して、そのニュースに対して、自殺する人間にも問題があった、なんて言い方をしたらどんなに傷つくか、かがみにだって分かる。 そしてその自分の失言を取り戻すための言葉を、かがみは上手く見つける事が出来ないのだ。 「友達からさ、遺書が届いたんだけど、私、怖くて開けられないんだ。高校になってから、かがみがいて、みんながいて、楽しくて、その子とすっかり遊ばなくなってたから、そんな私を責める言葉が並んでるんじゃないかと思って、怖くて。ううん、仮に責める言葉が無かったとしても、私に遺書を送るってことは、本当は私に助けて欲しかったって事だよね?でも……私には何も出来なかった。彼女は死んで、もういなくて、いじめられる人間には『問題』があって、それで、それでね……私もきっと、彼女と同じ『問題』を抱えているんだよ……」 だから、自分も死ななければならない。 あの頃、一緒に教室の、世界の中心を遠い目で眺めていた私たちは、世界の中心から見れば『問題』があって、それのせいで彼女は死んでしまった。それなのに同じ『問題』を抱えている筈の自分は、何故生きているんだろうか。 いつか、人々の悪意は私を殺そうと襲いかかってくるだろう、そしてその時、人々は私の抱える『問題』のために、私が殺されるのも当然だと断じる筈だった。そしてそれは正しくさえある。何故ならあの優しいかがみでさえ、断じる側の人間として『問題』を語るのだから……。 こなたは自分が、既に死刑宣告をされた死刑囚になったような、暗く、どうしようもない気持ちに向かって高揚していくのを止められなかった。馬鹿げていて、支離滅裂で、子供みたいに繊細でどうしようもない考え、そう思っても、瞼の裏に浮かぶ彼女の笑顔が、こなたをどうしようもなく暗い気持ちに追い詰めるのだ。 「こなた……」 かがみの中で、目の前の、社会の悪意に怯える幼いくらいに小さい少女を、ただただ救いたいという想いだけが膨れ上がった。そしてかがみは気づけばこなたの方へ一歩踏み出していたのだ。 「来ないで」 かがみは、あの教室の、世界の中心の側にいる人だから。 私たちとは違う。 私たちとは、違うんだ。 その確信が、こなたにかがみを拒絶させる。かがみは光の中に居る人間で、死ななければいけない自分達とは違う。自分達を断罪する、『問題』を抱えない側の人間こそが、かがみなのだ。だから本当の意味では、私とかがみは分かり合う事ができない。いや人間は本当は、誰とも分かり合う事など出来ないのだ、だからこそ、彼女は自殺するしかなかった……その思いがこなたに、かがみを強く強く拒絶させた。 「来ないで」 「いやよ」 かがみは、自分を拒絶しようとするこなたの目に挑むように、まっすぐに二人の間にある境界を超えた。丁度、こなたと知り合ってオタクの世界に詳しくなったみたいに、かがみは、踏み込むのを躊躇わない。 「嫌!」 突き飛ばそうとするこなたの手をかがみが掴む。何を言えば、どうすればいいのか、かがみにだって分かっていた訳じゃない。でも、謝りたかった。自分はこなたを嫌ったりしないって分かって欲しかった。自分は味方なんだよ、って伝えたかった。 「こなた、聞いて、私……」 「嫌!」 かがみの手から逃れようとこなたがもがいて、不意に二人は体勢を崩し、壁に向かって二人で倒れこんだ。 「あ……」 唇が、触れた。 一瞬、時が止まったみたいに二人は動くのをやめ、いかなる言葉も発さず、気づけば、ただ唇にある感触に身を委ねていた。 まるで恋人同士みたいに。 不意に襲われた胸の高鳴りにこなたは眩暈を起こし、自分を包むかがみの、女の子らしい柔らかな匂いの中へと深く深く沈みこんでいくのを感じる。かがみもまた、目の前にいる小さな少女の柔らかな唇の感触に、不意打ちの欲望を覚え身動きが出来ないでいた。 「ごめん……」 やっとの事で体を離して、かがみが呟いたのは謝罪の言葉だった。 「無神経だったよね。その……ニュースのこと。こなたの友達だったんだし。どう謝ればいいか分からないけど、ほんとごめん……」 頭を下げるかがみの、揺れる髪をこなたは見ている。 「ううん、いいよ、別に。かがみの言う事は変な事じゃないし、多分、普通の人が、普通に思う事だから……」 「そんな言い方しないで」 でも自分は普通じゃない。 こなたがそう心の中で付け加えているのが、かがみにも分かるから。 「こなたが普通じゃないなら、私も普通じゃなくていい」 いつだってかがみは、超えられない線を踏み越えて、私の心の一番奥に触れる。そう思うとこなたは涙が出るのを止められなかった。違うんだよ、本当は、私が普通にならなきゃいけないんだよ、かがみが普通じゃなくなっちゃったら、かがみまで死ななきゃならない。こなたはそう思っても口には出せず、ただただ泣いていた。そしてそんなこなたを不意にまた、柔らかい匂いが包んで、気づけばこなたはかがみに抱きしめられていた。 「ごめんね、こなた」 もうこなたは、かがみの胸の中で泣きじゃくる事しか出来ず、そして、自分は彼女が死んでから初めて、その死の悲しみのためだけに泣いているのに気づいたのだった。 二人の少女は支えあうように、暗い路地裏の世界の中で確かに抱き合っている。 そして二人は、それを覗いている視線があるのに気づかなかったのだった。 ★ ☆ ★ 不幸や悪意は、潮が満ちるように少しづつやってきて、気づいた時にはもう抜け出す事が出来なくなっている。 たとえば、少しづつ世界から蓄積された一人の悪意が誰かを殺すとき、巻き込まれた人間はそれを避ける事は出来ない、交差点に悪意のトラックが走ってくるとき、電車がブレーキを踏まずにカーブにさしかかる時、もう誰も、それを避ける事は出来ない。 こなたは夢の中で一人の少女が、晴れた日にホースで水をかけられ水浸しで授業を受けているのを見る。彼女の机の上には花瓶が置かれ、少女がそれだけずぶ濡れになっているのに教師は気にも止めず、授業は静かに進んでいく。周囲の生徒はずぶ濡れの彼女をくすくす笑い、誰もがその光景を楽しんでいる。彼女は休憩時間に逃げるように屋上へ行き、授業中に散々コンパスで刺されて血だらけになった背中を庇うように、早足で屋上の柵を乗り越え、そして。 地面に落ちる。 夢の中で地面に激突してバラバラになった少女は、かがみだった。 「こら、こなた、起きろ」 聞きなれた声に目を開けると、もう授業は終わってしまったらしく、休憩時間になっていた。目の前には少し怒ったような顔をしたかがみがいる。でもその怒り顔は演技だと、こなたにはすぐ分かった。 「おはよう、かがみ」 「おはようじゃないわよ。どうせ授業中も寝てたんでしょ」 「いや~、ついつい夜更かししちゃってさ」 未だにさっき見たような悪夢にうなされる事があって、上手く眠れないのだ。ネトゲのキャラのレベルばかりが上がっていくのが最近の深夜だった。 「夜更かしって……健康管理とか大丈夫なんでしょうね」 あれ、とこなたは疑問に思う。いつもなら、どうせネトゲとかなんでしょ、とか言ってくるのに、今日のかがみはこなたを本気で心配しているようで、どこか不安そうだった。 「あはは、大丈夫だよ。ネトゲやり過ぎてるだけだから」 「ほんとに?」 そう問うかがみの声音が鋭くて、思わずこなたはギクリとした。途端に、その目を見返す事が出来なくなる。 「こなたさ……思いつめても、他人に甘えたりしないでしょ。だから私、結構心配してるんだからね!」 そう言うかがみが、まるで姉や母のように自分に親身になってくれているのが、こなたにも分かる。ちょっと泣きそうだ。 「ごめん……でも、大丈夫だから。それと、かがみが心配してくれて、凄く凄く嬉しい」 思ったよりずっと素直な言葉がこなたの口から滑り出て、こなたもかがみも思わず赤くなった。そのせいか微妙な空気が流れ、こなたは思わず照れ隠しに続けた。 「ほんと、嬉しくて抱きしめたいくらいだよ~」 そう言って飛びつくこなたに、かがみがまた、怒った振りをして言う。 「もう、やめんか!」 こうやって、ふざけあえる時間がどれだけ幸福なのか、今のこなたには痛いほど分かる。そしてこんな時間が永遠に続けばいいと思っていたし、続くと信じていた。 そんな筈、ないのにね。 不意に、扉を開ける音が響く。 振り返ると入ってきたのはみゆきとつかさで、二人はこっちを見て一瞬、何故かびくりとしたように体を震わせた。 「あ、つかさ、みゆき、どうしたの?」 彼女達の顔には微かなきまずさと、恐れと、得体の知れない戸惑いが刻まれていた。彼女達はじっと、かがみに抱きついているこなたを見ている。 「ん?どしたの?つかさ、みゆきさん?」 こなたがそう問いかけてようやく、みゆきはいつもの笑顔を見せ、つかさも安心したようにこっちへやってきた。 「ううん、何でもないよ、お姉ちゃん」 そう言うつかさはもう、いつものつかさだった。 この時のつかさとみゆきの態度の意味が分かるのは、数日後の事だ。 自分達でも気づかない内に、静かにその噂は広まっていた。 泣きながら走るこなたを追いかけて、路地裏でキスをして抱きしめあっていた二人、それを見かけた生徒が、面白半分に誰かにその事を話さない訳は無かったのだ。 でもこなたもかがみも、それに気づかなかった。かがみがわざわざ隣のクラスに頻繁に行く事も、噂の信憑性を上げている。いやそもそも、この噂が嘘なのか本当なのかは、本人達でさえ分からない事だった。 だからある日、唐突にかがみは見知らぬ男子生徒に言われて、その噂を知ったのだった。 「柊さん、あんたレズなんだろ」 「はあ?」 その見た事もない男子生徒は、明らかに馬鹿にした口調でそう言って、伸ばし放題の手入れしていない髪の下の目を、きょろきょろさせながら言った。 「相手は隣の組の泉なんだろ。なあ、あんたレズなんだろ?なあ?」 「ちょっと!」 詰め寄るように男子生徒が近づいてくる。 その馴れ馴れしく不愉快な態度に、思わずかがみは男を突き飛ばしていた。 「なんなのよ!」 尻餅をついた男が、怒りをみせて立ち上がり、かがみに掴みかかろうとした。怖くなってかがみは逃げ出す。廊下を歩く生徒達は奇異の視線を向けるばかりで、ただ棒立ちでその様子を見ている。 逃げるようにかがみは走り、人々の奇異の視線は追いかける男とかがみ、両方に等しく注がれ、そして誰もかがみを助けなかった。 かがみは振り返らずに自分の教室まで戻って、何故自分がこんな目にあわなければいけないのか、その理不尽に腹をたて、そしてふと目をあげて周囲を見回すと、教室の生徒達の視線までもが、かがみを奇異なものとしてみているのだった。 「そうか……」 自分はレズだという噂が、教室にも浸透しているのだ。 そういえば最近、峰岸と日下部の態度が少しよそよそしくなっているのを感じる事が多かった。自分がすぐに隣のクラスに行くせいかと思っていたけれど、その裏側にはきっと、自分の知らない事情があったのだ。 思えばクラスの女子はかがみを避ける傾向が日に日に強くなっていて、今も、誰もかがみの方に目を向けまいとしているのが分かる。 自分はこの教室の中で、どうしようもなく孤独だった。 かがみの背後の扉から入ってきた日下部は、いつもなら元気に、おっすひぃらぎ~、などと挨拶する筈なのに、今は一声もかけずに自分の席へ戻り、峰岸もそれに続く。 かがみはもう、それにいかなる言葉も無い。 かがみは早くなる鼓動を抑えて教室を出た。急いでこなたのクラスに行き、すぐさま、かがみはつかさに声をかけた。 「つかさ、ちょっと」 姉妹の血の絆だけが、今のかがみに信じられるものだったから。 「なあに、お姉ちゃん」 つかさはいつも通り笑っているように見えたけど、その笑顔には微かな翳りもあったのだ。どうして今まで、それに気づかなかったのだろう? 目立たないように教室の隅まで行き、かがみは声を落として尋ねた。 「私が、その……レズって噂が流れてるの、知ってる?」 かがみがそう尋ねた瞬間つかさは青ざめ、固く緊張した様子で顔を強張らせた。かがみの言葉に哀れなほどつかさは動揺し、悲しげにその表情を曇らせ、まるで酸素が足りなくなったみたいに苦しげに一つ息を吐いた。 つかさは、嘘がつけない。 その事をかがみは、今は嬉しく思う。 「うん……噂はね、あるよ」 と消え入りそうな声で、正直につかさは答える。 「やっぱり……ねえ、つかさ、それって……」 不意にかがみは口ごもる。 自分はそれをつかさから聞き出して、何がしたかったのだろう? ただつかさに事実を確認したかっただけで、何も考えていない自分に気づく。だからつかさがそれを知っていると確認した途端、かがみは言葉を探すために黙らなければならなかったのだ。 そんなかがみに、つかさは言う。 「お姉ちゃん、別に、そんな事ないんだよね……?」 つかさの唇が、微かに震えている。 「え……」 「こなちゃんとは、ただの友達なんだよね……?」 そうだ、と断言すればいいだけの筈だった。 でもあの日あの時の唇の感触を、夜眠る前に何度も思い出して胸が高鳴るのをかがみは嫌というほど知っている。あのとき、あの瞬間の同性愛的な空気と、確かに抱いたこなたへの痛いほどの愛情に、かがみはもう気づいてしまっている。 だから、かがみは一瞬、口ごもった。 「あのね、ゆきちゃんね、知らない男子から、お前もレズなのか、って言われたんだって。私、悔しくて……」 つかさは、気づけば泣きそうになっている。 つかさ自身もまた、レズの妹、という陰口や、妹もレズ、などという口さがない噂の的になっていて、かがみはそれに気づかなかった。 いや、つかさやみゆきだけではない。 日下部や峰岸もまた、かがみとよく居るというだけでレズの噂をたてられているのだった。悪意は連鎖的に広がって、気づけばかがみを取り囲んでいる。 かがみは、ただ呆然とした気持ちで立ち尽くした。 目の前でつかさは泣き始めていて、かがみが慰めるために妹の手を握ると、教室の隅で誰かが、姉妹百合、と侮蔑するように言った。 かがみが漆黒の怒りを持って振り返り、視野狭窄を起こすほどの激怒と共に教室を見回すと、その声はどこから発せられたか分からない不特定の声で、教室は静かにかがみを包囲している。悪意は形を持たず、姿を見せず、教室全てがかがみの敵で、ここはまるで悪意の巣窟だった。 かがみが守ってあげることも出来ずに、つかさは哀しげに泣いている。 そして教室は、誰一人つかさの味方をしないのだ。かがみは本当はつかさを抱きしめてあげたかったけれど、教室の悪意はそれすら許さないだろう。 「ごめんね、つかさ、こっちのクラスには来ないようにするから」 それだけ言ってかがみは教室を出た。 そして、自分の教室に戻らなければならない。 その、悪意の砦に。 こなたも当然、周囲の悪意に気づき始めていた。 ああ、とうとう、自分も殺される時が来たんだ。 そう思った。 みゆきやつかさにまで黒い噂が流れ始め、こなたは自然と二人と距離を置いた。それでも話しかけようとする二人を避けるため、こなたは休憩時間に教室からいなくなるようになり、誰もいない場所ばかりを探して校内をふらふら彷徨うのだ。 何が悪かったんだろうね? 廊下ですれ違う誰かが、あ、レズの子だ、と呟くのが聞こえ、こなたは振り返ろうとして、やめた。振り返っても見えるのは廊下を歩く全ての生徒で、そして廊下を歩く全ての生徒が悪意の人であると考えて、どんな間違いがあるのだろう? 世界の全てと戦えると思うほど、こなたは思い上がってはいなかった。 自分はこのまま嬲り殺されるのだろう。 彼女のように。 それが当然の事のように腑に落ちるのが、怖かった。最初から友達の少ないこなたは、みゆきやつかさと関わる事が無ければもう誰も話す相手はいない。教師であるななこや、下級生であるひよりなどに話す気は、当然、ない。 死ぬなら、一人で死ななければならないから。 校舎を歩いていると、ふと昔、彼女と二人だけで中学の校舎を歩き回ったのを思い出した。何かの学園もので校舎の構造がおかしいという話になって、冗談めかして、実地確認、と言って笑いあった。全ての人間は学校に通うのに、大人になったらその時の事を忘れてしまうのかな、と彼女は言って、だから、覚えておこうとも言っていた。 でも彼女は、大人になれなかった。 忘れる事の出来ない校舎の悪意が彼女を殺してしまった。 陽の差さない校舎の影の暗がりで、こなたはたった一人でチョココロネを食べ始める。空は青く、流れる雲は白く、太陽は柔らかいその日差しを地上に投げかけていた。 「今日も世界は平和だねえ……」 そしてその穏やかな世界は、自分とは関係の無い世界だ、とこなたは不意に思う。 自分がレズだという噂……その噂を否定すれば、全ては解決するのだろうか。いやそもそも、噂は嘘なのだろうか? あの裏路地でかがみに口づけされたとき、目も眩むほどの愛情に身を焦がされたというのに? かがみの事を思って胸が締め付けられるのは、一度や二度ではない。 かがみの笑顔、かがみの優しさ、かがみの眼差し……かがみの持つ全ての魅力が、こなたをどうしようもなくその恋に向かって引き寄せていくのだ。 だから、こなたは確かに、かがみを愛していた。 自分は、レズなのだろうか。 こんなにかがみが好きなんだから、そうなのかも知れない。自分は確かにかがみを恋愛対象として愛していて、だから噂は嘘じゃなく、私はレズで、それが理由でこんな目にあうのなら、もう解決策なんてないんだ、とこなたは思う。 そこへ雑草を踏む微かな足音が聞こえてきて、こなたはびくりと震えた。 「こなた!探したわよ」 聴きなれた声が響く。 他人の声から逃れてここまで来たというのに、どこまでいっても他人との絆が断ち切れない。 そして、こなたのいま一番求めている笑顔が、陽の差さないこの暗がりに向かって咲いた。 「かがみ……どうして」 微笑んでいるかがみは真っ直ぐにこなたの近くまで歩いてきて、弁当箱を膝の上に置いた。 「あんた最近ぜんぜん見かけないからさ。ここまで探しに来ちゃったじゃない」 一番会いたい相手だったけど、一番会いたくない相手でもあるんだよ、かがみ、とこなたは心の中で呟いた。 私は、かがみの事を愛し過ぎている。 不意に、暗がりにいる二人を見かけた生徒が通りすぎざまに、こっちをちらっと見て言った。 「お、レズってる、レズってる」 その言葉がこなたの胸に刺さり、かがみは不快そうに顔をしかめた。かがみだって、その言葉にきっと傷ついている筈だ。 私は確かにかがみを愛している。 だからもう、一緒にはいられない。 「私たち、話すのやめよっか」 こなたは気づいたらそう口走っていて、それを聞いたかがみが傷ついたように顔を伏せる。不意に視界が滲み、こなたは涙をこらえながら言葉をつむぐ。 「こうやって一緒にいるせいで、嫌な思いをするんだしさ。つかさやみゆきさんにまで、迷惑かけられないよ」 かがみが顔を伏せているのは、泣いているからだろうか、とこなたに思わせるような声でかがみが言う。 「こなたはもう、こんな目に会うなら、私とは一緒にいたくないってこと?」 「そうじゃないけど……」 泣きたいのは、私もだよ、かがみ。 「だって、かがみだって嫌でしょ。変な噂がたてられるのはさ」 私のせいでかがみやみんなが嫌な目に会うなんて、耐えられない。だから私はただ一人になって、暗い、より暗い闇の中へと進んでいくしかないのだ。 「こなたは、本当にそれでいいの?」 そう問いかけてくるかがみの眼は厳しく澄んで、こなたの本当の心まで暴いてしまうように思える。見つめていると全てを見透かされる気がして、こなたは目を背けた。 「かがみはまた、レズとか言われたいの?」 心にも無い言葉を、絞り出すようにこなたは言った。涙が出ないように必死に堪えながら。 「そう……それなら、もういい」 かがみはそう言って立ち上がると背を向けた。 「あ……」 思わず手を伸ばす。 振り返らず歩いていくかがみを見て、こなたは自分が本当に大切なものを失った、と思った。 でも、それでも、かがみを陽の差さない暗い場所に……自分の世界に巻き込む訳にはいかないんだ。 こなたはかがみが去ったのを充分確認してから、遂に耐え切れず泣きだし、押し殺した自分の本当の気持ちを呟いた。 かがみ。 かがみ、本当はね。 どんなに罵られても、レズだって何万回言われても。 かがみと、かがみとずっと一緒にいたかったよ。 「かがみ……!」 そしてこなたは、その陽の差さない場所で泣き続ける。 [[魔法使いには、なれない 後編>http://www13.atwiki.jp/oyatu1/pages/1271.html]] **コメントフォーム #comment(below,size=50,nsize=20,vsize=3) - (/ _ ; )b -- 名無しさん (2023-10-13 17:29:36) - 絶対負けるな!がんばれ! -- 名無しさん (2010-04-10 13:44:12) **投票ボタン(web拍手の感覚でご利用ください) #vote3(5)