幸せの定理。
朝から数件の不在着信を知らせる鬱陶しいピンク色のランプにかしゆかはうんざりしていた。わざと、ほかのメールは開いて返信してもその不在着信にだけは手をつけなかった。理由はただひとつ、相手が悪い。
当たり前のように仕事をして、大学へ行って。家に帰れば料理を作ってご飯を食べてくだらない深夜番組を見て眠りにつく。何も変わらない。変わったのは触れることが出来る距離にのっちがいないだけ。
かしゆかは、大学で数回のっちを見かけた。のっちを見つけるのは昔から得意だ。恋焦がれた時期に鍛えたこの能力は未だ衰えていなかった。その度にかしゆかは素直に喜ぶ、だが名前を呼びそうになる瞬間に、飲み込む。悲しむのももう慣れた。これがかしゆかの選んだ道だからだ。なのに、この不在着信は。
大学を終えて自宅へと帰る。ひとりで家に帰るのももう慣れた。部屋に着くと、薄暗い部屋がかしゆかを迎える。電気をぽちっと点けて、教科書の詰まった重い鞄をどさりと置く。着替えずにそのままベッドに倒れこんで、ポケットに入りっぱなしだった携帯電話を手に取る。
(…不在着信、増えとる。)
マナーモードを解除してただぼうっと携帯電話を見つめていると、たった今マナーモードを解除した携帯電話が待ってましたとでも言わんばかりに、音を鳴らす。サイド画面に表示された名前は、“のんのん”
「……もしもし。」
痺れを切らしたかしゆかが電話に出た。一言、のっちに言いたかった。何で、別れた女になんか電話してくるのよ、と。怒鳴り散らしてやりたかった。仕事の用件ならメールにしてよ、と言いたかった。
『やっと出てくれた。』
「なんよ、用件は?」
『…冷たいね。ゆかちゃん。』
かしゆかが冷たく言い放つと、のっちは少しの沈黙のあと、寂しそうに呟いた。ベッドに横たわったままのっちの声を聞くのは、辛い。
『あれから、初めてこうやって話すね。』
「…うん。」
『大学でも会わんから…心配しとったんよ。』
(ゆかは会いよるよ。)
『今ね、ゆかちゃん家の前におるんよ。』
「なんでなん!」
ばっと身体をベッドから起こして声を荒げた。振り返ってベランダを見た。思わず窓に駆け寄って使い古したサンダルをはいてベランダから見下ろした、マンションの下。
———のっちだ。
「なんしよんよ、のっち。」
『いやあー、ゆかちゃんあまりにも電話に出てくれないからさあ。どうしても言いたいことあったから会いに来ちゃった。』
「…あがる?」
『んーん。ここでいいよ。』
見下ろした道路にはのっちがいて。黒髪のボブ頭がかしゆかを見上げていた。その表情は付き合っていた頃のような穏やかな表情で、一瞬でかしゆかをしあわせに引き戻した。思わず出た言葉にのっちはうんとは言わなかった。その代わりに沈黙を残した。
『……のっちね、あ〜ちゃんと付き合うことになったよ。』
その言葉は一瞬にしてかしゆかを地獄へと送り出す。
『ゆかちゃん。ありがとう。』
のっちは、薄っすら涙を浮かべている。かしゆかの瞳からあふれ出そうとするものを奪って、のっちが目に涙を浮かべている。かしゆかは、消えそうな声で言った、「…おめでとう。」と。
のっちはへへっとだらしない顔で笑うと「ありがとう。」と返した。更に、「ゆかちゃんが背中をおしてくれたおかげだよ。」と付け足した。
のっちにはしあわせになってほしかった。
かしゆかが、のっちと付き合ってしあわせだったのと同じように、のっちにも本当に好きなひとと付き合うしあわせを味わってほしかった。それはかしゆかが望んだこと。
なのに。
こんなにも目の前が真っ暗なのは何故だろう。
『ゆかちゃんも、いい恋してしあわせになってね。』
いつか、かしゆかは言った。
もう、のっち以上の恋人は現れない、だから、かしゆかは。
幸せになれない。
最終更新:2009年11月11日 03:21