「この道を走り進み進み進みつづーけたぁー」
雲ばかりの空を仰いで歌う。
冬の乾いた空気の中じゃ、のっちの声は響かなかった。
[痛い、痛いよ]
「…ごめんね、、」
かしゆかが寝ているベッドから、少し離れた椅子に座ってのっちは呟いた。背中のむこうには湿っぽい窓越しに月が輝いていた。部屋の中までは届かないその光と一緒で、のっちの言葉は決してかしゆかには届かなかった。そう断言できるほどに、呟いた声は小さく、それは、届いてほしくないから、かもしれない。
のっちは数十分前に脱ぎ捨てた服を一枚一枚拾い、そしてそれをまた一枚一枚身につけた。途中でかしゆかの下着を拾ったが、特に興奮することもなく、服と一緒にベッドの隅に寄せた。
起こさないように、起こさないようにと、気を付けていたつもりだが、床に置いてあるモッズコートを手にとった瞬間、ポケットの中の携帯が落ちた。
かつん
と、小さな音がして、のっちは慌てて拾ったが、ベッドの上の小さく細い身体はピクッとかすかに動いた。頭まで被っていた毛布から顔を出したかしゆかは目が真っ赤で、髪はボサボサだった。
「…ごめん、寝ちゃってた」
「や、ごめん。起こしちゃっ、「帰るん?」
のっちの言葉を最後まで待たないでかしゆかは聞いた。拾った携帯を手に、のっちはモッズコートを着た。それからポケットにそれを戻して、それから眉を垂らして、それから小さく笑ってみせた。それが返事だと理解したのかかしゆかは上半身だけを起こし、左手をおでこと目にあてた。それは熱でも計っているかのような動作だが、その行動が意味しているのは全然違うことだと、のっちは気付いていた。
“…ごめんね、、”
今度は口にすら出さずに、言葉にもできずに、のっちは心の中で呟いた。下をむいて、下唇を噛んで、右手で髪をくしゃくしゃにした。かしゆかはハッとして、左手を降ろした。無理矢理優しい笑顔を作った。のっちも眉を垂らしたまま、もう一度、笑った。ポケットに突っ込んだ左手をギュッと強く握ったまま。
「…ごめん。のっち、ゆかちゃんが好きだわ」
1年と11ヶ月前、のっちの一世一大の大告白は、見事に情けないお詫びの言葉で始まった。仕方のないことだった。好きになるのは勝手だけど、それを伝えるのは勝手すぎることだった。こんな関係、“終わり”が前提だ。そうではなくても、継続も、肯定も、発表も、何もかもが難しすぎる。それを知っていながらも、のっちは自分の中でうまく誤魔化すことも、抑え込むこともできなかった。仕方のないことだった。
「…何で謝るんよ、」
「…だって、」
「ゆかたち何も悪いことしてない」
そう言ってかしゆかは、ギュッとのっちに抱きついた。「なんも悪いことなんてない」「ゆかものっちがいい」のっちの胸の中でかしゆかは強くはっきりと言い切った。その折れそうな身体に腕を回して、のっちはしっかりと受けとめた。一世一大の大告白は、見事にかしゆかに押されっぱなしで成功した。
ねぇ、誰にも言えない秘密があるよ。
ねぇ、のっちはゆかちゃんが好きだよ。
ねぇ、このまま二人で消えちゃおうか。
ねぇ、ゆかちゃん。ゆかちゃんが好きだよ。
ねぇ、ねぇ、ねぇ。
ねぇ、だけど、、
ゆかちゃんは、本当にそれでいいの?
ねぇ、ねぇ?
ゆかちゃんは、本当にそれを望んでるのかな。
握ったままの左手じゃ、かしゆかに触れることすらできないくせに、その拳を解放するつもりはなかった。力を入れてないと、なんだか泣きそうだった。のっちはあいてる右手でかしゆかの頭をポンポン、としてから、その綺麗な髪をゆっくり撫でた。眉は垂れたまま。目は細く優しいまま。無言のまま数回髪を撫でてから、最後に頬に触れた。それは皮膚から1ミリの距離で、その手は震えていた。
「・・・」
何も言えないままのっちは鞄を肩にかけた。かしゆかに背を向けて玄関にむかい、年季が入ってくたびれたスニーカーをゆっくりと履いた。
「・・・」
やっぱり何も言えないまま玄関のドアに手をかけて、それでもやっぱり気になってのっちは後ろを振り返った。すると下着姿に上着だけを羽織ったかしゆかが見送りにきていた。
少し高いその位置から、少し低い玄関に立っているのっちを見つめて、「またね」と言った。眠そうな真っ赤な目で、泣きそうな真っ赤な目で「またね」と。それでも無理して笑って、他には何も聞くことなく、ただ「またね」と。
たまらなくなったのっちは、低い位置からかしゆかを一度だけギュッと抱き締めた。その細い身体に自分の存在を残すように、ただ何も言わず、ギュッと、一度だけ。
結局何も言うことができないまま、眉を垂らした笑顔だけ残してのっちはかしゆかの部屋をあとにした。
外に出ると真冬の寒さが痛々しいほどに胸にきた。頬が切れるんじゃないか、ってほどに風は冷たく、本当のことなんて結局答えは出ないんじゃないか、ってほどに空気は乾いていた。
のっちは薄暗い空を仰いで歌う。誰も聞いてないし、誰も見ちゃいない。だけどのっちは歌を歌った。
「地図に書いてあるはずの町が見当たらなぁーい」
…リアリティーか。
ないよ、そんなもん。リアルなものなんて、ない。凄いな、中田さん。確かに、“キミの存在さえリアリティーがないんだよ”だよ。
それでものっちは歌を歌った。雲ばかりのくせに、やたら月の光が眩しかった。
「振り返るとそこに見えていた景色がきーえたぁー」
…消えちゃうのかな。
いずれは…。そう考える癖は治りそうになかった。2年の月日がたつ前に、そうならそうで、早いうちに。だって、そばにいた時間が長ければ長いほど、忘れるのにもそれだけの時間がかかるから。
そんな兆しはないくせに、のっちの思考はネガティブになる。それは、かしゆかの目が真っ赤だったから。髪もボサボサだったから。すぐに眠りについたから。
ねぇ、ゆかちゃん。
ゆかちゃんはさ、のっちのために、のっちがゆかちゃんを好きになってしまったがために、世の中に溢れかえっているような“ありきたりで幸せな恋愛”ができないじゃない。誰にも言えないまま、無理な時間に押し掛けて、一緒に朝を迎えることもできないのに、のっちのために眠い目を擦って起きててくれて。それでも変わらず「またね」をくれて。わかってるんだよ。なのに、ごめん。それでものっち、離れられないや。終わらすことができないでいるよ。出来ることなら、ずっとこのままがいい、って願っちゃってるんだ。そんなこと無理だ、とも思ってるくせに。
今夜は寒過ぎるせいか、のっちはぐるぐると答えの出ない
考え事をしていた。紛らわしたいのに紛らわせないのは、冷たい風が頭をより鮮明にするからだろうか。
ならば、せめてと、のっちは歌を歌った。誰も聞いてないし、誰も見ちゃいない。だからのっちはかしゆかを想った。かしゆかを想いながら歌を歌った。
「この世界僕がさ…」
ねぇ、ゆかちゃん。
ゆかちゃんを想いながら歌うと、こんな曲でものっちは一瞬にしてラブソングになっちゃうよ。
「最後で最後最後だぁー」
考え事はやめにした。きっとこの問題の答えは出ないし、正解なんて誰が決めるんだろうか。
真冬の寒さが胸を締め付け痛かった。風は冷たかった。空気は乾いていた。のっちの声は届かなかった。
「僕は確かにいーるよー」
雲ばかりの空を仰いで歌う。
冬の乾いた空気の中じゃ、のっちの声は響かなかった。
「あー痛い。痛いよー」
のっちの目には月が滲んで見えた。
左手を強く握って、溢れようとするその感情を、のっちは必死で閉じ込めた。
「…会いたいよー」
呟いた言葉は白い息を残して、やがて、消えた。
end
最終更新:2010年01月19日 19:39