「そう言えば、ちょっと、はっきりさせておきたいことがあるんですけど」
「なになに?」
私の右手にはカシスオレンジ。のっちの左手には梅酒ロック。どちらも家主の手作り。
のっちと私は珍しく、2人でお酒を飲んでいる。のっちの家で、ローテーブルを前に並んで座り、ポテトチップスとキムチをつまみながら。
今日は夕食を食べ終わるのが早かったことと、20時の時点で小腹が空いたことと、仕事柄あまり意識していないのに今日が金曜の夜だと気づいたことで、なんとなしにのっち宅にストックされているお酒を飲んでしまおう、という話になった。
「“小悪魔”ってさ、本当はどういう人のこと指すん?」
飲み始めてから最近聴いた魅力的な音楽について少し話し合い、本日のあ〜ちゃんの可愛さについて長いこと盛り上がり、ようやく一息ついたところで、ふと私の中に疑問が浮かんだ。
疑問を口にしたと同時に、3杯目も残り半分になったカシスオレンジから、すぐ隣に座るのっちに視線をずらす。
早速、胡散臭そうな目と、目が合った。
「……」
「のっち…その、“何言ってんのこの人”っていう目つきで見ないでよ」
「だって、本当も何もっていうか、小悪魔本人が何言ってん」「だーかーらー」
「まぁまぁまぁ、どうどうどう」「牛扱いすんなー!」
全く慰める気のない笑顔で頭を撫でてくるのっちに、私はオーバー気味に噛みついた。
しかしアルコールの力なのか、それともただ触れられたのが嬉しいのか、目だけでも怒ったように見せたいのに容易く失敗してしまう。
恐らく今、私の顔はだらしなく緩みっぱなしに違いない。ここがのっちの部屋だから、尚更。
と、疑問から逸れそうになった自分の気を慌てて捕まえ、気持ち背筋を伸ばして話を続けた。
「ゆかが小悪魔扱いされるの、いまいち納得いかないんだけど」
そう言ってから、やってられん、とばかりに残りのカシスオレンジを飲み干した。
てっきりへらへら笑いが続くと思ったのに、のっちの顔からは笑いが徐々に消え、真面目っぽくなっていく。
体育座りでポテトチップスを頬張っている以外は、真面目っぽい。
「う〜ん……じゃあさ、この際だから調べてみよっか。小悪魔の定義」
「え?」
私が発した一文字が聞こえていないのは確実な速さで、のっちはふらつくことなく立ち上がり、寝室にある小さなデスクに駆け寄った。
そしてイスの上に滑り降り、ドラマに出てくるわざとらしく演技的なOLみたいに、真剣な面持ちでノートパソコンを操作し始めた。
私は軽く息を吸ってからテーブルに手をついて立ち、ゆっくりとデスクに近づく。立つ時に口から漏れた“よいしょ”という言葉は聞こえないふりをして。
勢いよくマウスでスクロールしているのっちの隣で、立ったまま屈んでディスプレイを覗き込んだ。
「こ、あ、く、ま……あ、あったあった。小悪魔…“可愛さと性的魅力とで男性を魅了する女性を指す”。……ぷ、性的魅力って」
一瞬何故のっちが小さく吹き出したのか理解できなかった。
ただそれも本当に一瞬で、のっちの目線の先を追った途端に合点がいった。屈んでいるせいでいつもよりは若干浮かび上がっているとはいえ、確かに。
…ちょっと待って。そこで合点がいく自分ってどうなの。むしろ哀しくない? うん、哀しいわ。そら哀しいよ!
と、つい一人突っ込みが出るくらい、むかっ腹が立った。
しばらく止まれそうにない。

「そこ、笑うなーっ! しかも何てとこ見てんのさ!」
「ゆかちゃんのムネ」「はいはいそうですねゆかの胸はどうせこのパソコン並みにぺったんこですよ!」
「誰もそこまで言ってないよー……少なくとも肉まんくらいはあるんじゃない?」「その手つきやめて。っていうか例えが微妙にリアルすぎ」
「褒めてんだよ!?」「どこが!? どこらへんが褒めポイントなんよこの変態!」
「だって白くって、柔らかくって、温かくって、手頃なサイズで〜」「て、手頃って…!」
「そして何よりおいし」「すすす、ストップストップ、それ以上言うな変態! もう、なんだっけ、ほら、本題に戻ろう本題に」
「あはは、ゆかちゃん顔赤くなってるぅ♪ かっわいいなぁこいつぅ」「…………」
「…はい、すみません。本題に戻りましょう本題に。テーマは小悪魔、でしたよね」




意識してなんとか作り出した絶対零度の私の視線に貫かれ、のっちは居住まいを正し、出てもいない額の汗を拭った。
私と違って、2人でいるときでも滅多にそういう具体的な下の話題を言わないのっちが失敗したのは、アルコールのせい。
なのに不覚にも色々と思い起こしてしまい、恥じらいがアルコールの力を上回るように私の顔に表れてしまったのは、のっちの下らない失敗のせい。
要は、全てアルコールが引き起こしている。恐るべし、酒。外で飲むときは細心の注意を払わなければ。
私の恥じらいには気づいたくせに、私の照れ隠しには気づかなかった隣の生き物は、またわざとらしくパソコンに向かってマウスを所在なげに動かし始めた。それに合わせて画面も次々に変わっていく。
私はなんとなく胸の前で両腕を組み、一度深呼吸をすると、頭の周りに漂っていた妙な熱が吹き飛んだ気がした。
そして斜め下にある丸くて黒い頭のつむじを眺めながら、自分から言い出したように本題について考えた。
“可愛さと、魅力とで男性を魅了する女性”
重要な修飾語が一つ抜けているのは、恐るべきお酒が悪戯をしたからだろう。うん、違いない。
しかし、何度反芻しても今ひとつ具体的な小悪魔のイメージが浮かばないのは何故だろうか。
「ね、思ったんだけど、さっきの小悪魔の定義って、別に小悪魔に限ったことじゃなくない?」
つむじに話しかけたら、つむじはのっちの横顔に取って代わられた。中途半端に振り向いて、壊れたマネキンみたいに首を傾げて考え込んでいる。
「……あ〜、まぁ、確かにそうかも。ただのモテる女性ってことでしょ?」
「そうそう。なんか、あるんよ、要素が。小悪魔要素が、他に」
左手組んだままに、右手を下顎に当てて、今度は流れる髪からはみ出たのっちの耳を眺めながら考えを巡らす。
小悪魔、小悪魔。どんな人を見たら、小悪魔と思うだろうか。
私の頭の中に、何故かあ〜ちゃんのウィンクが閃いた。
いや、あれはただ可愛いだけというか、貫かれるとしばらくあ〜ちゃんのこと以外眼中に入らなくなるくらい可愛いだけだし。
次は、あ〜ちゃんの上目遣いが浮かんだ。
いや、あれもただ可愛いだけどいうか、貫かれると無心にあ〜ちゃんを抱きしめて家に持って帰りたくなるくらい可愛いだけだし。
もし同じことを私がしたら、間違いなく小悪魔扱いされるだろう。そう思うと、段々周囲から扱いを差別されている気がして、拗ねてやりたくなってきた。
とりあえず、目の前の生き物で試してみようか。より小悪魔リスクの低い、ウィンクくらいから。
のっちの耳から、のっちの大きくて真っ直ぐな瞳に視線を移した。
「?」
「……」
いつの間にか、何事かと身構えるほどのっちに凝視されていた。私はまだ立ったままなので、上目遣いで見上げられている。
「……の、」
「……」
ベージュの短パンに黒いTシャツを着ているせいで、のっちの頬を染めている桃色や、そのすぐ下で少しだけ尖り気味な唇の赤色や、隙間から垣間見える鎖骨の白色がより引き立てられて見える。
本人が絶対に意識していないと知っているから、余計に揺さぶられる。また隠さないと。
「…のっち、あの、見つめすぎだから。なんなんよ」
「だって、わかんないと悔しいんだもん。ゆかちゃんの小悪魔要素」
ほら、やっぱり意識していなかった。こっちは本題のことなんて吹き飛ぶくらい惹かれていたのに、全く意図していない。
のっちは悔しさのためか、赤い唇がさらに尖ってきた。
って、あれ?
「ん? 悔しい? なんでよ?」
さっきから色々と悔しいのは、むしろ私の方だ。
変わらずに食い入るように私を見ながら、のっちは尖らせたままの口でぼそぼそと答えた。
「だって、一番近くにいんのに、一番好きなのに、わかんないなんて」
「!」




突然、こうやって熱いものを擦り込んでくる、この生き物。
天然記念物。
馬鹿。
変態。
ド変態。
小悪魔、とはほど遠いか。
ツンデレ、なんて目指すだけ無駄だよ。
「何笑ってんの?」
気づかない内に私は笑っていたらしい。しかも涙まで出ている。
まったくもって、この天真爛漫なのっちには敵わない。
「や、のっちは一生ツンデレにはなれないなぁ、と思って」
「え〜、なりたいよツンデレ! いいじゃんツンデレ!」
「諦めなよ。諦めて、そう、ずっと、のっちのまんまでいて?」
「う〜、ツンデレ可愛いのに」
ちょっぴり頬を膨らませ、私に当たらないように両脚をバタバタ動かしているのっちを、立ったまま抱きしめた。
ほっとしたような複雑な気分で苦笑しながら、顎の下あたりにある丸くて黒い頭をわしわしと撫で回す。
普段ののっちなら恥ずかしがって嫌がるか、体を固めてやり過ごすだろうに、今日に限っては両脚以外は大人しくされるがままになっている。
こういうことなら、たまにはお酒を飲むのもいいかもしれない。あくまで家の中限定だけれども。
「あ、わかった! ひらめいたよ、ゆかちゃん!」
勝手に一人でまったりしていたら、急に顔を上げて、キラキラがこぼれ落ちてしまうくらい瞳を見開いて、のっちが叫んだ。
一瞬何のことかわからなかったが、そう言えば今の今まで小悪魔の定義を探っていたのだっけ。
今更どうでもいいかな、と感じつつも、すっかり機嫌を直したのっちが可愛いので、続きを話すよう目で促した。

「あれじゃない? ほら、胸がばーんと大きい人とか、お尻がぷりっとしてる人とか、そういうなんつーの、ナイスバディな、グラマーな人ってあんまり小悪魔って感じしないじゃん。そういう人が、なんだっけ、男性を魅了したら、それってただの悪女だよ悪女。でも小悪魔ってさ、一見そうでもないっていうか、大してそうでもないなぁみたいな人が悪女っぽいことすると小悪魔ってなんじゃん? 胸とか小さくてそんなセクシーじゃなくない?みたいな人が意外と悪女みたいに魅力的!?みたいな……あ! あ! そうだよそうだよ、小悪魔の“小”って小ぶりの“小”なんだよ! 色んなところが小ぶりだけど、なんでか悪女並みに魅力的、みたいな。うっわ、のっちあったまいいっ」




「………」
小ぶり。
「ね? ね? 絶対そうだよっ。あーすっきりしたぁ」
つい、俯いて再確認してしまった。
確かに、小ぶりですけれども。
……小ぶりですが、何か?
と言うのを全力で堪えて、私は座っているのっちの真ん前の床に両膝をついて立ち、のっちを見上げた。
目には目を、歯には歯を。
「…のっちのは?」
「ん?」
のっちはきょとんと目をまん丸くしたが、それ以外の顔はまだ興奮していて得意げで嬉しそう。
そうしていられるのも、あと、5秒くらいだよ。
「のっちの胸とかお尻とか、どんくらいの大きさだっけ?」
「え…」「ゆか、忘れちゃった」
「え? え? え?」「のっち、見せて」
「は?…ちょ、ちょ、ちょっと待っ……ぁ…」
「いいでしょ?」
こういう時は、少し強引なくらいの方がのっちは折れるし、昂ぶることを知っている。
知っているから、黒いTシャツを黒いブラごと一気にたくし上げ、躊躇いなく両手でブラの代わりのごとく乳房を包み込んだ。
「ひゃ!……つめ、た…」
「のっち、ゆかの冷たい指好きだもんね。ほら」
「! く、ぅ…ふ」
「んー、どれくらいかなぁ。お茶碗くらい?」
完全にわざと、ほぐすように、あやすようにゆっくり揉みしだく。抜かりなく紅く控えめな頂きを掠めつつ、スイッチが入った私の意地悪ぶりを、久しぶりに思い出させてあげる。
手を止めず、目の前に顔を出している鎖骨に吸い付き、音を立てて唇を離した。
「ぁ」
声を見上げたら、身を捩りながらも鎖骨へのキスを見つめていたのっちの口が、待ちぼうけをくらっているみたいに半開きになっていた。
ほら。狙った以上に早く昂ぶってる。
その証拠に、直前まで私の肩をわずかに押していたのっちの両手は今、逆に肩を引き寄せようとしている。
「あれ? もしかしてのっち、その気になっちゃったん?」
素直な答えが聞きたくて、唇が触れ合うすれすれまで顔を近づけたら、言葉の代わりに口を塞がれた。声にならない笑いをこぼしながら角度を変えて応えてあげる。
狙いが成功して余裕ができた頭の中で、不意に今日の本題を思い出した。
…もしかしてこれかな、小悪魔って。
こういう、悪だくみのこと?
「のっち」
「ん…」
唇が離れる少しの時間も惜しいように、のっちは私の背に手を回して体を密着させたままベッドまで移動した。

今晩わかったのは、のっちは小悪魔になれないのが確実だということ。
それから、私を小悪魔にさせるのは、無邪気で可愛いのっちだということ。



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最終更新:2010年11月07日 03:22