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「…300メートル先、左方向です」

雨がいっそうきつくなった。左手でワイパーのレバーを深く押す。
車で遠出するのはいつぶりだろう。
やっと首都高を抜け出して、君の住む町へ続く高速道路に入った。

雨は好きではないけど、こんなふうにたまに降ってくれると安心する。

昔から部屋にこもりがちな私は、
燃やしたり蹴散らしたり踊ったり飾ったり慣れたりしなくても、
家にいりゃあいいじゃんと言ってくれてるような気がしてほっとしてた。

きらきらしたものがなくても、盛り上がるばかりの毎日じゃないことを。
咎められない気がして、ここにこもってていいと思っていた。

なのに、太陽みたいに輝く君といったら、よく頬を膨らまして文句言ってたっけ。
にっくたらしいことをよく言っては、私をおろおろさせて、
甘えたことを言っては、私の心を簡単に奪っていった。

『なんで飽きもせんとこんなよう降るん!?』
『あんたの行いがわるいけぇ、こんな降るんよ。のっちのせいじゃ!』

すこし鼻にかかる甘い声が、耳の奥に響いた。
まだ、残ってたんだな。


『…あ〜ちゃん、のっちの子供が生みたい』

薄暗い部屋で抱き合った後、君はよくそう言ってた。

『二人の子供ならめっちゃかわいい子生まれてくるけぇ、歌手にせにゃ』
『えー、のんびり育ててあげたいなあ』
『いけん。のっちみたいにゲームばっかりする子にしたら絶対いけん』
『名前は?』
『女の子ならはなちゃん。男の子なら…』

子供が大好きな君は、いつもうれしそうに話してくれた。
簡単なことって勘違いしてるみたいに、無邪気だったよね。

それは私にはどうしてあげることもできない、自然な欲求だったから。
そのたびにうんうんって頷きなら、自分の無力さを呪ってた。


『…子供生まれたけぇ、遊びにこん?』

突然のメールだった。
別れてからというもの、君からの連絡はいつも突然だ。
厳然とした事実だけ、いつも伝えてくる。
結婚のときも、「結婚する」じゃなくて「結婚した」だったもんね。

不安だったのか緊張だったのかわからないけど、昨夜は全然寝れなかった。
でも不思議と眠くはない。高揚してるのかな。

「子供、かあ…」
小さい声で呟いてみて、その事実の重さに心まで重くなるのを感じた。
君の子供なら、きっとかわいいんだろうな。


あれからもう何年も経った。
いいこともわるいことも、たくさんのことを乗り越えてきた私たちは、
案外あっさりと離れ離れになった。


…もうすぐだ。
雨にけむってよく見えない緑の標識には、君の住む町の名前が書かれてある。

ちゃんと話せるかな。どんな顔で会おうか。
今でも、自分の気持ちと態度や言葉のちぐはぐさに困ってしまうよ。

『のっちは口ベタじゃけど、思っとることそのまま話せばええんよ』

そうだ。考えても仕方ない。ええい。
ウィンカーを左に出して、迷いを振り切るように力強くハンドルを切った。


「久しぶり〜!よう来たね!!」
「…う、うん」
ドアを開けた君は、昔と全然変わらない笑顔だった。
その顔があまりにあの頃と変わってなくて、
何て言ったらいいかわからなくて、頷いてみる。


「ぜーんぜん、変わっとらんねえ」
キッチンで紅茶を淹れながら、背中越しに言う。
なんだかうれしそうな声。
狭い肩幅、でも意外にしっかりした骨格、細い足。首筋の白い肌まで。
あの頃と何も変わってないのに。

「…あ〜ちゃんも変わっとらんよ?」
ダイニングテーブルに座って、ふと視線を向ける。
こぎれいな部屋だ。明るいフローリングの色が白いカーテンによく合ってる。
大型のテレビに白いソファ。そしてその先にはベビーベッド。

「子供、いくつなん?」
「もう3ヶ月。子供ってすごいんよ、日々成長してて…」

出されたカップに口をつけて、ベビーベッドに目をやる。
まるでなんか動物みたいに小さくて、同じ人間じゃないみたい。

「触っても、いい?」
「もちろん。抱いてあげて」

テーブルに肘をついて、にっこり笑う君はうれしそうに言った。
おそるおそるベッドに近づいて。その小さな生き物に手を伸ばす。

「まだ首がすわっとらんから」
伸ばした私の腕に自分の腕を重ねるようにして、
そうっと私の腕の中に赤ん坊を置く。
肌が触れ合った部分が、すこしなつかしくて、胸が痛んだ。

「すごいすごい!のっちがあ〜ちゃんの子供抱っこしとる」
あの頃みたいにはしゃいで、カメラで写真まで取り始めた。
とても満足そうにしてる。

なんて声かけていいかわからなくて、腕をすこしゆすってみる。
「お、なんか笑ったよ」
「ちゃんと笑うんよ。なんかのっちと似てるね」


君が欲しかったもの。そのために選んだ道。引き返せないほどの距離。
その結果ここにある君の生活。

腕の中で目を開いて笑う赤ん坊はとっても小さくて、あったかい。
まだ何の役割も演じない純粋さに満たされていて、潤んだ目に警戒心がゆるむ。

なんだか、曇っていた心が晴れていくような気がした。


「…じゃあ、今日はありがとう」

欲しかったものを手に入れて、しあわせそうな姿の君に。
よかったね。ほんとによかった。
そう心の中で言いながら、車のドアを閉めた。

「泊まってけばええのに」
「うーん、さすがにそれは無理」

さすがにそれは無理だな。旦那さんとかは、やっぱちょっと無理だな…。
でも、ああそうなんだよな、しょうがないよなって思えたんだ。
さっき、もし自分が旦那だったらって考えてみたけど、その考えは広がらなかったんだ。

それはふさわしくないとかあきらめとかじゃなくって。
ああ、なんかそれは自分じゃないなって思った。

飾ってあった写真。夫婦は絵に描いたようにいい夫婦だった。
だから、よけいにそう感じた。
そこに無理やり自分を介入させる必要ってまったくないよなって思えた。
あ〜ちゃんはあ〜ちゃんのしあわせを大事にしてくれたら、それでいいんだって。

ライトを点けて、サイドブレーキを外したとき、思い出した。
「…あ、聞くの忘れた」
「うん?」
「子供の名前」

ああ、ってくしゃっと笑いながら、あ〜ちゃんがこっちを見る。
開けられたウィンドウから顔を覗き込ませて、やさしい声で言った。

「さやか」
「えっ、ちゃあぽんとかぶってるじゃん」
ちょっと意外な答えに驚いて、思わず口に出してしまう。

「それがーかぶっとらんのよ、苗字違うし」
「そっか…かわいい名前だね。じゃあ、また」
「ちょっと待って。字聞かんの?」

あ、そうか。字とか聞いといた方がいいんか。
こういう気の利かないとこがだめなんだろうなあ。
と少し自己嫌悪に陥っていると、あ〜ちゃんが手の平に指で書いてみせた。

「…彩りの「彩」に香りの「香」」


それは、人生で何度も見たことのある漢字だった。
まいった。こういうの、ちょっと弱い。

あ〜ちゃんはそれ以上、何も語らなかった。
ただ温かい眼差しでこっちを見てる。


じゃあね、と言って私に手を差し出して。私たちは握手をした。
何度も握った細い手はやっぱりあたたかくて、
がんばれって言われているような気さえした。

「また来てね」
「うん」

あ〜ちゃんが後ろに下がる。バックミラーに映るかつての最愛の人は、
何も変わってないようにも思えるし、まったくの別人にも見える。

「あ、のっち!」
エンジンをかけて進もうとしたとき、急にあ〜ちゃんがかけよってきた。
びっくりしてもう一度ウィンドウを開ける。

「えっと…ゲームばっかせんとちゃんと掃除しんさいね」
「うん。…ってまさか、そんなこと言うために止めたの?」

「…ううん、そんなわけないでしょ」
少し間をあけて、伏せ目がちに言う。
そうして、髪を耳にかけながら、顔をあげて言った。


「ゆかちゃんによろしくね」


正直、高速に乗る前は眠くってしょうがなかった。
あ〜ちゃんの言うとおり泊まってけばよかったかな。

深夜のサービスエリアは意外に人が多い。
昔はあまり飲まなかった缶コーヒーを持つ手は、いつの間にか冷えていた。

恋愛としての要素はもうなかった。それは実感した。
二人で作れなかったもうひとつの人生、っていうのはやっぱり思ったけど、
それももはや目の前に繰り広げられる現実の前では、あっさりと「違うよな」と思えた。
もうそれは始まっててあまりにもリアルで、そこには自分は介在しえなかった。
それはすとんとそう思った。そんなこと思う必要ないなって思った。

…不意に携帯が鳴る。
こんな私にこんな時間にかけてくるのはただ一人しかいない。

「うん」
「昨夜全然寝とらんかったじゃろ?ちっとも連絡くれんけぇ、心配しとった」
電話の声は高くて、細かった。倍音がよく響く、いつもの声だ。

「ごめんごめん、だいじょうぶ。なんとか帰れそう。」
「そっか…よかった。」
ほっ、という音が受話器越しに聞こえてくるみたいに、安心したみたい。

「あと一時間くらいだし、先に寝てていいよ」
「何言っとるん。ゆか心配で全然寝れんかったんじゃけぇ」
「あーほんとごめん」
「もういいけど…ちゃんとおめでとうって言えた?」

ああ、そうか。また忘れてた。
結婚も、子供も。ちゃんとおめでとうって言おうと思ってたのに。

すぐ泣いたり笑ったり忙しい君が。ほんとに好きだったよ。
おめでとう。

でも。
辿り着きたいあの場所に着いた君には、言わなくても伝わってると思う。
あんなに好きだったんだから。あんなに一緒にいたんだ。

今さら互いの大切さを確かめなくったって。
私の思ってることぐらい、全部わかってくれてるんだ。


「…うん、言えたよ」
「そっか…よかったね」

ゆかちゃんも同じだ。
言葉が少なくても。たくさんのことを言わなくたって、私の思ってることぐらい。
今愛してるのは誰かってことぐらい。ちゃんと伝わってるから。

「もうすぐ帰るから、待ってて」


空を見上げる。
真っ暗で何も見えないけど、街頭に照らされた雨が細い糸のように輝いてみえる。
毛布みたいに私を包んで、今十分しあわせだろって気づかせてくれる。

やっぱり、雨ってわるくない。
電話を切って、また車を走らせ始める。
首都高につながるジャンクションが見えてきた。


遠い空間を超えて、また帰ろう。
ゆかちゃんの待つ、あの東京の片隅に。

今から滑り込む布団は、彼女の体温であったまってるだろう。
それは私にだけ許されたスペシャルな寝床で、
世界中の誰も味わうことのできないやわらかさがあるんだ。

そしてそれは、私が辿り着いた場所でもある。


それをしあわせに思って、今夜は一緒に眠ろう。


(おわり)






最終更新:2008年10月17日 16:43