アットウィキロゴ
 あたしは合鍵をさしこんで、ゆっくりと回した。カチャン、とロックの外れる音が夜の闇に響く。
 あ~ちゃんは立てた人差し指を唇にあてて、小さく笑った。
 最後の見まわりは、30分前に立ち去った後。もうここは、解放区。
あたし達だけの、サンクチュアリ。
 更衣室のドアを開けると、照明に照らされた黒いプールが、静かに波打っていた。
 あたし達は靴下を脱いで素足になって、猫のように忍び足で、プールサイドを歩いた。夜風にまぎれるクスクス笑い。プールの塩素の匂いが、静寂の中、鼻をつんと刺激する。
 夏の夜の空気は、特別。
「…あ~、めっちゃ、どきどきしよる…」
「うちもうちも。心臓、ばくばくしとるよ」
 あたし達は顔を見合わせて、共犯者の笑いを浮かべる。
「とりあえず、座ろうや」
 あ~ちゃんとあたしは、プールサイドに腰かけて、両足をちゃぽん、とプールにつけた。
 ひんやりとした水。心地よい緊張感。黒い水面が、強いライトの光を反射してゆっくりと揺れる。少し、怖い。あたしとあ~ちゃんは手をつなぐ。
「なんかうちら人魚姫みたいじゃねえ」
 あ~ちゃんは、ふふって笑いながら言った。


 あ~ちゃんは、少し勢いよく、ちゃぷちゃぷと水を蹴る。誰もいない夜のプールにその水音が、妙にクリアに響いて、どきどきする。
「二人きりじゃねえ」
と、口にしてしまって。あたしはどくん、と意識してしまう。
 あ~ちゃんの白い脚が、暗い水の中ほのかに光って見える。それは水を蹴るたびにゆらゆらと輝く。つないだ手。夜の静寂。少し汗ばんだ首筋。白く反射する制服のブラウス。
 …なんか、息苦しいほど、隣りのあ~ちゃんの存在が胸に迫ってきて。
 胸の中に秘めていることを、口にしてしまいそうだから。
 あたしは急いで話を「あたし達」からそらす。
「のっち、誘わなくてよかったん?」
「…ええんよ、あんな子。もう、知らん…」
「…なんか、あったん…?この頃、あ~ちゃん、のっちを避けとるじゃろ」
「あ~、もう!」あ~ちゃんは急に声を上げて、ばしゃんと水を打った。「のっちなんか、もう知らん!」
 あ~ちゃんはそう言い捨てると、ごろんとプールサイドに仰向けになった。


 あ~ちゃんは両手で顔を隠して、深いため息をついた。
「…なんで、なんじゃろう…?」
「…え?」
「この間まであ~ちゃんが勝っとったのに。のっちなんか、どうとでもなったのに」
「……」
「…なんか…」あ~ちゃんは言いにくそうにしばらく口をつぐむ。「なんか、うちの方が負けとる気がするんよ。うちばっかり、どきどきしとんよ。…うちの方が、多分、ずっと、…好きなんよ」
 あ~ちゃんは聞こえるか聞こえないかの小声でつぶやいた後、急に足をじたばたと勢いよく水しぶきをあげながら、
「でもそんなことのっちには言え~ん!!絶対言わんけえ!!」
 子どもみたいに駄々をこねたと思ったら、またあ~ちゃんは黙り込んで。放心したみたいに、仰向けで夜の闇をじっと見つめた。
「…でも」あ~ちゃんがゆっくりと口を開く。「言わんと、余計しんどい気もするんよ…」
 その言葉は、あたしを刺した。
 あたしもあ~ちゃんの横に、ゆっくりと仰向けになった。横になると、夜の闇に無防備に体をさらすようで、でもその投げやりな感じが今の気分で。
 …どうとでも、なれ。もうあたしの覚悟はついてる。


「なんで人魚姫は伝えんかったんじゃろ…?」
 あ~ちゃんは、水をぱしゃぱしゃと蹴りながら言う。
「魔女に声を奪われとっても、その気になったら手段なんかいくらでもあるじゃろ?ほら、筆談とかボディランゲージとか流し目とかさあ…」
「…流し目はどうかと思うよ…」
「とにかくさあ、いっぱいあるんよ。うちじゃったら、どうにかして絶対自分の想いを伝えんと、と多分じたばたすると思うけえ」
…あ~ちゃんらしいなあ。あたしはクスっと笑う。ゆかとは、逆かな。
 あたしは言葉を選びながら言う。
「言わないことで、自分を守るっていうか、自分の気持ちを守るって、あると思うんよ」
「…ほええ?」
「沈黙が最大の防御、ってこともあるんよ。秘すれば花、って言うじゃろ?」
「…キスすれば鼻…?」
 違う違う、とあたしは笑った。
 秘すれば花、か。口にすれば無残に散ってしまう想い。かたい蕾のように胸の奥に秘めていれば、いつかそれは永遠に枯れない花になるかもしれない。
 それはまるで、水の花。透きとおった、幻の花。


「ゆかちゃんは難しいことを言うよねえ…。あ~ちゃんにはよう分からん」
 あ~ちゃんはプールサイドを芋虫のようにごろごろ転がって、あ~ちゃんなりに悩める乙女心を表現した後、気がすんだのか、
あたしの横にぴたりと身を寄せてきた。
 二人の足がぱしゃぱしゃと水で遊ぶ音が、静かに聞こえる。足先から、冷んやりとした水の気配。
 そういえば、人魚姫は一歩あるくたびに、ナイフで傷つけられるような痛みがあったんだっけ。それでも王子と姫の結婚の宴で、舞を披露してみせたんだ。血を流すような痛みに耐えて。
 子どもの頃そんな人魚姫がかわいそうでたまらなかったけど。
 …でもそれは痛みだけじゃ、なかったかもしれない。
 あ~ちゃんの無邪気な一言一言が、あたしをナイフのように刺すけれど。その痛みは、甘い毒薬のようであたしから言葉を奪う。傷つくたびに、痛むたびに、あたしは思い知らされる。こんなにも好きだと、想ってるって。
それはけして痛いだけじゃない。しびれるような切なさが、あたしを酔わす。
流した血で、恋の花は育つんだろうか。永遠に、散ることのない花。でも誰にも知られない、花。
 そんな、絶望的な運命すら。あ~ちゃんに与えられたと思うと、いとおしい。
 …もう、あたしの覚悟はついてる。
 あたしはむくっと起き上がって、制服のままプールに飛び込んだ。
 「ゆかちゃん?!」というあ~ちゃんの声を背中に聞きながら。夜のプールに、どぼんと沈んだ。
 真っ暗な水。照明が不気味に揺らめく。水の泡が妖しく輝いて。
 飛び込んだというより。落ちた。…いつの間にか、落ちてたんだ。


 あたしは濡れた髪を整えながら、水面に顔を出した。プールサイドに立ちつくしてるあ~ちゃんに笑って見せると、あ~ちゃんも笑って、
「ゆかちゃん、どしたんよ?ゆかちゃんがはじけとんの、めっちゃ珍しいわ」
「…うん、はじけちゃった」
 あたしは笑う。
「うちも飛び込むけえ!」
 あ~ちゃんは勢いよく、プールに飛び込んだ。水しぶきが、盛大に散ってキラキラ光る。
「水、冷たいんじゃけど!」
 濡れた制服がまとわりついて、重い。あたし達は息を荒くさせながら、懸命に水をかきわけるようにして近づく。ぷかぷか浮きたいけど、制服が重くてもがくので精一杯。
 二人して、顔を見合わせて笑い転げる。水の中、手を伸ばして。
 あたし達は水をかけあったり、肩のうえに乗っかりあったり、両手でパンパン水をたたいたりと、ひとしきりじゃれ合った後。
 静かに、お互いをいたわるように抱き合った。
 …このまま、ほんとに、はじけて消えてしまえたら。
 言葉なんていらない。
 あたし達は、静かな、静かなキスをした。


終わり。






最終更新:2008年10月10日 03:35