病院の入り口には、ゆかちゃんのご両親が待ってくれていた。
『おばさん…。』
ゆかちゃんのお母さんはとても顔色が悪く
お父さんに支えられるようにして立っていた。
『あ〜ちゃんになら…何か話してくれると思うんだけど…。』
おばさんは、のっちとゆかちゃんの関係を知らない。
ひとり暮らしを許可した矢先の出来事だ。
ご両親の気持ちを考えると、辛くなり
のっちへの怒りがまたこみ上げた。
もっさんとご両親が話をする。
私は病室の場所を教えてもらい、ひとりで足を進めた。
ーコンコン
『ゆかちゃん…入るよー…。』
病室に入ると、ベッドに横たわり
ぼんやり窓の外を見つめるゆかちゃんの姿があった。
『…ゆかちゃん…。』
ゆっくりとゆっくりと、視線が私に向けられる。
なかなか定まらない視点。
まるでここにいない何かを探しているよう。
『…あ〜…ちゃ…。』
ゆかちゃんの唇が動く。
小さく、私を呼ぶかすれた声がかすかに聞こえた。
『良かった…ほんまに良かった…。』
私はゆかちゃんを強く抱きしめた。
そして、抱きしめたその細い体に
ちゃんと温もりがあることを確認した。
『もう…何でなん…。何でこんなことになっとるん…』
ゆかちゃんは小さく震え、私の胸の中で涙を流していた。
あ〜ちゃんに抱きしめられ、
私は感情を取り戻したかのように涙を流した。
あ〜ちゃんの甘い香りに包まれる。
私は昨夜、確かにこの甘い香りに抱きしめられたんだ。
薄れゆく意識の中でも、この香りだけは忘れていない。
でも、あの時
あの場所に
あ〜ちゃんがいるはずはない。
きっと私は夢を見ていたんだ…
でも、どんなに抱きしめられ優しくされても
私の頭の中に浮かんでくるのは、やっぱりあ〜ちゃんでもお母さんでもない。
ぽっかりと穴があいてしまった私の心。
空っぽになった。
今までどれだけのっちが私の全てを支配していたか
思い知らされる。
ねぇあ〜ちゃん…のっちは…?
そう問いかけるように、あ〜ちゃんの瞳を覗いた。
あ〜ちゃんは、一瞬『…ん?』という表情をしてから少し微笑んで答えた。
『仕事はだ〜い丈夫じゃ。』
頭をポンポンと撫でられる。
私は少し目を細め、今できる一生懸命の微笑みを返した。
ーコンコン。
もっさんが入ってきた。
『あ〜ちゃんそろそろ…。』
もう夕方。
今日は夜に雑誌の取材がいくつか入っていたはず。
『とりあえずかしゆかは明後日から仕事に戻れるように…。』
私はうつむく。
正直今は何も考えられなかった。
『また…明日来るけぇ…。何かあったらすぐ連絡しんさい。』
そう言うとあ〜ちゃんはもう一度私はぎゅっと抱きしめ、
そして耳元で呟いた。
『…のっちは、ちゃんと仕事しよるよ。』
『…!!』
また一気に涙がこみ上げた。
私のこぼれた涙を、あ〜ちゃんは一度スッと指で拭い
少しだけ微笑んで病室を去って行った。
あ〜ちゃん…こんなゆかでごめんね…。
あ〜ちゃん…
のっちに会いたい…会いたいよぉ…。
私はベッドにもぐり
もう触れることのできないであろう
愛しい人の後ろ姿をただ思い浮かべ ひたすら涙を流した。
雑誌の取材を受けるため、私は会社の一室にやって来た。
あ〜ちゃんはまだ来ていない。
病院…行ってるんだろうな。
私は思い返していた。
『大丈夫って何なん?あ〜ちゃん言ったよね?次は…黙ってられん…って。』
『ごめんあ〜ちゃん!…ほんと…何でもないけぇ…。』
最後にゆかちゃんにお仕置きをした次の日。
私がライブの靴を選び終え控え室に戻ると、
聞こえてきたのは二人のこんな会話だった。
ゆかちゃんの耳には、私の噛んだ後が傷になっていた。
初めて見る、あ〜ちゃんが頬を真っ赤にして怒るその顔。
私は…ゆかちゃんに傷をつけて、
そして大切な仲間を怒らせ
一体何をしているんだろう…
私を支配していた何かが
一気にサーッと引いていく気がした。
数日後、そろそろ私にお仕置きをされると思ったのか
ゆかちゃんは私と一緒に車をおりた。
もう私を支配する何かは消えていた。
いいタイミングだと思った。
『ゆかちゃん…終わりにしよう。』
すがりつくゆかちゃんを引き離し、私はひとり家に帰った。
これでいいんよ…
ソファに座り、時計の針の音をただぼんやり聞いていた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
部屋の寒さで我に返り、明日は朝早いんだったな〜なんて考えながら、暖房を入れる。
ふと部屋のカーテンを開け、公園を見下ろすと、
しゃがみ込んでいる人影があった。
『…!!』
ゆかちゃんだった。
『何でよ…何でまだおるんよ…。』
私は部屋を飛び出し、走った。
頭で考えるより体が反応し、
気づくとゆかちゃんへと向かっていた。
『はぁ…はぁ…。』
公園に着き、ゆかちゃんにそっと触れる。
『早よ帰りぃや…。』
すこし冷たくなった体。
目の周りや頬は涙で濡れ、ただ小さく息をしているだけ。
自分の部屋につれて帰ろうと
お姫様だっこをするかたちで私はゆかちゃんを抱き上げる。
その時、ゆかちゃんの唇がかすかに動いた。
『…あ〜…ちゃん…。』
ードクッ
私の中を、一気に黒い感情が支配した。
私はゆかちゃんを木の影に寝かせ、ひとりで家に帰った。
ーガチャ
扉が開き、やってきたあ〜ちゃんが横に座る。
視線を伏せたまま何も言ってこない。
『…あ〜ちゃんこれ。昨日借りたままだったから。』
私はあ〜ちゃんにコートを返した。
昨日、私は飲んでいたスープを豪快にこぼし
お気に入りのジャケットをびちゃびちゃにしてしまった。
あ〜ちゃんは『今日そんな寒くないけぇ。』なんて言いながら、
自分の着ていたコートを私に貸してくれた。
『…あぁ…。』
あ〜ちゃんは、よくもこんな時に…とでも言いたげな表情で答えた。
『ゆかちゃん喜んどったじゃろ。あ〜ちゃんが来てくれて。』
『…はぁ?!あんた何を言いよるん!!』
私のひねくれた言葉に
あ〜ちゃんはまた顔を真っ赤にして怒った。
『…今はやめよう。』
もっさんにとめられ、私たちはその後いくつかの取材を
淡々とこなした。
ゆかちゃんはあ〜ちゃんのことが好きなんよ。
もう私は関係ない。
これでいいんよ。
私とあ〜ちゃんは結局一度も目を合わせることなく、
その日の仕事を終えた。
(続く)
最終更新:2009年01月13日 11:17