久しぶりに見る、ゆかちゃんのうなじ。
常時それを隠している自慢の長い髪は今、大きめのクリップで無造作に頭の後ろでまとめられている。
珍しい。髪に癖がついてしまうのを嫌い、外ではもちろん、家の中でもほとんどしないのに。
もしかしたら私の部屋が暑いのかも。私は手元のリモコンでクーラーの設定温度を1℃下げた。
予定より早く仕事が終わった今日は、私の家でシャワーを浴びて夕飯を食べて、2人でまったりとテレビを観て過ごしていた。
ゆかちゃんは床に座り、後ろのソファーに座る私の脚に背を預けている。
その体温を感じながら、私は顔が見られないのをいいことに、斜め下に晒された希少価値高いうなじを鑑賞していた。
私が貸した黒いTシャツと白いうなじの
コントラストが鮮やか、だからというのもあるが、そもそも見ることを許されている立場にいるのが単純に嬉しい。
私の大切な人は色々な意味で守備が固いので、些細な部分も漏らさず飲み込みたかった。
テレビ番組を観て笑う度に足下で揺れる背が、素肌に当たってくすぐったい。その感触さえも漏らしたくない。
何がそんなに可笑しいのかな、と思う私の口元もすでに緩んでいる。テレビのせいではないけれど。
ふいに背の揺れが止まり、うなじを中心とした私の視界の中にゆかちゃんの手が入ってきた。
左の耳たぶから少し下った部分、顎と首との境界に近い部分を、人差し指が撫でている。
たしかその指先の下には、肌より濃い色の円い絆創膏があるはず。
今日の午後、雑誌のインタビューの合間。
「ゆかちゃん、首どしたん?痒いん?」
広い控室に響くあ〜ちゃんの声で、私は携帯からゆかちゃんへ視線を移した。
真っ黒いカーテンみたいな髪の下で、左手が動いている。
「ん〜、なんかさっきから痒くて。蚊に刺されたんかなぁ」
どれ、とテーブル越しに身を乗り出したあ〜ちゃんの顔が、あちゃあ、と変化した。
「刺されとんね。見事に赤くなってるわ。痒そお〜」
傷が写真に写らないようにとスタッフが用意した絆創膏が貼られたが、結局はゆかちゃんの髪で完全に隠されて意味がなかった。
まだ痒いのかな。
ゆかちゃんの指にはあまり力が入っていないみたい。掻きたいのを我慢しているのだろうか。
相変わらずくすくすと笑いながら、小さい円を描くように指先を動かしている。
そういえば、私はまだ傷を目にしていなかった。席からの角度的に見えなかったし、わざわざ立ち上がって覗くのも面倒だったし。
私はそんな自分の無精を悔いた。と同時に、それが変態じみているようで軽いショックを受ける。
が、ショックは相当軽かったようで、私は大して躊躇なくソファーから前屈みになり手を伸ばした。
「ひゃっ、な、なに!?」
予告なく触れられて驚くゆかちゃんを無視し、首の絆創膏を剥がす。想像よりも薄い赤色の点が現れた。
「おぉ、虫さされだ」
「おぉって、昼間話してたじゃん」
上半身だけ後ろに向けたゆかちゃんの手が、剥がされた部分をすぐに覆ってしまった。
「もー、それ返してよー」
伸びてきた細い腕に奪い返されそうになって、私は咄嗟に手を後ろに隠した。
あ。Tシャツに絆創膏くっついた。
「なんで?どうせ髪で隠れるでしょ。それより手、どけてよ」
子供っぽい私の動作と同じくらい幼く頬を膨らませていたゆかちゃんの表情が、意外そうに変わった。
「見たいん?なんだ、それなら…」
ゆかちゃんはおもむろに立ち上がり、私が見えやすいようにソファーに手を突いて首を差し出した。
「はい、どうぞ。その代わり、見たら絆創膏返してね。寝てる間に掻いちゃうかもしれないんだから」
少し楽しそうに子供を諭すようなその口ぶりに思わず笑いながら、私は遠慮なく観察する。
遠くからだと点にしか見えなかった傷は淡い桃色の円で、それより濃い色の中心部が少し盛り上がっている。
よく見るものなのに、蛍光灯に照らされて普段より白さが際立つ肌を意識すると、途端に艶かしく感じる。
それをごまかすように、私はふざけて右手で傷を軽くつねった。
「ん…」
…ん?
ゆかちゃんから想定外の声が聞こえ、部屋の空気がとろりと濃度を増した気がした。
まさかと思い数秒待ったが何の反応もなく、ゆかちゃんの横顔も体もじっと動かない。
空気はどんどん重くなり、2人の周りを濃厚に漂い始める。
私は声の主とは違って正直な空気に従うことにした。
何も言わずに傍らにあるゆかちゃんの左腕を取り、バランスを崩した腰を抱えて引き寄せると、愛しい体は素直に私の腿の上に跨がって座り、向かい合う姿勢になった。
唇より先に、ちょうど目線の高さに来た刺し傷に吸い付く。
たまに舌先で突ついたりしながら、実は傷を目にしたときからずっと、こうしてみたいと思っていた自分に気づいた。
だって、いつもみたいに痕がつく心配をしなくていいから。
何度も執拗に、加減せず吸い上げる。断続的にゆかちゃんの喉奥から息がもれた。
ひとしきり欲求を満たして顔を上げると、戸惑うような表情。
「急すぎだよ」
そう言いつつ左手を私の首にまわし終える頃には、余裕ある大人の顔に切り替わって、
「のっち、蚊 みたい」
唾液で濡れた私の下唇を右の親指でなぞり、
「ゆかの血、欲しい?」
私の答えを聞かずに口づけてきた。
余裕が吹き飛んだ私は焦れたように舌でゆかちゃんをこじ開け、息も声も吸い取るようなキスを繰り返す。
今日は2人ともショートパンツなので、直に触れる腿が気持ちいい。
私は体勢的に珍しく自由な両腕を駆使し、キスを続けたまま腿だけでなく届く限りの全身を撫で回す。
しかしすぐに布越しの感覚に飽きて、邪魔な黒いTシャツをたくし上げた。ブラのホックも外して体を引き寄せる。
温かな感触に安心すると、苦しそうにくぐもった声が耳に入り、ようやくゆかちゃんを解放した。
ゆかちゃんの上気した頬と濡れた瞳を見て、私はさっきの問いを思い出す。
『血、欲しい?』
唇で首筋を下へ辿りながら、意識していないのに想像が勝手に膨らんでいく。
この白い肌の下を、赤い、いや紅い血が流れている。
その証拠に、私が唇を少しずらして首に押し付けると、脈打つ太い血管が触れた。
今私が歯を立てて皮膚を突き破ったら、きっと生温かくて、ほんのちょっととろみがある、あの鉄の味が口内に拡がるのだろう。
それを知っているのはゆかちゃんの他に、蚊だけ。
なんか、おもしろくない。
鬱陶しく丸まった服が進路を阻んだので、私は背を屈めて鎖骨から乳房まで勢いよくジャンプした。
「ぇ?…っつ…!」
…え?
またゆかちゃんから想定外の声が。
何かあったのかと思い慌てて口を離すと、ゆかちゃんの綺麗なはずの胸に薄らと歯形が浮かんでいた。
もしかして、私がつけた?
視線を上げた先には、本気で驚いたゆかちゃんがいた。
頭から血の気が引く、という表現を考えた人を尊敬する。今の私は文字通り血が引いていた。
「いや、これはあの…その…」
今度は、喉が張り付く、という表現を考えた人を尊敬したくなった。言葉が出てこない。
想像しただけだったのに。やってしまうなんて。
「…いいよ」
「?」
咄嗟に意味が取れない私の目の前で、久しぶりに見る切羽詰まった表情のゆかちゃんが、早口に言葉をつないだ。
「だからのっちが噛 みたいならいいって」
それでも動けずに何度か瞬きをしていると、首の後ろにまわされた手に乱暴な力で歯形まで頭を持っていかれた。
少しの間赤くなったその痕を見つめ、そろそろと柔らかな肌に歯を当てる。
もう、気が変になりそう。
翌日。
控室で寝不足の頭をだるく振り、私は手にしたラジオ収録の進行表その他諸々資料に視線を落とした。
大きなあくびを一つしたら、顎に違和感。
慌てて頭の中の思考と記憶の回路を懸命に切ろうとする私の耳に、隣で話している2人の会話が入ってくる。
「あれ?ゆかちゃんの絆創膏、おっきくなってない?」
あ〜ちゃんの声に心臓を鷲掴みにされた。
気のせい、気のせいだよあ〜ちゃん。
気づかなくていいことが、世の中にはたくさんあるんだよあ〜ちゃん。
私の想いは
共犯者にあっさりぶった切られた。
「あー、やっぱ目立つかな?なんか昨日、蚊 みたいなヤツに吸われちゃって」
手から離れた資料がバサリと床に拡がる。
のろのろとイスから立ち上がり、テーブルの下に派手にばらまかれた紙たちをのろのろと拾う私に、無邪気な声が。
「それあ〜ちゃんも経験ある!あり得んくらい腫れるよね〜。たぶん、ゆかちゃんの血が美味しいから余計に吸われたんじゃろ」
ゴンッ
「…」
私の頭が強かにテーブルにぶつかった。
「ちょ、のっち、なにコントみたいなことしとんの」
そのコントをする原因を作った人物は笑い呆れながら、床に屈んで紙を拾い始める。
私はその隙に、1人イスに座るゆかちゃんを抗議の目で見上げた。
ゆかちゃんは少し眠たげに開いた瞼の間から私を見下ろし、あの余裕ある大人の笑みを浮かべている。
そして私を見下ろしたまま長い髪を左耳にかけ、昨日より一回り大きいサイズの絆創膏を、人差し指で撫で始めた。
見せつけるようなその仕草と、小さい円を描くような指先の動きを見た途端、背筋を冷たいものが走った。
…あれ?
昨夜の光景がちらちらと浮かぶ。
珍しいうなじ。撫でていた指。楽しそうな口ぶり。空気を変えた反応。
もしかして。
始めから、誘われてた…?
私の様子の変化に気づいたのか、ゆかちゃんはにこりと笑って、真っ赤な舌先をちらりと出した。
ガンッ
「…」
「ちょっと、あんた、そんなにぶつけたら今以上に頭バカになっちゃうって!」
まだテーブルの下で紙を拾うあ〜ちゃんの笑い声が、動けない私の背中にかかった。
あ〜ちゃん、私のことはいいから。
この小悪魔をなんとかして。
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最終更新:2009年01月24日 21:31