そろそろ家を出る時間が迫ってきている。私はリビングで音楽をかけっ放しにしたまま、着替えるために寝室へ行った。
今聞いている曲は、今日これから観に行くライブの女性歌手のもの。彼女自ら作詞を手がけていて、心に響く歌詞で人気が高い。
普段は男性ボーカルの音楽ばかり聞く私に、かしゆかが『ちゃんと予習しとくこと!』とCDアルバムを数枚貸してくれた。
借りてから10日余りの間、あ〜ちゃんは毎日最低でも一度は、移動中や待ち時間にその歌手の曲をかしゆかと口ずさんだ。
そして私が2人についていけるか確かめていて、私が間違える度に根気よく訂正した。
私は特訓の成果を発揮してすらすら淀みなく歌いながら、部屋着を脱いでベッドの上に投げていく。
多分あ〜ちゃんのことだから、自分からかしゆかを誘ったライブに自分が行けなくなったことを、気にかけているのだろう。
だから、かしゆかには、その歌手に親しんでいない私が一緒でもライブを楽しめるように。
私には、その歌手に親しんでいなくてもかしゆかと一緒にライブを楽しめるように。
気遣って、少しでも多くの曲を私に覚えさせようとしていたのではないか。
考えすぎかもしれないが、きっとそう。そうじゃなくても、3人で口ずさむのが気持ちよかったから、別にいいけれど。
ベッドのヘッドボードに手を伸ばし、すっかりお気に入りになった砂時計を持って、私は脱いだばかりの服の上に寝っ転がった。
ガラスの中の砂は、黒。
じっと見つめて、頭の中で黒を白に変換する。あ〜ちゃんの砂時計の砂は、白。
白は始まりの色。変化の始まりの色。変化を受け入れる色。
だから白は、どんな色に対しても下地になって、その色が映えるよう前に引き立てる。白の前では他の色は喧嘩できず、でも自由になる。
そして白も自ら光を発し、周囲を丸ごと包んで支え持ち上げる。まさに、あ〜ちゃんだ。
私は時計を横にしたり振ったりといつものように弄ぶのを止め、うつ伏せに転がって時計を立てて黒い砂を落とした。10分間が始まる。
久々に本来の役目を果たせるとあってか、砂は嬉しそうに時を刻んでいるみたい。なんて、考えすぎ。
……そう、考えすぎ。最近の私は、考えすぎ。らしくない。
長年そばにいる私たちにとって、体の距離なんてすごく小さなことなのに。あ〜ちゃんとかしゆかから指摘されて以来、私は珍しく2人との間にぎこちなさを感じていた。
主に、かしゆかに。
それは本当に微かな、しかし体が軽くでも触れ合うと心の蓋が開いて全身の表面を漂うくらいの、ぎこちなさ。
かしゆかか私のどちらかが開ける距離が妙に気になって、でも私から近づいたらまた何か言われてしまうかと思って、ほんの僅かだけ居心地が良くない。
それでもこの10日間はイベント出演が多かったため、ほとんどの時間は忘れられていたが。
今日は、違う。今日は
はへ、っくしゅん。
クーラーが効いた部屋で下着姿のまま横になる。夏風邪をひく条件を、わざわざ自分で満たしてどうする。
私はくしゃみでそう気づいて鼻をすすりながら体を起こし、砂時計を元の場所に置いてクローゼットへ向かった。
砂が落ちきる前に着替え終わらないと、かしゆかとの待ち合わせに遅刻してしまう。
適当に選んだ服に急いで身を包みつつ眺めていたら、落ちる砂はやはり嬉しそうだった。
会場の最寄り駅の改札近くは混雑していた。ライブのためとも思えるし、これが通常状態とも思える。
が、壁際に立つ私の前を行き過ぎる人々の年齢層が、心持ち高いような。
肌にまとわりつく暑さと湿度に嫌気がさしかけた頃、私の視界の中心を歩く女子高生の頭上、というか頭の後ろに、見覚えのある灰色のキャスケットが見えた。
見覚えがあるだけでなく、挙動不審に忙しなく動く様子から、それをかぶる人物が私の待ち人だとわかる。あの動き方は、間違いない。
当然待ち人が私を探していることもわかったけれど、10分も待たされたのだから向こうから気づいてほしくて、私は立ったまま腕を組んで見つめた。
だらだらと私の方へ歩いて来る女子高生のおかげで、私からは後ろでくるくると回るキャスケットしか見えない。
落ち着きのないその動きを見つめながら、隠れている下の表情をなんとなく想像したら、徐々に笑いが込み上げてきた。人前なので、堪えなければ。
十数秒後、ようやく軌道を変えた女子高生の陰から姿を現したのっちは、いつもの困り顔で周りをキョロキョロ。
キョロキョロしてすぐに私を見つけると、眉は困ったままで目と口だけを器用に笑わせた。
全てが想像通りすぎて、走ってくるのっちが到着する前に、私は耐えきれなくなった。慌てて口元を手で隠すも、隠しきれない。
「ごっめん遅くなっ、て…なんでかしゆか爆笑してんの?」「だって、あまりにものっちが…のっちっぽくて。帽子までのっちっぽいなんて」
「帽子?これ前から持ってるじゃん。あ、この格好のこと?」「そうじゃなくって…いやそれもそうなんじゃけど…まぁいいや。出っ発!」
「ちょっと、まぁいくないくらい笑ってない!?お腹抱えてるしっ」「説明すんのめんどいから、まぁいいのぉ〜!」
納得がいかなくてもいかないなりに笑うのっちと、
波のように流れる人混みと共に、私は駅を出てライブ会場へ向かう。
駅の外は、沈みかけの太陽が往生際悪く頑張るせいで、中より蒸し暑かった。あと1時間もすれば沈みきるだろうが、この季節は、沈んだ後も太陽が地球の裏側から日本を温めているみたいに、蒸し暑い。
そんな空気を泳ぐように歩いて会場へ続く真っ直ぐな道路に入ると、同じ目的の人々が長くて幅広い列を作っていた。列に隙間はあるが、なかなかの壮観。
昨日も一昨日もライブイベントに出ていたので、こうして自分たちが完全に観る側になるのは久しぶりだった。
出番が控えていたり、関係者として観る時とは違って新鮮だ。すごく、新鮮。
新鮮、といってもつい一年程前までは仕事よりも休みが多くて、列を作らせる側よりも作る側に近かったのに。いや圧倒的に作る側だったのに、新鮮。
私は今沸いてきた気持ちを、頭の隅に画鋲で貼り付けることにした。忘れてはいけない気がする。
これから自分を、3人を客観視したくなったら、貼り付けたこの気持ちを眺めよう。
そう思い入念に画鋲でとめ終えると、のっちとの沈黙が気になった。待ってものっちから何も言ってこないので、適当に話題を探す。
「そういえば、のっちなんか食べてきた?」「ううん、なんも。だってライブ前に食べたら、ジャンプした時に“うっ”て出てきそうじゃない?」
「…あのーのっちさん、今日は誰のライブを観に行くんでしたっけ?」「……っあ〜そうですよね、ジャンプとかするノリじゃあないですよね」
「まぁ別にのっちが隣で飛び跳ねてても、ゆかは気にせんよ?」「うわ。でもあれなんでしょ、段々こう、のっちから離れてくんでしょ」
「うん。さりげなーく、ね。だって恥ずかしいもん」「やっぱり!冷たいなぁ」
隣で大きく口を開けて笑うのっちの首筋に橙色の日の光が当たって、うっすらと汗が浮かんでいるのがわかる。
灰色のキャスケット、くすんだ水色のボーダー柄ポロシャツ、七分丈のジーンズ、履き慣れていそうなスニーカー、という動きやすさ重視の格好をしたのっちは、健康的で眩しい。
眩しくて、綺麗。
綺麗で、少し、遠い。
あ〜ちゃんと私がのっちに体の距離について言った日。あの日から、気のせいではなく明らかに私とのっちの距離は離れた。
その距離が昔に戻ったのか、あるいは昔より離れているのか。そもそも離れた距離は物理的なものだけなのか、精神的なものも含むのか。
そしてあの日から、変に意識してしまって距離を開けたのは私なのか、のっちなのか。正直全くわからなかった。
さりげなく観察しても、のっちは、よくわからないから。
何にせよ、あの時言ったことで、私の奥底で燻っていたごくごく小さな迷いと、磁力のような皮膚の感覚が無くなったのだから、万事問題ないはず。
私はのっちと他愛のない会話を途切れないように続け、列を作る人々に紛れて会場に足を踏み入れた。
すでに開場時間を過ぎていたロビー内は、もはや列ではなく人の塊で埋め尽くされていた。ホールに向かう人と、グッズを求める人でごった返している。
片手で自分の帽子を押さえながら、塊の流れに逆らわないよう、かつホールに近づけるよう、小刻みに進む。
ロビーは広いのに、大勢の人が集まった時に生まれる熱気で暑い。
熱気を見渡すのではなく熱気の中に直にいるのがとても懐かしく感じて、これも頭の隅に貼り付けておく。
…貼りながらふと気づくと、隣の存在感が消えていた。
のっちとはぐれた、と思った瞬間、バッグを持った腕が斜め後ろへ強く引っ張られた。
「きゃ!」
驚いて思わず上げた声は意外に音量が大きく、私は直近の周囲から視線を浴びる予感がして。
しまった、と思った瞬間、今度は帽子の上の私の手に別の手が重ねられ、強く下へ押さえつけられた。
「俯いて、かしゆか」
「っ!」
耳元の真後ろでよく知った声に低く囁かれ、今度の今度は動揺した心臓が口から飛び出しそうになった。慌てて頭を下げて俯く。
人の塊以上に私を翻弄した、背後にいる手と口の持ち主であるのっちに抗議する余裕はない。手だけでなく体でぐいぐいと後ろから押してくるのっちの力に、仕方なく身を任せた。
すると人混みの中を上手い具合に泳いで、あっという間にホールの入口前に辿り着いた。
開いた扉近くの壁際は空いており、文字通り私はほっと一息つく。人の密度が下がって、熱気も心なしか濃度が薄い。
なのに暑い、熱い。
原因は私の左手と右腕をそれぞれ掴んでいる2つの手と、私の背中に密着した1つの体。
それを察知した私の皮膚を、あの反発する力がざわりと覆った。しばらくぶりに、磁力が働き始める。しかも微弱どころではなく、強力な磁力。
私は距離が近すぎて体が固まりそうになるのを懸命に堪え、頭だけ動かして後ろを振り返ったら、のっちの香りがした。
いつもは爽やかな香りのはずなのに、今は甘ったるく感じる。
いけない。このまま黙っていたら、変だ。何か言わないと。
斜め前から見えるのっちは周りを注意深く見回し、私たちの存在がバレていないか確かめている。
そしてすぐに私からの視線に気づいてのっちが前を向くから、私の目とのっちの大きなそれが、ぴったり合ってしまった。
「大丈夫みたいだ、よ……ぁ」
そう言って今までとは正反対にわかりやすく、のっちが意識して私から離れるから、私が何か言う前に空気が変になってしまった。
私はどうすれば、いい? どう言えば、正解? どう言えば、元に戻せる?
あの表情と共にかしゆかの香りがして、私はあからさまにわざと手と体を離した。2回瞬きをする間を空け、かしゆかが安心顔で言う。
「ほんと?よかったぁ」
「うん…よかった」
私に立ち直る暇を与えず、かしゆかは体をこちらに向けて悪戯っぽくにやりと笑った。数秒前まで私が掴んでいた腕の肘で、お腹を小突いてくる。
「ふふふ。のっち、前にあ〜ちゃんとゆかが言ったこと、意識しとるじゃろ」「えっ?あ〜、うん、いや別に…ただ自分でも近かったな、とは思った」
「でも女の子同士ならあれくらい普通よ?のっちはあんまりベタベタしないタイプだから、つい気になっただけで」
「そう、だよね。なんだろ…最近、人肌恋しいんかな?」
「なんよそれ!?…てゆーか話戻るけど、うちらがバレそうになったんは、のっちが何も言わないでいきなりゆかの腕引っ張るから悪いんよっ」
「え〜だって、はぐれそうだったんだもん。ごめん」
なんとか普通に笑って返したら、満足そうに微笑んだかしゆかは、自分の黒い中折れハットのずれを整えて、ホールの入口方向へ勢い良く体を翻した。
私も気を取り直してついて行こうと足を一歩踏み出したが、前の中折れハットは動こうとせず止まっている。どうしたのだろうか。
「入んないの?あ、もしかしてグッズ欲しい?」
私の問いに振り向いたかしゆかの顔には、あの普通の表情が浮かんでいた。
さっき目が合った時と、そして10日前まで私が近づいた時に表れたものと同じ、ごく普通としか言いようがない表情。
また意表を突かれて動けずにいると、私の手がかしゆかのバッグを持っていない方の手に捕まえられた。
「もうのっちに驚かされるのはヤだから、手、繋ご?」
絡められた指が、ひやりと冷たい。対して私の方は、じっとりと汗ばんでいる。
私は緊張がすぐ、手に表れるから。
緊張? いや違う、停留する熱でロビーが暑いからだろう。大勢の人に囲まれていてライブ前で、ひどく、暑いから。
そしてまた目が合って、かしゆかの手に触れている面に、あの一層の膜が生まれた。久しぶりの感覚だが、いつもは薄いはずの膜に妙な厚さを感じる。
普通の表情を消してかしゆかが柔らかく笑ったので、我に返った私は咄嗟に思いつくまま返答した。
「…そだね。はぐれたくないし」「ほーら、また意識しちゃって。でもさ、こやって女の子友達と手とか握ってると、安心しない?」
「うん、する。…あ〜ちゃんとか、なんか安心して楽しくなるよね」「あ〜ちゃんは女子の中の女子、だもんね〜。よくくっついてくるし」
こんな調子でとりとめなく話しながら、かしゆかの手に引かれる形で私はホール内に入っていった。
ホールは天井が高く、空間をかなり広く感じた。今までロビーで人波に揉まれていたため、だいぶ息がしやすい。私は歩きながら深呼吸を繰り返した。
この会場はテレビ収録で何度か使用したことがあり、小さい頃まで遡れば一般客として来たことも数回ある。
しかしこうして客席で、どことなく浮き足立って走りたくなるような、比較的静かなのについ声を張りたくなるような、ライブ前特有の雰囲気に包まれるのは近頃あまりなかったので、なんだかくすぐったい。
私たちは世代が一回りも二回りも上に見える人たちの前を通って、進む。過去に経験してきたどのライブとも、ファン層が違って奇妙な感じがする。
2人でしゃべりっぱなしのまま座席に着いて、自然に手が離れる間際*には、かしゆかの手の冷たさは気にならなくなっていた。
それが私の手の熱が伝わったせいなのか、あるいは私の手の膜がどんどん厚くなっていったせいなのかは、判別できない。
先を歩くかしゆかの顔が、見えなかったから。
座ってからも、ここ10分弱の間に乱された調子を元に戻したくて、私の口は落ち着きなく言葉を発し続けた。かしゆかも普段通りよく聞いて、話して、笑ってくれる。
口と同じく全く落ち着く気配を見せない心臓を殴りたくなってきた頃、場内の照明が落とされ歓声が上がり、ライブが始まった。
ライブが始まると、透き通っていて独特な余韻が残る女性歌手の声が、大音量で耳に。
個性的な単語選びで綴られる歌詞が、彼女の身振りで目に。遠慮なく伝わってきて鳥肌が立った。
会場にいる全員に歌を届けたいという想いが、彼女の演技とも思えるようなパフォーマンスとステージの演出と重なって、まるでミュージカルみたいだ。
しかも観客は皆、席に座ったまま聞いている。見たことのない光景に、私は一度だけ、思わずぐるりと頭を一回転させてしまった。
そんな初めての環境に一通り衝撃を受け終わったら、音楽への集中がじりじりと、隣の席へ移動してきた。
そしてじっくり耳を傾ける曲が多く、体を動かすことも少ないライブだから、変なゆとりができて思考が顔を出す。
あんなにも、かしゆかとの距離が気になるのは、何故だろう。
あの日2人に言われるまでは、何でもなかった。それまで通りの、昔から変わらない、3人。
変わらない? いいや、変わってきている。
私はしっとりしたバラードが響く中、できるだけ頭を動かさず、隣に座るかしゆかを盗み見た。
ステージからの淡い青色の光で浮かび上がっている、横顔。
僅かに細められた瞳、すっと通った鼻筋、細い顎のライン。そして、ちょっとだけ上を向いている唇。
綺麗。綺麗な、大人の、女性。
ほら。私たち3人の時間はどんどん流れて、体は変化している。中身も、恐らくは変化している。
だから。かしゆかは、何を考えているのだろう。
何を考えているのか知りたくて、あの普通の顔の内側が知りたくて、私は無意識に近づいていたのだろうか。
……なんて、考えすぎ。らしくない。自分でもわかっている。
考えすぎているその最中に、歌詞が断片的に心に侵入してきて、気持ち悪い時間がしばらく続いた。
気づけば、音楽に集中できない私をすっかり置いてきぼりにして、ライブは最後の曲になったらしい。ステージの彼女がMCを始めた。
これから歌う曲の歌詞を作ったきっかけを、話しているようだ。
「…私が学生の頃、すごく仲良くしていた友人がいて。あ、女の子なんですけど。
彼女は特に変わったところもなくて、ただ強いて言うと、ボーイッシュな感じの子だったんです。よくいる普通な感じの。
で、ある日、その子の家に泊まりに行って、こう、夜に電気を消して、並んで敷かれた布団で2人で眠りにつこうとした時に。
…その子が、私に覆い被さってきて、キスされそうになったんです。『好き』と言われて。
私は…反射的に、こうやって、“イヤ”って、手で遮ってしまって。
何が起きたのかわからなくて、でも、何も考えずに拒んでしまったんです。…」
私はMCの途中から、何も聞こえなくなった。音としては聞こえているけれど、内容が勝手にばらばらに散っていく。
呆然として動けない主人の代わりに心臓が動転して、さっきから狂ったように暴れている。抑える気にもなれない。
座っている椅子の感触が、おかしい。実感がない。
何をこんなに狼狽しているのだろう、私は。特別変な話ではなかったはずなのに。
何故かどうしようもなく、今すぐ、かしゆかの顔が見たい。何を考えているのか、知りたい。でも隣を見られない。
どうして? どうして見られない? どうして見たい?
どうして、知りたい?
別に自分のことを言われているわけではない。だってキスとか、好きとか、そんなこと考えたこともない。
距離がどうとか、たかがそんなことしか、考えていない。
『ほーら、また意識しちゃって』 かしゆかの声が記憶から響いてきた。
何を? 何を意識してる?
私が何も答を出せない内に、感動的だったらしいライブは終了した。
「そうそう………あ、パンフ?あーもーもっちろん、ばっちし買ってきたけぇ、明日渡すわ」
私がのっちと別れて帰宅して、しかも着替えてメイクを落として歯を磨き終えた頃、あ〜ちゃんから電話がかかってきた。
確実にタイミングを見計らい、そして正確にタイミングを当てた着信に、それまで私を取り巻いていた霧はたちまち消え去った。
あ〜ちゃんに頼まれてライブ後に買ってきたツアーパンフレットは、ベッドサイドテーブルの上に置いてある。
明日忘れずに持って行けるよう、私はベッドから立ち上がり、それをどこかへ移動させようとした。
「…うんっ超良かったよ!なんか、胸に滲みてく感じ?涙出そうになっちゃってさ………あは、ごめん、実は出てた」
どこに移動すれば忘れないのか。パンフレットが入った透明なビニールを、携帯を持っていない方の手の指でなぞる。
なかなかいい案が思いつかない。
所在なく動いていた指が諦めて、隣にいた砂時計に触れた。私より冷たくて、気持ちいい。
私は時計を持ってベッドに腰掛け、あ〜ちゃんの話に相づちを打ちながら、それを目の高さまで持ち上げて引っくり返した。
中の砂は、灰色。
ガラスの真ん中の隙間から落ちていく砂が作る線は細くて、白っぽく見える。明るくて可愛らしくて、キラキラしてる色。
あ〜ちゃんの時計の砂は、白。
「うん、だからそんな気にせんでいいって。むしろゆかだけ楽しんじゃったし………え?のっち?」
細やかな気配りができるあ〜ちゃんだから、のっちのことが話題に上がるのは予想できていたのに。
あまり準備ができていなかったので、私の頭の周りにはまた、消えたはずの霧が立ち込めてきた。
「普通に楽しんでたと思うけど………いや別に、なんも。あ、でものっちはほら、よくわからんけぇ」
これは、嘘。今日ののっちは、わかりやすかった。
ライブ前もそうだったけれど、終わった後は間違いなくおかしかった。別れるまで口数が少なくて、ずっと私がしゃべり通しだったから。
私は目の前の砂時計を、想像の中ののっちみたいに傾けたりして遊ぼうとして、止めた。支えていた手ごと、時計を膝の上へ降ろす。
帰る間のっちがおかしかったのは、恐らくあのMCのせい。多分、そう。わかりやすかった。
だって…だって、何? どうして私はそう思うの?
「え?最近ののっち?…ん〜、そう言われたらそうかも。あ〜ちゃんはよく見とるねぇ………ふふ、メールが返ってこんのは前と変わっとらんじゃろ」
これは本当にちょっとだけの、嘘。昨日までののっちは、意識してもわかりづらかった。
意識しても? 意識していたのは、私?
不意に、今まで自分のことをきちんと見直していなかったことに気づいた。よくわからないのっちを、言い訳にして。
だから…もしかして、のっちの口数が少なかったのは、私がしゃべり続けていたから?
少し混乱してきた。きっとあ〜ちゃんと会話しながら考えるから、余計なことが浮かんでくるんだ。
「うん、うん………ほんじゃ、また明日ね〜。おやすみ!」
私は通話を切って携帯を閉じ、両手に持っているそれぞれを定位置に戻そうと立ち上がる。
戻す寸前、手の中の砂時計を見ると、砂が落ち終えてしまっていた。黒っぽい灰色の丘が、底にできている。
その砂の丘が嫌で、私はまた時計を逆さにしてから、テーブルの上に置いた。
————to be continued————
最終更新:2009年03月30日 01:02