概要
経歴
高校時代まで
1981年、京都府生まれ。小学生時代から野球を始め、ポジションは一貫して投手だった。中学時代の東丹シニアの一員として全国大会出場の経験し、日本代表にも選ばれた。
高校は三重県の三重中央高に野球留学。甲子園出場こそならなかったが、最速147キロのストレートを武器に3年夏にはエースとして準優勝を果たしている。地元の中日の他3球団が興味を示し、1999年ドラフトでは横浜から5位指名を受けた。
横浜時代
ルーキーイヤーの2000年は高卒1年目ながら二軍では好投し、フレッシュオールスターゲームにも出場。終盤には一軍デビューを果たした。
翌2001年からは強心臓を買われリリーフに転向し16試合に登板すると、2002年には53試合に登板し6勝3セーブを挙げ一気にブレイクを果たす。ホールドが導入された2005年には26ホールド、2006年には4年連続50試合登板を果たし自己最多38ホールドをマーク、セットアッパーとしてフル回転した。
しかしそれまでの酷使が祟って2007年の春季キャンプ中に肘を故障すると、以降は一軍から遠ざかった。2008年オフに球団から戦力外通告を受け、育成契約での残留を断って退団を決めた。
横浜退団後
2009年は台湾プロ野球・兄弟エレファンツに在籍するもケガのために登板機会がなく6月に解雇。その後はリハビリに専念し、一応の完治を見た2010年に四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツに入団。愛媛では2年間で38試合に登板し、2勝9セーブを挙げている。
2011年オフに現役引退を表明し愛媛を退団。2012年は野球解説者として活動した。
2013年からPGB・広島レッドリーブスに投手コーチとして入団。1年目は環境の違いなどから手腕を発揮できなかったが、2年目は投手陣の数字を軒並みアップさせ地力の向上に成功。リーグ優勝・日本一にも貢献した。
オフに広島レッドリーブスを退団し、千葉ロッテマリーンズの二軍投手コーチを務めたのち、2017年より監督として広島レッドリーブスに復帰した。
詳細情報
背番号
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最終更新:2018年02月05日 15:02