2.学園七不思議ー1~後日談~アフターケア
僕は暖かい空間でまどろんでいた。
胎児のように膝を抱え、悪夢に魘される事もなく、心地よい空間に漂っていた。
それが突然、左手に鋭利な痛みを感じて目を覚ました。
僕は瞼を開けると、今まで包まれていた白い霧の様な空間から、いきなり弾き出された。
「いって~! 指切ったぁ!」
見覚えのある少女が包丁を片手に指を咥えているのが見える。どうやらここはキッチン
らしい。痛そうに指を咥えている少女を見て、僕の胸は弾んだ。
あれは僕を優しく包んでくれた冴子さんだ!
冴子は僕の気配に気づくと、ちょっと驚いたような顔をした。
「あれ? まだ覚醒には早いと思ってたのに、もう起きちゃったの?」
「う、うん。急に指に痛みを感じたらここにいた。……会いたかったよ! 冴子さん!」
僕は冴子に再び会えたのが嬉しくて、思わず抱きつこうとした。
だけど、冴子はいきなり手に持っていた包丁を僕に翳し、僕の接近を阻んだ。
「ストップ! ストップ! 悪いけど、あたしはアンタの冴子じゃないの。アンタの冴子
はそこにいる、淫乱女の事でしょ」
冴子は包丁の矛先をくいっと横に向ける。その切っ先には白く光る色っぽいお姉さんが
揺れるように立っていた。
「いやぁ~ん! 珠美ちゃんたらぁ~! ママに向かって”淫乱”なんてひどいわっ!
ママ、傷ついて泣いちゃうわよぅ~!?」
「――勝手に泣いてろ。それより、コイツに説明してやれば? 起きちゃったみたいだし」
――え? え? 僕は混乱した。
僕が意識をなくす前に抱きしめてくれた子は、この包丁を持ってる冴子じゃない?
この色っぽいお姉さんの方が……僕の冴子!?
「ほれ。混乱してるみたいだから、早く教えてやらんか!」
「あらあら~。まだ浄化しきってないのに、珠美ちゃんが怪我したショックで起きちゃっ
たのね。隆志クン。でもさすが珠美ちゃんねぇ~。この短期間でだいぶ魂が綺麗になって
るわ! ね、隆志クン、あたしがわかる?」
色っぽいお姉さんが僕に近寄ってきた。傍で見るとすごい美人だ。それに冴子に似てる。
僕はお姉さんの色香にたじろぎながら後去ってしまった。
「え、え~と……。お、お姉さんが冴子さん……? じゃ、そこにいる冴子さんは?」
綺麗なお姉さんは微笑みながら近寄った。あの、非常階段の時の様に艶然とした微笑だ。
「いや~ん! お姉さんだなんて! 隆志クンったらぁ! そう、冴子はあ・た・し。
そこにいる粗忽な子は、あたしの娘の珠美ちゃんなの。びっくりした? 隆志クン?」
包丁を握っている方の冴子は、不機嫌そうに振り向いた。
「……粗忽で悪かったね! それに、『びっくり』じゃなく『がっかり』って聞くべきじ
ゃないの? 何しろ、せっかくの初体験がおばさんだったんだからさ」
――包丁を握ってる冴子の方が、このお姉さんより怖そうだ……、と僕は思った。
「ひっどぉ~い! 珠美ちゃんのバカッ! がっかりなんてしてないよね? 隆志クン」
「え、え~と……? 冴子さんが珠美って子で、珠美って子が冴子さん……?」
「あたしもね、実はもう魂だけの存在なの。だからあの時は珠美ちゃんの体を借りて、隆
志クンに会いに行ったのよ。隆志クンは今迄、珠美ちゃんの中で眠っていたの。わかる?」
「さ、冴子さんは幽霊だったの!?」
「そ。あんたと同じね。地縛霊の隆志クン。あー! もうこの包丁剥きにくいったら!」
包丁を持っている冴子……いや、珠美は不機嫌そうに包丁をまな板に突き刺した。
僕はまな板の断末魔の叫びが聞こえた様で、ぎくっと体を竦めてしまった。
「珠美ちゃん! 隆志クンに失礼でしょっ! もう隆志クンは自縛霊じゃないし、包丁も
悪くないわよぅっ! 八つ当たりしちゃダメって、ママいつも言ってるでしょぉ~」
お姉さんの冴子が僕を庇うように前に立って、珠美という少女を叱った。
……全然迫力も、説得力も無かったけど……。
珠美という少女は、冴子を睨んで僕らに迫ってきた。僕は思わず強張ってしまう。
僕は目覚めてすぐ巻き込まれた緊迫した空気に、ただおろおろとするばかりだった。
「ただいま~。くそ~! スンボリ・アドルフめ、最後の直線で抜かれやがって~」
緊張感を壊す様に、無精髭のおっさんが入ってきた。
珠美の緊迫した視線が僕らからおっさんへと移る。……あ~、怖かった……。
「……いないと思ったら、また競馬かよ!? クソ親父!」
「おかえりなさ~い! ダ~リン! ねえねぇ~珠美ちゃんったらひどいのよぅ~!」
――親父!? って事はこのおっさんが珠美の父さんで、冴子さんはこのおジンの……?
「おいおい、台所で刃傷沙汰か? な、なんだ!? この血染めのジャガイモはっ!?
あ~あ、珠美ちゃんは冴子に似て、料理が全くだめだなぁ……。さ。どいた、どいた」
おっさんは珠美という少女の脇から水道をひねると、手とジャガイモを洗った。
そしてまな板に突き刺された包丁を引き抜こうとして、『ぬんっ!』と唸る。
包丁は抜けない様だった。……何しろ僕はまな板の”叫び”を聞いちゃったしなぁ。
「お~い! 珠美ちゃん……、まな板は親の仇じゃないんだぞ? パパまだ生きてるし。
って、あれ? そこにいるのはこないだの学園の少年じゃないのか?」
おっさんは、やっと今僕に気づいたようだ。
「ど、ども……」
なんだかよくわからないが、僕はとりあえずおっさんに挨拶してしまう。
「よぉ。早いお目覚めだな。よ~し、待ってろ! 今俺がうまい夕飯作ってやるからな!」
おっさんは驚いた様子もなく珠美にまな板から包丁を抜かせると、慣れた手付きで料理
を始めた。
エプロンに”父入魂!”と書かれているのが、なんだか妙にアンバランスだ。
「よっしゃぁ! お待ち~! 父入魂の手料理だぞ!」
あっという間に料理を仕上げたおっさんは、手際よくテーブルに4人分の盛り付けした。
「きゃぁ~! ダ~リン、素敵ぃ! おいしそう~」
「……遅いって、親父! 育ち盛りの娘を餓死させる気かよ!?」
文句を言いながら珠美は椅子に座る。……やっぱり珠美って子は怖いと僕は思った。
「隆志クン、食事も久しぶりでしょ? さぁ、一緒に食べましょ?」
優しい方の冴子が僕を食卓に誘う。料理の温かい湯気と香りに、僕はまた驚いていた。
触覚と共に嗅覚も感じるなんて! ここは若干小悪魔がいるけど天国じゃないのか?
感動しながら冴子と共に食卓に着いた僕は、瞬時に感動が消え、凍りついた。
冴子と僕の食事には、盛り付けたご飯に箸が突き刺さっていた。
ばぁちゃん達が仏様に御供えする時の、あのやり方だ。
――そうだ。虐められていた頃にも、よくこういう事をされてたっけ……。
僕は生前の忌まわしい記憶が蘇り、一気に気分が悪くなって席を立った。
「ぼ、僕はいらない……! こ、こんな物食べるもんか!」
思わず叫んでしまう。すると、辺りの空気が急に暗く、冷たく感じられて来た。
「あらあら……、嫌な事を思い出しちゃったのかしら? 隆志クン。『負』の”気”が戻
って来ちゃってるわ。珠美ちゃん、何とかしてあげて~」
配膳早々『いただきます』も言わずにご飯をかっ込んでいた珠美が、僕を横目で見る。
こ、怖いけど、こんな少女に負けるもんか!
「んも~! 今時の奴は箸も使えないんでしょ。しょ~がね~な~、あったく!」
面倒そうに茶碗を置き、珠美は僕の分の茶碗から箸を抜き取ると、代わりにフォークを
突き立てた。しかもキャラクター入りの女の子用フォークだ!
「ほら。これなら食べれるでしょ? まさか好き嫌いがど~とか抜かす気じゃないわよね?
手間かけさせるんじゃないわよ! さっさと座る! そして食え!」
だから、僕が言いたいのはそういう意味じゃなくて……!
そう言いたかったのだが、何故か僕は催眠術にかかった様に食卓に座り、震える手が、
意思に反して料理を口へと運ぶ。
嫌だ! こんな風に出されたご飯なんか食べたくない! そう思うのに、僕は食べてし
まう。そして思わず声に出してしまった。
「……お、おいしい……」
「うちのバカ親父の唯一の取り得だからね。冷めないうちに、さっさと食べな!」
少女・珠美は『当たり前』とでも言うように、ご飯を頬張りながら茶碗を差し出した。
「お代わり!」
「ほいほい」
おっさんは笑いながら珠美にご飯を装ってやっている。
「ごめんねぇ~、隆志クン。乱暴な子で驚いちゃうでしょ。私の子なのに女の子らしくな
くて……。でもね、あれでいて珠美ちゃんって、”お金”と”情”には弱い子なのよ~」
珠美がじろっと冴子を睨んだ。冴子は肩をすくめて食事を再開する。
冴子さん……今の発言は、さすがにフォローになってないと思う……、と僕は思った。
「大体ね~。生前は虐めだろうけど、今は死んでるんだし。いちいち気にすんなっての!」
お世辞にもお行儀がいいとは言えないマナーで、珠美は食事をがっついている。
そうか……。言われてみれば、その通りだ。食事を一口食べる毎に、さっき冷えた体が
再び暖かく満たされてくる。これは一種の供養なのかもしれない。
僕は何年ぶりかで暖かい食事を味わった。
食事が済むと、僕と冴子さんは珠美に引っ張られるように、彼女の部屋へと移動する。
霊力かなにかで、僕は珠美っていう子に引っ張られているのかもしれない。
ちょっと待てよ? そうしたらお風呂やトイレも珠美と一緒に行くんだろうか!?
「それはないから。……やっぱりまだ浄化しきれずに、煩悩が出てきてるわね」
珠美は僕の心を読んだように鋭く突っ込みを入れてきたので、僕はひやっと驚いた。
珠美は僕を見えない糸で引っ張ったまま、部屋に戻るとベッドにドスンと腰を下ろした。
動作の一つ一つに、なんだか迫力がある。僕はもうたじたじと見守るだけだった。
「……で? どうしたいの、隆志。あんたの遺書には恨みつらみが書かれてるけど、今も
あんたを虐めた奴等が憎いわけ? 自分と同じ目にあわせたいと思ってる?」
珠美の手には、僕が書いた遺書があった。……あれは風で飛ばされ消えた筈だぞ!?
「な、なんで君がそれを持ってるんだ!? き、君が拾って隠してたのか!?」
「はいはい、ストップ、ストップ。また邪念で浄化が遅れるわよ。これは”念写”みたい
なもん。実体はないの。あんたの残留思念からあたしが抜き取ってみただけ」
珠美はすっと遺書を振ると、僕の遺書は手品のように消えてしまった。
「あ……、僕の遺書……」
「いいから。話を続ける!」
名残惜しそうに遺書の消えた場所に手を伸ばそうとした僕を、珠美がせっかちに制してくる。
僕は目覚めてから驚いてばかりだったが、少し余裕を持って考えられる様になっていた。
――正直、憎くないといったら嘘だ。あの頃の孤独や屈辱は思い出したくもない。
だけど、呪い殺したい程か?と考えると、なんだか違う。そんな勇気は元々ないんだ。
ただ僕は、僕を思い出しもせずに今を暮らしてる奴らに、僕を思い出して欲しかった。
虐められれば傷つくって事を知って欲しくて、あそこにずっと立っていたんだ。
「そっか、……わかった。んじゃ、早速いこっか」
僕が何も口に出さないうちに、珠美はコートを羽織り出した。
「い、行くって……!? ど、どこへ……? ちょ、ちょっと! さ、冴子さ~ん!?」
僕は珠美に引きずられながら、なんだか怖くなって冴子さんを目で探した。
「あらぁ~、珠美ちゃんったら。あなたはまだ中学生なんだから、補導されちゃダメよぅ」
冴子さんがゆらゆらしながら珠美に声をかけるが、どうやら幽体離脱している時の冴子
さんには、僕の心の声が聞こえないらしい。
「そんなヘマするわけないでしょっ! あたしは誰かさんと違うんだから」
僕の抵抗もむなしく、珠美は夜の街へと歩を早めてゆく。
「えっと、虐めの首謀者は『前島』か。ふむふむ、平凡な名前だわね」
「だ、だろ……? どこにでもいる苗字だよ。どうやって見つけるのさ?」
珠美はうるさそうに僕を振り返ると、こともなげに言う。
「あんたの頭の中にクラス名簿が残ってるじゃない。それとあたしのカンだわね。あのさ、
もっとしゃきっとしてなさいよ! 一応ついてるって事はもうわかってるんだからさ」
僕はまるで生きていた頃の様に顔が熱くなって、思わず股間を隠してしまう。
「あ、『前島』み~っけ!」
珠美は繁華街を一直線に歩き出した。
「え、ええっ!? もう!?」
驚く僕の後ろから、冴子さんが覗き込んだ。ちょっと自慢げに、呑気そうに笑っている。
「ふふっ! 隆志クン、珠美ちゃんは”本物”だもの。私の娘だしね~?」
「……それが一番のあたしの不幸だけどね……」
「えぇ~っ!? も~う、珠美ちゃんのいじめっ子ぉ!」
「いいからちょっと黙っててよ。かーちゃん」
珠美はすたすたと一人の中年男の前に立ち塞がる。僕は一体何度驚くんだろう!?
この前髪前線が後退し始めてるおっさんが、あの『前島』だって言うのか!?
僕があの非常階段から動けないでいる間に、月日は前島を確実に中年にしていた。
同僚らしき男達と、ほろ酔い加減で歩く前島が珠美を見下ろす。
珠美はたじろぎもせず、明るく笑って前島に声をかけた。
「こんばんはっ! おじさんっ! こないだは、楽しかったよ。今日も遊んでぇ~?」
連れの男達が驚いた様に前島に突っかかる。
「おいおい! なんだよ前島~! お前、援交なんかしてたのか!?」
前島は、僕が見たことのない慌てぶりで、僕はちょっと可笑しかった。
「ば、馬鹿! んな訳ね~だろっ! お嬢ちゃん、誰かと間違ってないか!?」
珠美は焦る前島に、けろっとして言う。
「やだなぁ、前島のおじさんってば! こないだ夜明かしでカラオケ一緒にしたじゃん!
また酔っ払って忘れてたんでしょ? いいからさ、今日も行こうよ、ねっ!?」
たじたじしていた前島の鼻の下が伸びてくる。
「そ、そうだっけ……? しょ、しょうがね~な~! こ、今夜は俺、短時間で帰るぞ?」
「うんっ! いいよっ! おじさん、奥さんがこっわ~いんだもんね~?」
珠美はしれっと言いながら前島の腕にぶら下がり、引っ張り始める。
「お~い、前島! 奥さんにちくっちまうぞ! 今度は俺らも誘えよ!?」
背後で冷やかす同僚に、前島はやや自慢そうに何か言い返すと、珠美と一緒に歩き
始めた。
繁華街を前島にくっついて歩く珠美は、僕らに見せる迫力のかけらもない。
きゃぴきゃぴした『ただの』女子中学生だ。そのギャップにも僕は絶句していた。
ラブホテルの前で立ち止まると、前島は助平そうに笑う。
「こ、今夜はここでいいかな? お嬢ちゃん」
いかにも下品そうな安ホテルだが、珠美は気にせずに言う。
「うんっ! さ、いこいこ! おじさん」
二人がホテルに入っていくと、引っ張られながらも僕は心配になった。
前島は虐めっ子の中でも一番腕っ節が強くて乱暴だったんだ。珠美は大丈夫なのか……?
僕が振り返ると、冴子さんは『心配ないわよ』と言う様にウィンクして見せた。
ケバケバしいホテルの一室に入ると、珠美は早速カラオケマイクを探し始める。
その背後から、スケベ心丸出しで前島が珠美に抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと! おじさん、重いってば! カラオケするんでしょっ!」
押し倒されながら、珠美は前島の下でもがき始める。前島は中年太りで重量級だ。
「カラオケなんか後でいいよ。男と女がホテルに来たら、まずやる事があるだろ?」
スケベ顔丸出しの前島は、昔の面影を残していた。
「ちょ……っ! やだっ! おじさんってばっ! せめてお風呂入らせてよっ!」
珠美は前島を振り払おうとするが、脂ぎったオヤジの前島はにたりと笑う。
「駄目だね。おじさんはお嬢ちゃんの汗の臭いをかぎながら、やらしい事がしたいんだ」
「さ、冴子さんっ! た、珠美ちゃんが危ないよっ!」
ああいう顔をした時の前島は、執拗な程残虐なんだ! 僕は冴子さんに縋りついた。
だが次の瞬間、前島の巨体は宙に浮き、ダブルベッドの下へと投げ飛ばされていた。
「典型的なガッツキ野郎ね。最低~。弱いもの虐めが未だに楽しくて仕方ないんだね」
珠美は汚いものに触られたという様に、ベッドの上で衣服をはたいていた。
「こ、このアマ……! 優しくしてりゃ付け上がりやがって!」
怒り狂った前島は、まるで真っ赤な豚の様に見える。その迫力は僕がびびるのには充分
過ぎるほどだったが、当の珠美はしれっとしている。
「どーこーが優しいんだっつの! このエロオヤジ! そうやって過去どの位弱い者虐め
をしてきたか、覚えてる?」
珠美があの黒い瞳で前島を射すくめる様に見据えると、”あの”前島が一瞬怯んだ。
「覚えてなんかいないよね? オジサン。あたしが見せてあげる。ほら、隆志出といで!」
――ぼ、僕!? 驚く間もなく、僕は前島の前に実体化させられた。
中年となった前島と、まだ学生服を着ておたおたしている僕の視線が合う。
なにかガツンと言いたかったが、口から出たのは相変わらず卑屈な台詞だった……。
「や、やあ……。前島君。ひ、久しぶりだね。ぼ、僕を覚えてるかい?」
む、無理だよ! 珠美! ぼ、僕はこいつが憎い以上に怖いんだ! 僕は情けなさそう
に、珠美の顔を振り返った。死んでまでこんな目にあうなんて、酷いよ! 冴子さん!
だけど、せせら笑う様な前島の一言で僕の中の何かが弾けた。
「……? 誰だよ、お前。いっちょ前に俺を間男扱いしようってのか? アホらしい」
だ、誰だよ、だって……?
こいつ、僕の顔さえ覚えてないのか!? 中学時代から散々虐めたこの僕を!?
僕の奥底からどす黒いものが沸きあがってきた。
横にいる珠美が静かな声で言う。
「この子はね。”内藤隆志”クンだよ、オジサン。中学時代からの同級生を覚えてない?」
前島が少しの間考え込む。そして一度首を振ると、またも馬鹿にする様に笑った。
「知らねぇな。あの頃は小虫何匹かで遊んでたし、いちいち覚えてるかよ! で?
そいつはその内藤とやらの親戚か何かで、俺に嫌がらせでもしたいってのか?」
僕はその言葉で体が煮えたぎった。体の細胞が沸騰し、体毛が逆立っていくのがわかる。
「ば、化け物!」
前島の僕を見る目が、嘲りから恐怖に変わってきた。僕は裂けてゆく口でにたっと笑う。
「はい、隆志。ストップ、ストップ! それ以上エレクトしたら戻れなくなるよ!」
珠美が僕を制したが、僕の股間のどす黒いものは留まろうとせず、快感でいきり起った。
「止まれっちゅ~てんだろが! 隆志! 霊静の印、緊縛!」
そんな印は聞いた事がない。だが、珠美がそう叫ぶと僕の体は動けなくなり、次第に僕
を支配していた、どす黒く猛るものが萎み始める。
「かーちゃん、隆志を抱きしめてやって」
「おっけ~! 珠美ちゃ~ん」
冴子が僕を抱きしめてくれると、体からす~っと熱い怒りが和らいできた。
――さすが親子だ。見事な連係プレーに、僕は呆れながらも平精神を取り戻せた。
珠美は安ホテルのベッドに腰掛けると、腰を抜かした前島を見下ろして話し始める。
「驚いた? 前島のオジサン。調べによるとあんたはその図体で周りを従わせて、かなり
無茶やってきたみたいね。今の子は、あんたらの虐めで自殺した子の一人よ。
あらら? 他にも何体か取り憑いてるね~。その太り方もただの中年太りじゃないなぁ。
オジサン、死相が出てるよ? なんかもう、すっかり運に見放されてる~って感じ?」
前島は珠美の言葉に青ざめながらも、精一杯の虚勢を張った。
「お、脅かそうったってそうはいかねぇぞ! な、なんかの仕掛けがあるんだろっ!?」
珠美はまるで小悪魔の様に微笑んだ。もうすっかり今は平素の珠美だ。
「仕掛けねぇ……。後ろの人に貰ったものはあるけど、これだけだよ」
そう言うと、首にかけていたポシェットからポラロイドの様な物を床にばら撒いた。
――それは、前島が珠美とこのホテルに入る場面の写真だった。
ちゃっかり珠美の顔だけはうまく隠れて映っており、日時まで入っている。
これには前島も度肝を抜かれたようだが、まだしぶとく喰らいつく。
「ど、どうやってこんな物……!? ついさっきなのに何でお前が持ってるんだ!」
珠美は興味を失った様に、手に取った安ホテルのカラオケカタログをめくりながら言う。
「だからさぁ~。言ったじゃん。オジサン、かなりの故人に恨まれてるよって。
それってさ、念写っていうらしーんだよね。オジサンの背中に憑いてる人がくれたの。
会社とか自宅にも届くかもね。
こうやっていつの間にかあたしのバックに入ってたみたいにさ」
さすがの前島もこれがトドメとなったらしい。真っ赤だった顔が信号機のように青ざめた。
あたふたと散らばったポラロイドを拾い集めながら、すがるような顔で珠美を見上げる。
「こ、困るよ! お嬢……いや、君! き、君なら何とかできないのか!?」
「なんとかって?」
「お、お払いとか。供養とかさ! さっきの化け物を消したみたいに。で、出来るんだろ?」
珠美はカラオケカタログからゆっくり視線を上げ、前島を見下ろした。
「出来るけど。あたし、別にボランティアじゃないしな~」
「か、金なら出すよ! た、頼む! い、今5万ならある!」
珠美は這いつくばっている前島に、上から下まで視線を浴びせると、ふっ、と溜息をついた。
「……オジサン。相手が子供だからって嘘はよくないよ。財布には10万とカードあるよね。
小銭も結構あるなぁ。図体の割に『しみったれ』ってやつ?」
前島はみっともない程狼狽し、財布の入っているポケット数箇所を無意識に押さえていた。
「オジサンさ。自分の命を値切る人? まぁ、今払ってもそういう心構えじゃねぇ。
また新たに取り憑かれるだろうから無駄だね。……さて。ここ、新曲無いし帰ろっかな」
珠美はベッドにカラオケのカタログを放り投げると、つまらなそうに立ち上がった。
前島は慌ててあちこちから財布を取り出すと、珠美の前に差し出して懇願する。
「す、すまん! こ、これが今持ってる全財産だ! 全部渡すから助けてくれ!」
全ての財布から金を抜き取り、ポシェットに入れた珠美は、空の財布を前島に返した。
「しょうがないな~。言っとくけど、オジサンが態度改めないとまたきっと憑くよ?」
「わかった。わかったから今憑いてるのだけでも何とかしてくれ!」
「了解。商談はスムーズかつ迅速にね。足元見てたら大成しないからね」
やけに大人ぶった口をきくと、珠美は医者がメスを求めるような手付きをした。
差し出した手に、すっと赤いエナメル質のピンヒールが現れる。
珠美はそれを見て『うげ。』と呟くと、前島の背中を赤いピンヒールで叩き始めた。
小声で何か呟いてるのは呪文だろうか……? 僕には聞こえてこなかった。
ただ、ピンヒールで叩かれている前島の顔は恍惚として、見たくない程醜悪だ。
――こんな奴にずっと脅えていたのか……。僕は自嘲気味な笑いが浮かんできた。
「はい、終わり。毎度あり~。じゃーね、オジサン! さ、帰ろ。隆志、かーちゃん」
放心した様に安ホテルのフローリングに正座した前島を残し、珠美はホテルを後にした。
勿論、くっついている僕と冴子さんも一緒だ。
「どお? 少しは気が晴れた? 隆志。やっぱりまだあたしの中で浄化した方がいいね」
ポシェットの重さを頬ずりして楽しみながら、珠美は僕に話しかけた。
「き、気は済んだけどさ……。僕の他にも前島になんか憑いてたの?」
珠美は可笑しそうに声を上げた笑った。
「虐めは確かにしてたけどね。実際、自殺までしちゃったのは隆志だけ。後はハッタリ!」
つ、つまり脅迫したかつ上げ!? 前島よりひどくないか……? 珠美って……。
「そ、それと……。あ、あの赤いハイヒールは呪術の道具なの?」
珠美は思い出したように眉をひそめ、舌を出して見せた。
「……んげ。んな筈ないでしょ! あれはあの前島の潜在願望が産出したアイテムよ。
あいつ、実はマゾだったみたい……。やな事思い出させないでよっ! さ、帰ろ!」
とても冴子さんの娘とは思えない、ちゃっかり者の珠美は鼻歌混じりに歩き出した。
「ね? 言ったでしょぉ~。隆志クン。珠美ちゃんは”お金”と”情”に弱いって」
よ、弱いのかなぁ……? 僕はやっぱり、珠美は怖いよ、冴子さん……。
でも、僕の思い出したくなかった記憶は、さっきの前島の醜態に上書きされていた。
溜飲が下がる、というより憎む気持ちが萎えてしまったのは確かだったんだ。
僕は聞きそこなった質問を冴子さんにそっと聞いてみた。
「珠美ちゃんがハイヒールで殴ってる間呟いてた言葉は、除霊の呪文か何かなの?」
すると、冴子さんはちょっと困ったような顔をして、僕の耳元で囁いた。
「珠美ちゃんって、印の呪とか暗記系が嫌いなのよぅ~。不精な子でね。さっき呟いてた
のは、つまり、『メリーさんの羊』っていう歌なの。……力はある子なんだけどねぇ……」
――聞かなきゃよかった……。そういえば今歌ってるのも”それ”だ……。
僕は僕を担当してくれたのが、冴子さんで良かった! と心から思いつつ珠美を追った。
生きてるわけじゃないけれど、新たな人生のスタートとしては、悪くないのかもしれない。
これからどうなるのか、僕にもさっぱり分らないけどね……。
ともかく、こうして僕と珠美ファミリーとの、珍妙な生活が始まったんだ。
了。