27: 名前:みるみる☆08/01(日) 00:16:06
澪がいそいそとご飯を茶碗によそっているのを、優希は朝顔でも観察するように眺めている。
そうそう、そんな事を小学校の夏休みにやった。
種をフィルムケースにたくさん溜めた様な気がする。
そう言えば、フィルムケースなんて最近めっきり見ないけど写真屋は大丈夫なんだろうか、とぼんやり思考を巡らせていたが、茶碗が目の前に置かれる音で我に返った。
「おい、ロボット」
白い瞳はこちらを向かず、ただ箸を優希の目の前に差し出す。
「無視かよ」
「澪です」
人工のまなこがぎらりとこちらを見据えて、強めな声が自分の名前をなぞった。
つくづく面倒なロボットだと優希は嘆息した。
そして、少しだけ自分の身の上話をした。
優希は、実は「本当の澪」との縁が完全には切れていないらしく、彼女からは時折電話がかかってくることもある。
独り言のような言葉が、茶碗から立つ湯気の上に零れる。
「今日になって気付いたんだ。こんな前の彼女の服を着せて同じ名前まで付けてしまった奴が家にいると、こう……なんか、胸が苦しいんだよ」
普通に考えればそんなこと分かりそうなものだが、あのときの優希はどうかしていたのかもしれない。
澪の答えは簡潔だった。
「名前を変えるのは嫌です」
「なんでだよ」
うんざりしたような顔で優希が言う。
ロボットは口答えしないところが魅力じゃないのか、と心の中で舌打ちした。
「面倒くさいんです。服なら脱ぎますから」
「服を脱ぐくらいなら名前を変えるのも同じじゃないか」
澪は紫のワンピースを脱ぎ捨てる。
幾らロボットとはいえ、精巧な作りである澪が「すっぽんぽん」になってしまい、優希は「うわっ」と反射的に顔を背ける。
「同じではありません。私の記憶データを変更しなくてはならないので」
「だだをこねるのは良いからまず服を着ろ!」
「着なくてはいけませんか?」
「勿論だ!」
優希の、少し丈の余る服を着ながら、「兎に角名前の変更はなしです」と澪はもごもご言っていた。
30: 名前:みるみる☆09/06(月) 09:47:51
愛海様
すみません、気付いたらもう1ヶ月も更新していなかったみたいです。
ちょっといろいろと限界でした……。
少しだけ余裕ができたので更新します。本当に申し訳ないです。
もう忘れられているかもしれませんが、またゆっくりやっていこうと思っています。
◆
ごちそうさまと言って茶碗を重ねた優希は、仕事にいつも持っていく鞄を開け、何冊かの絵本を取り出した。
大きな表紙は端がめくれ上がり、その本が辿った時代を感じさせる。
「どれがいいと思う?」
澪は何のことか分からず、黙ってその少し色あせた表紙を眺めた。
「会社の慈善運動とか言ってさ、読み聞かせすることになったんだ、近くのこどもセンターで」
優希はあまり気乗りしない顔で言った。
確かに優希はそういうものが得意そうには見えない。
「似合いませんね」
澪は思ったことをそのまま口にした。
優希は溜息をついて髪をぐしゃぐしゃと掻いた。
似合う似合わないの問題ではないらしい。
澪は、その中から一番汚れている本を選んだ。
人気があるから読まれるし、読まれるから汚れるのだと、そういう風に推測してのことだ。
優希もあまり深く考えずにその1冊だけを鞄にもどし、後はちゃぶ台の上に置いた。
「猫が百万回も生きるとは思わないけどなぁ」
じゃあ風呂に行ってくると言って、優希は少し涼しくなった夕闇の中へ出ていった。
31: 名前:みるみる☆09/06(月) 16:06:20
◆
海老で鯛を釣るようなことがあっても、海老が鯛にはなれません。
お金でパンが買えるとしても、お金はパンになれません。
犬に服を着せたとしても、犬は恋人にはなりません。
何故って、本質的に違うからです。
◆
「あっつー! もう日本ってば熱帯地域入り確定じゃね? ストップ温暖化ー」
蝉の声が空気を溶かす昼下がり。
お気に入りなのか、部屋着なのか、またもや黒のタンクトップの襟で汗を拭いながら、クレアが部屋にずかずかと上がり込んできた。
澪は読んでいた絵本から顔を上げ、「不法侵入は犯罪です」と言った。
追い出すようなことはしない。澪も時間を持て余している。
「あっれー、絵本なんか読んじゃって、かわいー」
髪を鷲掴みにされてぐしゃぐしゃになり、澪はその絹のような流れを整えた。
「何読んでるの? 『人魚姫』? いいねー、ロマンだねー」
クレアは本を自分の側に寄せ、頼んでもいないのに朗読し始めた。
32: 名前:みるみる☆09/07(火) 00:11:05
変に間延びしたようなクレアの声が、彼なりに優しく、語りかけるように物語を紡ぐ。
オリーブグリーンの瞳が、大きめの文字を辿っていく。
時々襟元を引っ張っては首筋を伝う汗を拭い、飽きもせずに最後まで読み聞かせる。
澪にはよく分からなかった。
声を失って、愛する家族と別れて、茨のような足の痛みに耐えながら王子に笑いかける人魚の気持ち。
泡になっても、それでもいいと思える強い気持ちを抱いたことは、まだ無い。
「人間って、そんなに良いものですか?」
「え?」
喉がからからになったのか、麦茶をあおっていたクレアは目だけでこちらを見る。
「私には、よく分かりません」
俯いた白い顔が翳る。
そうだねー、とクレアは何故か少し笑って答えた。
暫くの沈黙を、窓から入道雲が覗き込む。
「実際そんなもんでもないかも」
朝も早くから起きて、満員電車に揺られて、外の景色なんか目もくれずに空調のきいた部屋で液晶とにらめっこ。
一生懸命にやっても替わりがいると言われ、やらなければ切り捨てられ、皆無関係のようにしていながら無愛想は嫌われる。
「なんつーか、こんなの俺じゃなくてもいいじゃんって。ロボットと何も変わらないっていうか。結局嫌になって辞めちゃった。まあ、人間らしい暮らしをすればそこそこ楽しいんだろーけど」
33: 名前:みるみる☆09/12(日) 01:03:45
その言葉には無意識であろうとも少なからずロボットに対する差別が感じられるが、澪は気にしなかった。
澪ちゃん人間に憧れてるの? と言われて、すぐに答えることができない。
澪には分からない。
このじりじり照りつける日差しの暑さも。
自己犠牲の愛も。
人間も。
憧憬も。
「私は、人間に憧れているのでしょうか?」
質問に質問で返されて、クレアは困ったように息を吐く。
白色人種特有の白く滑らかな肌を、汗の雫が滑り落ちた。
蝉の音に掻き消されそうなくらい小さな声で、わかんねえよと言われた。
「そんなの、自分の心に聞いてみないと。俺じゃ駄目」
こころ。
そんなものは、人体模型の中にだって無いものなのに。
「私に、心はあるんでしょうか」
澪は何か胸騒ぎのような物を感じた。
胸の中にあるのは心臓ではなくモーターだけれど。
もしかしたら、分からないことだらけで処理能力が追いついていないのかもしれない、と、澪は思った。
クレアは質問には答えない。
俺に聞かれても分からないと思っているかもしれない。
代わりに、ねえ澪ちゃん、ハグしてやろうかと言われた。
澪が答える前に、腕が伸びて澪の体を優しく締め付けた。
クレアの薄い胸板の中に、確かに心臓があるのを感じた。
暫くの間、澪は思考回路を停止して、その心音だけに耳を傾ける。
これが、にんげんなのだと彼女は思った。
胸騒ぎは、いつの間にか止んでいた。
34: 名前:みるみる☆09/13(月) 15:21:24 HOST:octp241042.octp-net.ne.jp
「機械の不具合でもあるのか?」
少しだけ心配そうに顔を覗き込んでくる優希に、いえ、と短く返答してから、澪は自分の大失態を一瞥した。
開いた炊飯器の中からは湯気も立たず、水の溜まったジャーのいつもよりずっと低いところに、白い米粒が沈んでいる。
スイッチを入れ忘れていることにさえ、今まで気づけなかった。
それをひどくがっかりするわけでもなく、優希は今澪が作った素麺を啜った。
「一応、今度あいつの家に持っていかないと」
そろそろモニターもお終いで良いだろう、と優希が呟く。
何気ない一言だったが、澪はそこで固まった。
それは澪の初めての決別を意味する。
しかも、もしも不良品だと見なされれば、澪は失敗作として鉄屑になってしまうのだ。
澪は何とも言えぬ気持ちになった。
それはいつもこの夕時になるとどろりと曇って窓に雨粒を滴らせるねずみ色の空に似ていた。
「私は、人間にはなれないんですね」
優希が咽せた。
きっとまたこのロボットは突拍子もないことを言い出したと思っているに違いない。
「え? 人間になりたいの?」
驚いているようで半分笑った声だ。
それに、今度は迷わず「はい」と答えた。
「私も人間になりたい。一人の人間として認められたい。痛いほどの感情に突き動かされてみたい。どうやら今の私には、それはないようです」
「『ようです』って……自分に心があるかどうかも分からないのか?」
そういう優希を澪はきょとんとした顔で見る。
「そう言うあなたには、あるんですか? 心」
優希が目を見開き、そして澪を見据える。
そこには明らかに嫌悪が混じっている。
「は? 何言ってんだ、お前」
「あなたは自分に心があるって、断言できますか? 自分の五感で確かめたことはあるんですか?」
澪の目に全く悪意は感じられない。それはまるで子どもが正論で大人を問い詰めるのに似ている。
けれどそれは余計に優希の神経を逆撫でした。
「お前、俺が何の感情も持たない冷酷非道な奴だって言いたいの? 悪いけど俺は人間だ。お前と一緒にするな」
そう言って、優希は澪の腹部に手を伸ばした。
その動作は乱暴で、瞳は冷たく燃えていた。
澪はとっさにその腕を掴む。
嫌な予感がする。
どうやら自分は、目の前の男を本気で怒らせる何かを言ってしまったらしい、と思った。
制止を振りはらい、優希は澪の着ている服をまくり上げた。
白く滑らかな肌が露わになる。
優希は一見境目の無いように見えるそこの、右側に手を掛ける。
「あ、」
嫌だ。
そんなこと、しないで。
おかまいなしに、優希はそのまま手前に引っ張った。
腹部が、開く。
無骨な機械が、そこにはあった。
真っ赤な血も、脈打つ心臓もない。
ただ、無機質に唸るモーターや、血潮ではなく電気の流れるコードがぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
「これでわかっただろう」
優希の声は低く静かに言う。
「お前は人間にはなれない。自惚れるな」
ああ。
思い知らされた。
知っていたけど、突きつけられた。
私は機械なのだ。
優希が離れていく。
澪はそこで、自分にも強い感情があることを知った。
震える手で、開いた自分の腹部を閉じ、そのままうずくまる。
人はこういう時、「悲しい」と言うのだろう。
そして瞳からは涙が流れるのだろう。
自分も泣きたいと思った。
でも、澪にはできない。
生涯できない。
36: 名前:みるみる☆09/20(月) 23:54:46
愛海様 うああありがとうございますっ(あせあせ
もう本当にのろすけのさぼりんぼうで申し訳ない限りです……。
やっとお話盛り上がることができそう……
でも私の場合起→(承転)→結みたいに、あっけなく終わっちゃうので;
そんなこんなですが宜しくお願いします!
◆
心配していた翌日の朝、意外にも優希は普段通り「おはよ」と澪に話しかけた。
それには澪の方が戸惑ったようで、無視され続けた時にどう対処するか考えていた回路は真っ白になった。
怒ってないんですか、と言おうか迷っている内に、優希の方から「昨日は悪かったよ」と切り出されたので更に驚く。
「やりすぎた。ついかっとなって、ほんと、ごめん」
「いえ、謝るのは私の方です」
昨日のことを思い出してまた胸がちくりと痛んだが、考えなしな言動をした私への罰だと澪はじっと耐えた。
炊飯器の中で、今日は上手く炊きあがった白米がつやつやと光り眩しい。
澪は実はこの蒸気を顔に浴びるのが結構気に入っている。
機械に蒸気というのはあまり良くない組み合わせなのだろうが、暫く浴びていると頬にうっすらと水滴ができ、汗のように見えるからだ。
優希が時々汗を拭いながらご飯を食べるのをうらやましいなあと思う。
もう少し浴びていたいと思ったが、ご飯が水分を失って乾くのも嫌だったので、澪は名残惜しそうに蓋を閉めた。
37: 名前:みるみる☆09/23(木) 13:52:30
優希がいつものように出て行った後、手持ち無沙汰になった澪は、ささくれ立った窓際の畳に寝転がった。
入道雲が囲む青空は、突き抜けるように明るい。
昼にかけて空の頂上に登っていく太陽は外のアスファルトをじりじり焦がし、立ち上る陽炎で車も電信柱もどろんとアイスのように溶けてしまいそうだ。
勿論澪は暑さを感じないので何てこと無い様子だ。
ふと、今日はまだクレアが来ていないことを思い出す。
クレアはそれが日常のように、毎日この部屋に上がり込んでは、澪を子どもでもあやすようにしておしゃべりをする。
優希はあまり快く思っていないようだが、澪は結構この時間が好きだった。
気付いたら、今日はまだ来ないかと待ちぼうけしているほどに。
いつもなら、もう来ても良い頃なのに。
38: 名前:みるみる☆09/26(日) 10:28:58
突然、隣の玄関の前で止まる4足の靴の音がした。
優希が仕事に履いていく革靴や、銭湯に行くときのゴム草履の音とは違う。
かつかつとヒールを鳴らす音。
ごすごすと鈍い、地面を擦る音。
あれは確か、クレアがよく履いているトレッキングブーツの音だろう。
こんな時間に外から戻ってくるなんて、クレアにしては珍しい。
高い女の声が、ドアの前で弾んでいるのが聞こえた。
クレアの聞き慣れたテノールボイスも、それに応えて、木漏れ日のような笑いが零れる。
「……そういうことですか」
今日は、クレアはここには来ない。
つぶす暇がないから。
目の前の愛しい人を、根っからの優しさでもてなすのだ。
夜まで、ずっと。
ふと、澪は自分がこれまでにないくらい沈んだ気持ちになっている事に気付いた。
どうして?
私は何か、あのひとに期待をしていたのかしら。
真っ青な空が急に目にしみるように感じて、澪は瞼を閉じる。
真夏の太陽が、瞼に焼き付いた。
あの太陽は一人だ、と思った。
でも、私とは違う。
太陽は、自分の存在を見せつけるように輝いている。
絶対にして、唯一無二の存在だ。
外で、子どもがはしゃいでいるのが聞こえる。
きっとこれから、近くにある市民プールにでも行くのだろう。
ぱたぱたと、小さな足が地面を蹴る音が家の前を通り過ぎた、その時だった。
足音が急に止まり、小さい子ども特有の高い声で、少女が何か叫んだ。
その声に澪は跳ね起きる。
何か、聞き間違いだろうかと、耳を研ぎ澄ます。
少女はもう一度叫んだ。
確かに、『澪ちゃん』と言った。
もう、澪は座ってはいられなかった。
ちゃぶ台を半分跳び越えるようにして、玄関へ。
ゴム草履が目に入った。
これまでにないくらい、胸騒ぎがした。
私を知ってる人がいる?
こんなことって、あるだろうか。
ドアノブに手を掛けようとした。
そこで、足首に違和感。
ちら、とそこへ目をやると、ぴんと張ったコードが目に入った。
その先には、コンセント。
プラグが、今正に抜けるところだった。
「――――っ」
ドアノブに手がかかった所まで、澪は覚えている。
そのまま手は滑り落ちた。
関節という関節に力が入らなくなり、澪は頭をドアに打ち付けながら崩れ落ちた。
39: 名前:みるみる☆09/30(木) 15:29:32
◆
一人と独りじゃ、恋と愛くらい違うと思います。
なんて、格好付けたことを言ってみたくもなりますが、私もひとりです。
どちらの「ひとり」かなんて、考えたくもないですが。
さあ、それでは、私がお話しするこの物語も、そろそろお終いにしましょう。
◆
何だこんな日に限って、と悪態をつきながら、優希は綻ぶ表情を隠しきれない。
脳裏に、さっき見た携帯の液晶画面が浮かぶ。
早く、部屋を片付けないと。
どうせ4畳一間だ、客人をもてなすには心細すぎるが、最善を尽くせばいい。
大事なのはこころ。
そっと乗らないとパイ生地のように崩れてしまうんじゃないかという様な錆びた鉄の階段を、優希は駆け上がる。
そのまま、自分の部屋の前まで小走り。
急いで扉を引く。
ごて、と鈍い音がして、何かがこちらに雪崩れてきた。
革靴に乗っかっているのは、白く長い髪。
優希は一瞬呆けた目でそれを見、だらしなく開いた口から「はあ?」と間延びした声を漏らす。
「いやいや、そんな事してる場合じゃないって!」
自分の行動か澪に対する突っ込みを入れて、優希は力なく地面に突っ伏している澪を重たそうに引きずっていき、コンセントにプラグを差した。
目を覚ました澪に、優希は切羽詰まった様子で言いつける。
「この辺綺麗にしとけ! ああ、あとお前も、どっか押し入れとかに入っとけ」
まだ頭がぼうっとしている澪を余所に、優希は床に散乱した仕事の書類やUSB、ノートパソコンをほとんど放り投げるようにして押し入れに仕舞う。
「お客様ですか?」
優希は手元に意識がいってしまっているのか、その質問には答えなかった。
その代わり、澪を一瞥すると、今しがた自分で差し込んだプラグを抜こうとする。
澪は慌ててその手を止めた。
「何をするんですか!」
「押し入れに入ってろって言っただろう」
「嫌です!」
途端に優希は心底うざったそうな顔になる。
反論しないのがロボットの良いところじゃないのか。
そんなことを以前も言われた。
「あ、あの、ちゃんと押し入れには入りますから、じっとしてますから、だからこれだけは、抜かないでください」
そう言い寄る澪の表情は今までになく怯えている。
瞳は大きく揺れ、手も小刻みに震えている。
そんな澪に、優希は「お前、何か壊れたのか?」と怪訝そうに言うのだった。
勿論優希は昼間の出来事なんて知らない。
澪の哀しみなんて、知るよしもない。
取り敢えず、優希はプラグから手を離したので、澪は安堵の息を漏らし、押し入れに自分で入っていった。
40: 名前:みるみる☆10/01(金) 15:40:03
澪がぎゅうぎゅう詰めになった小さな押し入れでじっとしていると、すぐに来客用の呼び鈴が鳴った。
そう言えば、この呼び鈴が鳴ったのを初めて聞いたかもしれない、と澪はふと思った。
大人びた、女の人の声。
すぐに優希は玄関の扉を開け、その人を出迎えた。
昼間の出来事が思い出される。
クレアも優希にも、それぞれに大切に思う人がいるのだということを、改めて実感する。
優希に妻はいない。となると恋人、もしくは――。
そこまで思考を巡らせて、澪はいつか着た薄紫のワンピースを思い出した。
ああ、そうか。そういうことか。
確かに、聞き慣れた優希の声は、何度も「澪」という名前をなぞった。
もういい。聞きたくない。
掌で耳を押さえつけて、澪は膝に顔を埋める。
押し入れの中は暗い。それは夜空のようではなく、目の前に張り付くような薄っぺらい闇だ。
澪は、世界が歯車のようだと言った絵本を思い出した。
私は、誰と歯を合わせることもなく、ただ一人で空回りを続ける歯車。
外と繋がらない。
誰にも影響しない。
ただ、繋がっているのは無機質なコード。
また独りだ。
独りは、嫌だ。
41: 名前:みるみる☆10/01(金) 16:25:57
どれくらい、その暗く、寂しい空間に蹲っていただろうか。
「もう、いいよ」
細く漏れていた光が急に広がり、澪を4畳のあの空間へ引き戻した。
生まれたての山羊、というより立てなくなった老婆のように、澪は押し入れから這い出る。
優希はそこで、澪の表情に驚いた。
その表情は、何とも形容しがたい。泣いているような、笑っているような、ともすれば嘔吐きそうな、そんな表情。
「澪、」
流石に心配になった優希は、澪の顔にかかる白い髪をかき分ける。
それは表情をもっと良く窺う為の彼なりの優しさだったが、澪はそこでびく、と肩を震わせる。手が払いのけられた。
そして、俊敏な動きで優希と目を合わせる。身が竦むような感覚。
「もう、その名前で呼ばないでください!」
さっきまでの表情が一変、激昂の形を作る。
今までになく険しく、しかしどこか嘆願するような響き。
「え? だってお前が名前を変えるなって――」
「もう嫌なんです!」
呆気にとられる優希を前に、澪の剣幕は凄まじかった。
どこからそんな感情が湧き上がってくるのか。
それはまるで、人間のようだ。
澪は優希の声なんて聞こえていないのかもしれない。
「誰かの思い出を私に重ねないでください! 私は、私でありたいんです! 私は、人形なんかじゃない――」
澪はそこで言い留まる。
人形じゃなかったら何だ。
ロボット。機械を詰め込んだ、人形。
澪は声にならない叫びを上げた。それは、或いは機械の雑音だったのかもしれない。
ぷつん、と糸が切れたように、澪の動きが止まり、そして四肢が重力に従って床に落ちる。もう動かない。ただ、目だけは虚ろにどこかを見つめていた。
47: 名前:みるみる☆10/03(日) 14:17:08
立ち読みした人様
丁寧に読んでくださって本当にありがとうございました……。当方感涙でございます! ううっ
愛海様
いつもいつもあげて下さってありがとうございます!
ちょっとでも読みやすい文章になっていたらいいなあと思いつつ書いています。
そろそろおしまいですー。
◆
いつから使っていないんだろうというタウンページを引っ張り出して、端がめくれ上がり茶色く変色したページを捲る。
タクシーなんて、使うのはいつぶりだろうかと優希は少し考えて、止めた。意味のないことだ。
適当な番号に電話を掛けたあと、優希は昨日の夜から動かなくなってしまったロボットをちらりと見た。
最近調子がおかしかった。試作品だから、どこかに不具合があっても不思議ではないのだけれど。
しかし、故障した時にすぐに友人の元へ運んで行ける交通手段を、優希は持っていなかった。
「結局お前、失敗作だったんだ」
自分の発した声が、思っていたよりも同情の色を含んでいたのに優希は少なからず驚いたけれど、ロボットは何も答えない。
まずいっとうに問題だった短すぎるコードも、今は優希によって束ねられていた。
あと10分もすればタクシーが来るだろう。優希は静かだと思った。ロボットが喋らない云々ではなくて。
外から蝉の鳴き声が聞こえてくることもない。まだ早朝だ。
そばの道路を走る車の走行音もない。
何よりも、部屋にずっと響いていたらしいモーター音が、無い。
その音は、優希が気付かない間もずっとしていたのだろう。人間も、死んだ時には、自分の鼓動がどれだけうるさかったかに気付いたりするのだろうか、と優希はぼんやりと思った。
49: 名前:みるみる☆10/04(月) 15:48:47
突然白い髪の女をお姫様抱っこして乗り込んでくる男を見ても、タクシーの運転手は何も言わなかった。
聞かれたらどう答えようか決めかねていた優希は、取り敢えずほっと息をつく。
行き先を手短に伝えると、運転手は無愛想に返事を返した。
どうやら深夜まで仕事があったようで、あまり眠っていないのか、缶コーヒーのブラックの空がいくつか置いてある。
缶コーヒーのブラックは新聞紙を煮詰めたような味がするので優希はあまり好きではない。いつもミルクや砂糖でごまかした物を買う。
早朝の道路はまだ空いていて、真っ直ぐな道はずっと向こうまで車の影が見当たらない。
別に早朝ではなくても良かったのだけれど、白い髪の女はなかなか人目を引くので、優希はわざわざ早起きをしたのだ。
これからはしばらく早起きだ。朝ご飯を作ってくれる人はもういない。
「人じゃねえけど」
思わず呟いてしまったが、運転手は気にする素振りもない。
まあいい、好都合だ。
窓硝子の外で線になっていく代わり映えのしない風景は、すこし水色がかっているようで、ひんやりした空気を思わせる。
こんなに朝早く行けば、友人は怒るだろうか。
壊れた自分の作品を見て、がっかりするのだろうか。
ふと。急に視界がぐらりと揺らめいて、優希はバランスを崩した。
どうして? ずっとこの先も、真っ直ぐな一本道だったはず――
ちらりと前を見ると、今自分が乗っているタクシーが、センターラインを越え、反対車線を走っている。
一気に頭の芯が熱くなる。掌にさっと汗が浮かんだ。
「え? ちょっと、運転手さん――」
運転手はひどく、ひどく前傾してハンドルを握っている。
いや、もたれかかっているような。
心臓が早鐘を打つ。慌てて、優希は身を乗り出した。ハンドルをとにかく戻さないと。
その音に、運転手はやっとぴく、と動いた。
そして、焦ったその男は何を思ったか。アクセルをベタ踏みした。
慣性の法則に従って、乗り出していた優希の体は後部座席に叩きつけられる。
短い呻き声もエンジン音で聞こえない。
止まらない。
車は加速を続ける。もう止められない。制御不能。
電信柱が目の前に。どんどん大きくなる。
「ああ、ああああ――」
目を反射的に閉じようとした、その時。
白い髪が揺れた。
歩道に乗り上げた衝撃のせいか、白い腕が浮き上がり、首に掛かる。足の間に彼女の右膝が。彼女の、白い瞳がこちらを見ている。虚ろだったはずのその目。
揺れる視界。なんだ、笑っているのか。泣いているのか。またその表情か。優希は昨日の出来事を思い出した。お前、コンセントはどうしたんだよ。
鼻先と鼻先が触れ合う。
「ちゅっ」
澪の背中の方で、フロントガラスが粉々になるのが見えたところで、優希の意識は途切れる。
50: 名前:みるみる☆10/05(火) 16:30:35
◆
そうして、今に至るわけです。
事故の翌日、小さく新聞に「居眠りタクシー運転手事故死 乗客1名重体」と記事が載っていました。
勿論、あのロボットについての記述はありません。
可哀想に、ばらばらになってしまった、私のお姉さん。
リノリウムの床を歩いていくと、すぐに病室が見えます。
一般病棟に移ったばかりの優希さん。足音で、こちらに気付いたようです。
前を歩いていた私の生みの親は、よお、と親しげに手を振った。
「元気ぃ? まあ元気なわけ無いかー。両足複雑骨折、肋骨3本損傷、全身打撲じゃあ、ね」
分かっているのなら聞くな、と言いたげに、優希さんは目を細めてこちらを見る。眉毛がぴくりと動いた。
私に気付いたようだ。彼は黙ってじっとりこちらを見ている。
「あちこち痛いけど、まあ元気さ。お前は何だ、彼女を見せびらかしに来たのか」
「やだなーもう。お見舞いに決まってるじゃん」
そして、ベッドの横に週刊誌やら雑誌やらが積み上げられた。
花よりもこちらが良いといったのは優希さんだ。
「それに、こいつは俺の彼女ではないのだよ。ふふん」
その言葉に、優希さんは訝しげな顔をする。じゃあ何でそこにいるんだよ、と言う心の声が聞こえてきそうだ。
暫くの間、沈黙が流れる。冷房の音が大きくなったように感じた。
「前のやつより、ずっといいぞ」
目で促されて、私は動けない優希さんの目の前に移動した。
深々と、お辞儀をする。優希さんはその動きを目で追っているようだった。
「初めまして。私には、コードも要らない機能もついていません。貴方のために仕え、貴方に奉仕します。優希さんの年齢に合わせて、外見は25歳前後にしておりますが、変更も可能です」
そして、私は頭に組み込まれたマニュアル通りに口角を上げ、少し首を傾げて微笑んだ。
優希さんは、そこで「ふっ」と笑ったようだ。
「いらない」
優希さんはまた笑う。笑っているのだけれど、今にも泣き出しそうな、無様な表情だ。
所詮私には人間の複雑に入り交じる感情なんて、全て理解できるわけではないけど。
しかしその表情も一瞬で消える。全くの無表情は、私の姿を捉えた。
「いらねぇよ。もうこんな思いはご免だ。泣いたり、笑ったり、怒ったり、苦しんだり。そんなのは――人間だけで充分だ。」
めでたし、めでたし。
51: 名前:みるみる☆10/05(火) 16:44:26
\あとがきだよっ/
やっぱりお終いが上手く書けない女、みるみるでございました。
なんだかいまいち何が言いたいんだか分からないお話ですみません……。部屋を掃除していた時に掃除機のコードが抜けてしまって「おーこれいいじゃん」って突発的に思いついたのがこれだったのです。
なので頭の中でぼんやり浮かんだのを書き出しちゃった、みたいな。
あと何故か貧乏アパートの貧乏暮らしを書いてみたかったんです……。
このお話を書いている間、次のお話は何にしようかなーと思っていて、結構煮詰まってきたので書いてみようと思います。
このお話よりは中身があるように頑張りたいと思います。
多分題名は「ひと夜ひと夜に」(ひとよひとよに)だと思います。
これも√2を見た時に思いついた物ですが……
まあ「何かやってるねー」ぐらいで見てくださると嬉しいですw
それでは、こんなところまで読んでいただき、本当に本当にありがとうございました!
最終更新:2010年10月13日 22:47