《えー……お次は週間予報です。暫くは大体全国各地晴れ模様ですが、一週間後の七日の夜からまた雨脚が強まる可能性が――……》
平成五年(一九九三年)七月一日。梅雨も終わりに近づき、最近は真夏日を越える日も普通にある。
山沿いの田舎の古びた町に建つ一軒家。そこにある白黒の旧式テレビから、天気予報が聞こえてくる。
その家の縁側で、一人の少女が扇風機の風に直接当たりながら聞いていた。
(……七日の日……雨降るんだ……それも夜……)
そう思い、「あー」とだらしない声をあげて、グタッと床にへばり付いた。
その少女の名前は柏原純子。通称純。
純の住む、山沿いの田舎の村の名前は「雪ノ崎村」。インターネットは愚か、カラーテレビすら未だまともに普及していない、昭和にタイムスリップしたような、そんな村だ。
人口も極めて少なく、二十人。その内の、高校生以下の住人は僅か六人しか居ない。十八~六十歳の住人は八人、残りは全て六十五歳を越える老人のみである。そしてそれも、急激に少子高齢化が進み、来年には、少なくとも十人までに減ってしまうことが決まっている。
東京の大学へ行くとか、就職先を探すとか、まあ理由は様々であって。五年前までは人口も未だ五十人以上いたのだが、その殆どは九十歳を越える老人だったので、一気にこの様な有様となった訳だ。今は殆ど亡くなっている。
その上、高校生以下の六人中三人は高三。後半年くらいで卒業してしまう。卒業して、三人とも上京してしまうので、最後に残っているのは中一の純と、もう一人の中一の幼馴染み・榎本郁也。その郁也の一歳年下の弟・榎本涼也のたった三人になってしまう。
しかし、その郁也も東京の全寮制の中学に転校することに決まったのだ。七月七日に。
唯一人の同い年の友人を失うことは、純自信も相当ショックを受けていた。
その上、純は郁也の事を幼い頃から片思いしていたから、尚更だ。
(七月七日…いつもなら郁也と涼也と私で短冊にお願い事書いて笹の葉に飾って……そんで星を眺めたりしていたのにな……毎年そんな楽しみがあった日が、別れの日になっちゃうなんて……)
はあ…と純は床にへたばりながら深い溜息をついた。
そして、今までの郁也との思い出を思い出していた。
(もう生まれた時から同い年なのは郁也しか居なかったからな……。最強の喧嘩友達で、最強の取っ組み合いの相手で、最強の理解者だったな……。もう他には涼也と6歳年上の人達と大人しか居なかったから……。もうその最強の幼馴染みが居なくなっちゃうなんて……。実感沸かないや……)
そしてまた、深い溜息をついた。
「純、そんなダラダラしている位なら、新聞配達の手伝いしておいで! 富樫さんが、夕刊の手伝いしてくれる人を探していたよ」
扇風機の前で寝転がっていた純を見かねた、純の祖母・夏江が、純に言った。
「えー……めんどい」
だらしない声で返事をした。富樫さんとは、村でたった一つしかない新聞屋を経営している人だ。
「そう、郁也君はしっかりやっていたのにね」
夏江が軽く溜息をつきながら言った。
それに即座に反応して、
「え!? 郁也!? やる!」
と、元気に返事をして起き上がった。
純はダッシュで新聞屋に走った。
そして勢いよく新聞屋の引き戸を開けた。ガラガラガラッ! と大きな音を立てて。
「富樫さん! 夕刊手伝いに来たよ!」
ハアハアと息を荒くしながらも、元気なやる気に満ち溢れた声で、やる気満々な瞳で言った。
そしてその富樫さん……富樫瞬太郎は暢気に煙草を吸いながら
「あー、手伝い? ありがとうね。でもさっき、郁也君が全部配っておくとか言って、もう配達にいっちゃったよ」
と言った。
「え……」
(郁也に先回りされた!)
「んー……多分郁也君、東京行っちゃうから、最後にせめてものお礼とか思って居るんだろうね。郁也君の性格から考えると、まずこんな仕事、やろうなんて思わないでしょ?」
(……確かに)
瞬太郎の考えに、純も納得していた。それと同時に、
(本当に、郁也この村から居なくなっちゃうんだ)
という実感と哀しみが心の奥底で感じていた。
「富樫さん有難う! じゃ!」
そう言って、新聞屋の引き戸を勢いよく閉め、純は走った。
「ハア……ハア……」
息が荒くなる。
(郁也……今何所に居るんだ?)
そう思って居たら、目の前に新聞の束を抱えた少年が見えた。
百六十二センチという小柄な、太っていない体型。髪の色は茶色に近い独特の色合い。
(郁也だ)
「郁也ーッ!」
郁也の所まで、手を振りながら走っていった。
「あ、純、どうしたん?」
郁也が訊く。
「いやー、暇だったからさ、あんたの新聞配達、手伝ってあげようと思ってさ」
あはは、と笑いながら答えた。確かに暇だったと言うのは本当だが、それは夏江に言われたからだからだ。郁也はそれさえも瞬時に見抜いてた。
「……お前の婆ちゃんに言われたからだろ? どうせ」
「流石は幼馴染み……驚くべき洞察力……」
「お前の性格を考えると、こんな仕事しようと思わないだろ?」
(郁也だってそうだろうが!)
純は心の底からそう思った。
「……じゃあさ、何で郁也は新聞配達なんかしてんのさ?」
純は郁也に訊いてみた。
(どう言うかは解ってるけどね)
そう思いつつ、純は返事を待った。
「そりゃ、亜米利加行くし、今までお世話になってきたから俺なりのお礼」
(……亜米利加?)
東京の中学に行くと純は認識していたので、軽く混乱した。
「え……? 亜米利加て……え……?」
「……亜米利加だけど?」
「いや……わたし東京の全寮制の中学入るって聞いてたんだけど……あ……亜米利加……?」
オドオドしている純をみて、
(アホだ-、俺の話の何割理解して聞いてたんだ此奴……)
と思いながら
「いやいや……ほら、亜米利加の学校って、九月から新学期始まるだろ? だから、八月一杯まで東京の分校に行って、そして九月になったら亜米利加の本校に行くんだよ」
と純に説明した。
純はそれを聞き終わったら、さらに質問をした。
「……それ以前に郁也……何で態々亜米利加まで行くの? 特に凄い成績がいい訳じゃ無いじゃん」
「お前よりは良いけどな」
郁也は鼻で笑った。
(ムカッ……)
純は内心結構苛ついていた。
「あは、ゴメンゴメン、でもそれは事実だろ?」
(ムカムカムカッ……!)
さらに苛ついた。
(本当は今すぐグーで殴りたいけど……別れる前に喧嘩するのもどうかと思うし……我慢我慢!)
そう自分に言い聞かせ、堪えた。
「成績とかの問題じゃ無くって……ほら、一月に俺が大会に応募しただろ?」
(あー……そういえば)
純はそんな事すっかり忘れていた。
「そして、それが見事入賞したっていう連絡がこの間来た」
それには純も、相当驚いて
「ええ!? 馬路!? 馬路ですか郁也さん! 凄! 凄すぎ!」
と興奮して大きな声を出した。
「はは、それでさ、亜米利加の本校に行って、もっと力を伸ばして見ませんか、っていう誘いも来た」
(ああ……それで……)
「今逃したら次は無い、って思ってさ、思い切って行くことにした」
「ふうん……」
純は素っ気ない返事をした。
「あのさ……」
「ん?」
「休みの時とか……またこっちに帰ってくるよね?」
(御願い……帰ってくるって言って……)
何となく、心の底でそんな事を祈りながら純は訊いた。
「……いや、一度亜米利加の方へ飛んだら帰ってくるのは難しいと思う。結構レベル高くて、休み殆ど無いし、あってもその時練習しないと追いつけないらしいし……(口コミ情報)でもその分高い実績を誇っている……って純!?」
郁也が気が付いた頃には、目の前に純の姿は無かった。
『 一度亜米利加の方へ飛んだら帰ってくるのは難しいと思う 』
純の頭の中では、その言葉が唯ひたすらリピート再生されていた。
そしていつの間にか自分の布団に潜り込んでいた。
(あっちの方へ行っちゃったらもう郁也とは会えない!? 嘘だ……嘘だ……どうせ郁也の事だもん……きっと冗談だよ……でも……でも……もしも、本当だったら? もしも、2度と会えないとしたら?)
そんな言葉しか、今の純には考えられなかった。
一方、郁也は、その後さっさと配達を追え、純の家に向かっていた。
(どうしたんだろう……? 純の奴……何か傷つけること……変な事言ったかな? 俺……大体、純の所言って何をする気だ? 何を言う気だ? 自分でも解らない……でも……何か言うべき事がある筈……)
そう思いながら。そして、純の家の引き戸を開けた。
ガラララ……。
「こんばんはー……」
家の中に入りながら挨拶をした。そしたら家の奥から、純の母・薫が出てきた。
「ハーイ、ってあれー!? 郁也君!? どうしたのー? とりあえず、暑かったでしょう、上がって上がって」
元気よく郁也を迎え入れた。
「あ……どうも……お邪魔します……」
郁也は、薫とは反面的に、元気のなさそげな声で靴を脱いで上がった。
「でー? どうしたの?純に用事があるのなら呼んでくるけど」
郁也は縁側の隣にある和室に通され、麦茶を入れてもらっている。この部屋は風通しも良く、風鈴の音も聞こえて、とても居心地が良い。
「あ……じゃあ御願いします」
「分かったわ」
薫はそう言うと、近くの階段の側に行って、
「純ーッ、郁也君が来てるわよーッ」
と叫んだ。
(……郁也? 何でまた……)
布団越しに聞こえた声に、少し純は疑問に思った。
「純ー、早く降りてきなさーい」
薫の声がまた聞こえてくる。
「……」
「……御免ね郁也君、あの子何があったのか知らないけど、何か引きこもっちゃって……」
薫は少し呆れながら、郁也に謝った。
「あ……良いです、俺から行きますから」
そう言って郁也は、自ら階段を上っていった。一段一段上がるごとに、古びた階段から軋む音がする。
キィ……キィ……
キィ……キィ……
(この音……誰かがこっちに来ている……!?)
布団越しに軋む音が聞こえてくる。そしてその足音は自分の目の前に近づいてくる。
「……誰?」
少し不安そうに聞く。
「……俺、郁也」
ドックン……心臓の音が大きくなる。
「……郁也……!?」
「あのさ……さっき何で急に「来るな!」
郁也が話しているのを遮るかのように叫んだ。
「……え……」
「今アンタとは話したくない! 帰って!」
布団にくるまりながら叫ぶ。
「……解った」
郁也はそう一言言って、階段を下りていった。
ミシッ……ミシッ……
上がるときとはまた違う軋む音がする。そしてその音はどんどん小さくなっていく。
(……今会いたくないってのは本当……でも……別れる前に喧嘩はしたくなかったのに……)
純の心の中には、罪悪感が残っていた。
「あ……郁也君……」
郁也が階段を降りた所に、薫が心配そうに声を掛けてきた。
「何でもありませんので、じゃ」
郁也は素っ気なく返事をして、そのまま帰って行った。
『 今アンタとは話したくない! 帰って! 』
この言葉が、ずっと郁也の頭の中で、リピート再生されていた。
(そこまで嫌われるような事……無意識の内に言ってしまったんだろうか……?)
そしてお互い、気持ちは晴れないまま、平成五年(一九九三年)七月二日。
(ああもう、何さ! 郁也の馬鹿! もう帰って来られないって何よ! 自分の夢を早急に叶える事を優先しやがって、私の気持ちは丸無視かよ! もう! もう! 学校行ったらあからさまに無視してやる! 喧嘩はしたくなかったけど、でももうあんな事言っちゃったし、今更謝る気にもなれないし!)
純はそんな事を考えながら登校していた。
そして郁也は……
(よく解らないけど、とりあえず謝っておいた方がいいな、よし)
と、純とは真逆な事考えながら登校していた。
ガラガラガラ!
純は勢いよく教室の扉を開けた。そこにはもう既に郁也の姿があった。
「おはよ……」
純はそこまで言いかけて、はっとした。
(いけないけない、郁也の事は無視するんだった。つい何時もの癖で言っちゃったけど、もう言わない!)
そう自分に言い聞かせて、そっぽを向いて席に座った。
その時だ。
「御免! 純!」
郁也は、純に向かって謝った。
「……は?」
そっぽを向いていた純も、郁也の方に顔を向けた。
「い……いやー、昨日何かやばいこと言っちゃったかなって」
「ーーッ……!」
(やばいこと言っちゃったかなって……人の気も知らずに真顔で『帰ってくるのは難しいと思う』とか言っといて……えーえー、貴方はやばくて酷くて残酷な事を平気でいいましたよー!)
心から純はそう思った。それが顔に出てしまったのが、長い付き合いの郁也には一目で解った。
(うおお……長い沈黙に険しい顔……これは相当怒ってる……只じゃ済まないな……こりゃ……)
そう思った郁也は、必死になって謝る。
「御免! 本当に御免! 何でもするから機嫌直して!」
(何でもする?)
純の中ではこの言葉が引っ掛かる。
「本当に……?」
「本当に!」
純が聞き返すのに、郁也は必死になって答える。
純は自分が思うより前にもう口から答えが出ていた。
「なら……東京に……アメリカなんかにいかないで……ずっと此の村に……わたしの傍に居て……」
ミーンミンミー…ン――……蝉の鳴き声が五月蠅くたった二人だけの教室に鳴り響く。
何時もは気になって仕方がないその蝉の鳴き声も聞こえず、只シンとしていた。
「え……」
郁也の唖然とした声がやっと聞こえた。
「おいじゅ…」
そこまで郁也が言いかけたところで、教室の引き戸がガラガラと勢いよく開いた。担任の富樫慶太朗だ。通称慶ちゃん。彼はあの新聞屋の富樫瞬太郎の息子だ。だから教師とはいえ、純達とは幼馴染みのお兄ちゃんみたいな存在だ。
「純ー、郁やんー、席着けー」
彼は何故か郁也の事を郁やんと呼ぶ。
その後、中々気まずくて、全然口を聞かないまま放課後になった。純はまた昨日の様に縁側でゴロゴロしていた。
(うわー……あれじゃあまるで告ったも同然じゃん! 恥ずい恥ずい恥ずい恥ずい恥ずい! 恥ずいよーー! 自分の馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿! 確かに喧嘩しないとは決めたけど……こんな事になるくらいなら、喧嘩になった方がよっぽどマシだよー!)
軽く半泣き状態である。
『 さーさーのーはーさーらさらー 』
『 ハッピバースデーツゥーユー 』
今から七年前、昭和六十一年(一九八六年)七月七日。
郁也と純まだ六歳の二人の幼い声が響く。
『 兄ちゃん、純姉、祝ってくれる気持ちは嬉しいけど、どちらかの歌にちゃんと決めて歌ってよー 』
幼い涼也が笑い呆れた声で言う。
『 え-、だって時は金なりだよ? 』
『 うんうん。二つともいちいち歌ってる時間が勿体ない! さあ、続き続き! 』
そう立ち直ると、二人はまた『 のーきーばーにーゆーれーるー 』『 ハッピバースデーツゥーユー 』と歌い出す。
(何なんだよ……訳分かんない)
涼也は六歳の彼等を満五歳の目線から見て、そう思った。
『 おーほしさーまーきーらきらー 』
『 ハッピバースデーぴありょーうやー 』
でも、そんな訳分かんない彼等をみていて、そんな細かいことは正直どうでもよくなってきた。
『 きーんぎーんすーなーごー 』
『 ハッピバースデーツゥーユー! 』
二人同時に歌い終わる。
『『 おめでとー! 』』
ザアッ――……
風が強く吹いた。
「純姉!」
(涼也の声……)
「って涼也!?」
風の音と涼也の声で純は目を覚ました。
「あ、起きた? よくこんな炎天下の縁側で寝れるよね、純姉も」
(あ……わたし寝てたんだ……)
ふと気が付く。
「ってかさ、なんで普通に家の中にいるのさ。母さんも婆ちゃんも居ないのに……それ以前に鍵も掛かってる筈だし……不法侵入じゃないの? 思いっ切り」
ちょっぴり人間性を疑いながら、少し嫌味っぽく純は聞いてみた。
「うん、だからあの塀乗り越えてきた。楽勝だよ?」
縁側の目の前にある、一メートル前後だと思われる塀を指さしながら、まるで“何か悪い事でもしたの?”みたいな顔で答えた。これには純も流石に少し呆れる。
(思いっ切り不法侵入じゃん。っていうか此処がアホみたいに田舎だから未だギャグで流せるからいいけど、此処が都会の街とかだったら、確実に警察に通報されてたか、若しくは信用百パーセント失ってた所だったぞ……)
冷静にそう思った。
「純姉、夢とか見てた?」
涼也が聞く。
「え……何でまた」
「んー…何となく」
「まあ…確かに随分懐かしい夢を見たような気がする」
「え!? 何!? 教えて!」
涼也が目をキラキラさせながら頼んだ。
「んー…涼也の5歳の誕生日の時の夢かな。ほら、郁也と私が同時に違う歌を歌った…」
「あー! そんな事あったあった! なっつかしー」
「だよねー。でも何で急にそんな夢見たんだろう……?」
純が疑問に思って居るところに、涼也が意見を出した。
「俺の誕生日って……七月七日だよね」
それを聞いて、純ははっとした。
「あ……」
(確かに……確かにそうだった……。最近郁也の事で胸がいっぱいだったから、-すっごい失礼だけど-涼也の事忘れてた……)
こんな事、本人(涼也)には、口が裂けても言えない。
「懐かしいよなー。そっかー、俺が5歳の時の夢かー。もう七年も前の話なんだよなー」
あはは、と笑いながら言う。
(七月七日……涼也の誕生日が郁也との――……好きな人との別れの日――……)
「……そだね」
涼也とは反面的に元気のない声で返事をする。
(……)
涼也は、それすらも見抜いた。兄と違って、涼也はこの辺(恋愛関連)は鋭い。
「今年ってさ、催涙雨、降るらしいよな」
夕焼け色に輝き始めた空を眺めながら話しかける。
「……サイルイウ?」
聞き慣れない言葉に、純は訊き返す。
「催涙雨。七月七日に降る雨の事」
「ふうん……でも何で涙?」
「織姫と彦星が流す涙、って事」
(涙……)
会えないから泣いたのか。
会ってから大喧嘩して泣いたのか。
会うまえに気まずいことがあって、結局会わずに後悔して泣いたのか。
理由は解らないけど、でも、後悔して泣いたのは余りに残酷だ。
「なあ純姉、何か今日元気無さ過ぎないか? 純姉らしくないぞ?」
少し不安そうに訊く。
(そりゃ、あんな事->>24参照-あってテンション高い奴がいるかボケ!)
心の中ではそう叫んでいた。
「気のせいでしょ、はは」
必死に心の中を隠す。
涼也はしっかり見抜いていた。
「……兄ちゃんと喧嘩したところで―…仲良くベタベタしたところで結局別れる日は変わらないんだぞ」
ザアッ――……
また、風が吹き抜ける。
(涼也―…)
そう言った涼也は、夢に出てきた…今まで自分が思ってきた涼也とは違う、とても大人びた表情をしていた。
「そもそも…涙無しの恋なんて無いんだから、それ位覚悟で恋したら? それに、別れるときにしろ、別れた後にしろ、涙は溢れ出るだろうけど、後悔はしない筈なんじゃないの?」
その言葉は、純が今まで十三年間生きてきて、最も説得力のある発言だった。
「うん……そうだね!」
そう言うと、純は目の前の塀を乗り越えて、走り出した。
(そうだよ! そうだよ! あの発言が何さ! どうせ郁也はニブチンだから何とも思ってないだろうし、どうせ七日には東京だ亜米利加だか行っちゃうんだ!勝手に1人でショボけてた自分がアホみたい!)
ザアッ――……
夏の風が吹く。
同じ風でも、今の風はとても心地よくて爽やかだ。
ガラララ!
郁也の家の玄関の引き戸を勢いよく開ける。
「郁也ァーー!!」
彼女のテンションも百パーセント復活している。
奥から郁也が出てくる。
「おい何だよ!? 急に!?」
「勉強会始めるぞ」
真顔で、そして低い声で言う。
「は?」
郁也には全く理解不能だ。
「始めるぞっていったら始めるの! ほら! 教科書出す!」
「は…はあ…」
言われるままに教科書を準備する。
「でも何で急に勉強始めるんだ?」
教科書を棚から出しながら訊く。
「んー? 東京だか亜米利加だか知らないけど、やっぱりこれまで習ってきたものの復習はした方がいいじゃん。それにあんた、五教科の合計の成績の合計が三百九十八点でしょ? 流石にやっておかないとヤバイって」
郁也の部屋の中心に置いてある円卓で、麦茶を飲みながら答える。
「……」
「何? 不満?」
「いや、五教科の合計の成績が二百十点の人に言われたくないなって……」
少し呆れた口調で言った。この台詞には純も軽くプチっときた。
「何よー! わたしはね! これでも二位なのよ! 全体で二位!」
「大体二人しかいないじゃん、中一は。一位か二位しかないんだよ。二位イコール最下位なんだよ。自慢にも何にもなんねーし」
郁也が「ハン」と鼻で笑う。
(と・こ・と・ん! ムカつくなーッ)
心の底ではそう思いつつ、
「じゃあ、始めようか」
と笑顔で応えた。
(やっぱり昔から変わらないなー。相変わらず鈍感だし。あの事-今朝の教室での一件-も全然気にしてないみたいだし)
―――――――――――――………
「で、この頃雪舟が墨絵を描く、そんでピカソにパクられる!」
自信満々に純が言い張る。
「アホか、雪舟は江戸時代の人じゃねえし、ピカソパクってねえし」
郁也が冷静に突っ込む。
「…えッ!? でも…!」
“絶対そんな筈は無い”と思って居るのがバレバレの焦った顔をして、教科書を確認する。
「……」
教科書の江戸時代のページには、確かにそんな事は書いてなかった。その代わり、《歌川広重が描いた東海道五十三次を、ゴッホが真似て描いた》と、書かれていた。
「……この教科書、多分印刷ミスか、作った人が勉強不足だったんだよッ」
笑顔で郁也に同意を求める。
郁也は「馬鹿じゃねーの」と笑った。
「なー! 誰が馬鹿かー!」
「だって馬鹿だろー。こんなの小学生レベルの問題じゃねーかよ。そんなのも分かんない奴に勉強教わるとか馬路ウケる」
(くっそー、郁也の奴百パーセント馬鹿にしやがってやがる……)
内心、相当悔しかった。
今の事は勿論、自分より先に憧れていた東京に先に置いて行かれてしまうのも、自分より先にパスポートを発行してもらったことも、自分より先に夢に向かって旅立っていってしまう事も。
七月七日までの四日間は音よりも速く、宇宙の広がる速さよりも速く過ぎていった。それも、あまりにもいつも通りに。お別れ会とか、お祝いとか、そんな事は一切しなかった。
そんな事したらもう、二度と本気で会えなくなっちゃうんじゃないかって思うから。
今思えば、それ位したって良かったかなー、とも思うけど、別に激しく後悔している訳じゃないから、まあいっか。
純はそう思っていた。
*
平成五年(一九九三年)七月七日。
(今日が……私が毎年楽しみにしていた筈の日であって、涼也が十二になった日であって、郁也が夢の第一歩を踏む日であって―…私の好きな人の、見納めになるかもしれない―…いや、なる日だ)
純はそう分かっていた。
夕暮れ。
村の住民全員、総勢二十人が、村の中にある唯一のバス停の前に集まっている。全員、顔馴染みだ。郁也の最後の見送りに来ている。
「体に気を付けろよ」
「慣れない所だろうけれど、頑張ってね」
村の人達が郁也にそう声を掛ける。
郁也はそれに笑顔で応対する。
『 最後くらい泣いたって罰は当たらなんじゃない? 』
涼也がそんな事を言っていた気がする。
『 涙無しの恋なんて無いんだから、それ位覚悟で恋したら? 』
涼也の言葉が蘇る。
いつの間にか夜になっている。
星が瞬いている。
しかしそれもつかの間、雲が繁って、雨が降る前の独特のあの薫りが漂う。
催涙雨。
織姫と彦星が流す涙の雨。
会えないから泣いたのか。
会ってから大喧嘩して泣いたのか。
会うまえに気まずいことがあって、結局会わずに後悔して泣いたのか。
答は二人だけが知って居る。
でも解ってしまった。
会っても会った後の別れが辛いからだ。
『 今アンタとは話したくない! 帰って! 』
『 ずっと此の村に……わたしの傍に居て…… 』
『 別れるときにしろ、別れた後にしろ、涙は溢れ出るだろうけど、後悔はしない筈なんじゃないの? 』
ポツ…ポツ…
催涙雨が降る。それと同時に、県最大の駅に向かうバスが来る。
「郁也!」
純が郁也の元に駆け寄る。
その声に郁也は振り返る。
「純…」
「あのね…わたしね…わたしね……」
そこまで言いかけたところで
「待って」
と、郁也が遮った。
「先ず俺から言わせて」
そう言って話し始めた。
「ありがとう」
「…え?」
「『亜米利加なんかに行かないで』って言ってくれてありがとう」
「な…何で…?」
(むしろ迷惑だったんじゃ…)
「だって、何かみんながみんなアホみたいに俺が此の村から出て行くのを歓迎しているじゃん? 嬉しい反面、ちょっと凹んだ」
「え…」
「正直、亜米利加に行く不安もあったのに、誰もそれに気が付いてくれなかったから」
(あ…)
「だから、有難う」
いつの間にか、純の頰には涙の線が一本あった。
「あのね…わたし、正直郁也の夢、素直に喜べないの」
「え…」
「寧ろ反対していたりするんだ」
ザア――――……
雨はどんどん酷くなっていく。
「だから……本気で夢追いかけなきゃ、五寸釘と藁人形で呪ってやるから!」
郁也はクスッと笑った。
「最後の最後まで滅茶苦茶な事言ってんじゃねーよ」
いつもの少し意地悪な郁也だった。
「じゃあ……そろそろ行くね」
郁也はそう言ってバスに乗り込んだ。
乗り込んだと同時に、旧式の古ぼけたバスはキィ―…と大きな音を立てて閉まる。
ザザザザ――……
催涙雨は激しさを増す。
純の涙は抑えきれなくなってきている。
バスがどんどん見えなくなってきている。
催涙雨
七夕の夜に降る哀しい涙の雨――……
最終更新:2011年02月21日 19:47