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アナスタシア・ウィリントン少尉――だが、その本名があまりにも本人に合わないと、誰もが愛称を用いてアニー少尉と呼ぶのだが――は、その力のみで兵卒からのし上がってきた女士官だ。
身の丈は2M近い。筋骨隆々。しなやかな身のこなしは猫科の大型獣を思わせる。
日焼けした肌を彩る黒の巻き毛を短く刈り、琥珀色の大きな瞳は戦場に於いては剣呑に光る。
整った美しい顔立ちと苛烈な戦いぶりもあってか、伝説の魔神に準えて人は呼ぶ。
対して男――クリフ・ハウンドは城の文官だ。素早く的確な仕事ぶりで周りからの評価は高いが、口数が少なく無愛想な所から何を考えているのか分からないと揶揄する者もいる。
だが、甘い顔立ちと優雅な立ち振舞い、時折見せる静かな微笑で、女たちからの評価はすこぶる高い。
尤も、彼と一晩過ごしたことのある女たちの評価は最悪で――つまり、「酷い男」なのである。
アニーは崇拝者を数多く抱えていたが、実際に口説こうとする男は未だかつて現れたことがなく、自ら恋をしたこともなかった。
何しろ、″魔神ナヴァルの再来″なのである。下手に怒らせてしまったら命がいくつあっても足りない。
ところが異変が起こる。
城で行われた宴会でいつの間にか隣り合わせたクリフが、その微笑みでアニーの心を奪ってしまったのだ。
寝ても覚めてもその柔らかな笑みが頭から離れない。
世上の噂に疎いアニーとて、文官クリフの噂は知っている。
曰く、稀代の女誑し、同じ女は二度と抱かない、だが仕事は正確無比で、頭の回転が早く知識も豊富、歩く辞典と重宝されている、等々。
悪い男だと分かっているのに。
だがワイングラスを弄びながら微笑んだ目元とその目尻に寄った皺、涼やかな声音、普段荒くれに囲まれたアニーには珍しく感じる白く細い体躯と意外に大きな掌を思い出すだけで、頬が染まるのが分かる。
胸の奥が甘く切なく疼く。
これが皆の言う恋と言うものなのか?
だが――
アニーは大きくかぶりを振り、剣を振り上げる。
鍛練の最中に何を考えているのだ? こんなことで国を護ることができるのか?
否――!
剣を振り、いつものように型を確認する。常ならば10分もしないうちに頭は空っぽになり、爽快な汗が吹き出すと言うのに、今日に限ってそれはない。
重い汗がじっとりと背を伝う。

頭の中からこの不埒な想いを消し去りたい。泣きたくなるようなこんな気持ちなど捨ててしまいたい。
一通り型を終え、息を付いたアニーは、中庭に通じる廊下の柱にもたれ掛かって彼女を見つめる視線に気付いた。
その瞬間、耳まで赤く染めて俯く。
クリフである。
「見事ですね」
クリフを知る人には驚くような賛辞を口にした。
そもそも、この男は口数が少ない。そして自分にも厳しいが他人にも厳しく、人を誉めることなど本当に稀なのだ。
「まだまだです……」
アニーは唇を噛み締めて俯いた。
特に今日は気も乗らず、最悪だ。なのにこんな時に限って、クリフに見られてしまうとは。
「そうでしょうか? たしかに私は武芸には疎い人間ですが、貴女の流れるような動きには目を見張りました。美しいと思いましたよ」
美しい……!
容姿を誉められた訳でもないのに、彼の言葉に心臓が跳ね上がった。
「とても優美で、それでいて力強い。流石″魔神ナヴァルの再来″と、美神に喩えられるだけのことはある」
「ありがとうございます」
短く礼を述べ、会釈をする。
顔を上げると、再びクリフの瞳をまともに見てしまった。
碧色の瞳を細め、アニーを魅了してやまない笑みを浮かべている。
その瞳が恥ずかしくて、ついと反らすと今度は唇に目が行ってしまった。やや下唇の厚い、ぽってりとした形。触れれば柔らかそうだ――
私は何を考えている? アニーは我に返って身体を硬くした。
今日は調子が悪い。どうかしている。あとは立て込んでいる書類を片付け、さっさと部屋に戻ろう。
アニーは苦労して吐息を洩らした。
「少尉、この後何か予定はありますか?」
「え――?」
耳を疑う。
文官クリフは稀代の女誑しだが、自分から女を誘うことはない。
来る者拒まず。来た者は漏れ無く美味しく戴く。それが彼を知る女たちの評判だったはず。
「あ、あの……」
弱々しい自分の声に舌打ちしたくなる。
こんな弱さなどいらぬ。必要なのは強さ。国を護りぬく強さのみ。
私は戦士だ。なのに何でこの男の前では、こんなに弱い――
ぎりっと血が滲むほどに唇を噛み締め、きっとクリフを見据えた。
丈高いアニーに比べると、頭一回りほど低い華奢な男。細い頸を捻ればひとたまりもないだろう。
何を恐れることがある?

「特に予定はありませんが、何か?」
「申し訳ありません。昨日提出していただいた書類ですが、もう一度書き直しては頂けませんでしょうか。あのままでは決裁が下りません」
「は――?」
「詳しくご説明致します。後で伺ってもよろしいですか?」
「は、はい……」
「では、後程」
軽い会釈の後、身を翻して颯爽と去って行く後ろ姿を見送る。
何を思っていたのだ、私は?
自分の思考に、身が崩れ落ちそうだった。

夕方、ぞろぞろと兵舎に引き上げていく仲間を尻目に、アニーはクリフにしごかれていた。
これが鍛練ならばいくらでも受けるところだが、書類作成は辛い。はっきり言って書式などどうでもいいではないかとクリフに訴えると、じろりと睨まれた。
アニーが云々と唸りながら書類を作成する隣で、クリフは山のような仕事をこなしていく。しかもアニーへの指示も的確で非常に分かりやすい。
なる程、仕事に関する噂に偽りはないなと思いながら書いていたら、またスペルミス。すかさずクリフが見咎め、もう一度書き直しだ。
窓の外が暗い。いい加減腹も減ってきた。
「残りは明日じゃ駄目ですか?」
恐る恐る隣に座るクリフを覗き込む。
だがクリフの無言の一瞥に、すごすごと書類に戻る。
夕食に間に合うのか? もうそればかり考えながらも必死に書き続け――それから2時間後、ようやく完成した。
「お疲れ様でした」
クリフが淡々と終了を告げた時、アニーは机にへたりこみ、もう指が動かなくなっていた。
どんなに剣を振るっても平気な彼女にとって、非常に珍しい。
「食堂の夕食は終了してしまいましたね。よろしければ、外に出掛けませんか? 奢りますよ」
クリフは碧の瞳を細め、柔らかく笑みを形作った。
ああ――なんて優しく微笑む人なんだろう……!
アニーは胸をときめかせながら僅かに頬を染め、こくんと頷いた。

待ち合わせの酒場に行くと、クリフはもう席に着いていた。
「お待たせしました」と固くなりながら会釈をすると、またあの微笑みを浮かべる。
好き嫌いを訊かれ、ないと応えると、慣れた様子でクリフが料理を注文した。
あっという間にテーブルにはところ狭しと湯気を立てた料理が並ぶ。
乾杯のあとは無言で食べる。
香草を用いたスパイシーな料理は、兵舎と戦の糧食ばかりのアニーにとって天国のように思われた。
あまりの勢いに噎せていると、クリフが席を立ち背を擦ってくれた。
「す…すみません」
たったそれだけなのに、胸の奥が痛む。心臓を直接わし掴みし、掻きむしって棄ててしまいたい。
クリフに則され、水を飲み、また噎せた。慌てて今度は酒を飲み、ようやく人心地つく。
いつもより酔いが早く回る。気恥ずかしさと酔いのため口数が減ると、元々無口なクリフとの間に沈黙が流れる。
酒場の喧騒の中での静かな時間は思いの外心地好くて、ようやくアニーは落ち着いて食事に取り掛かれた。
「休みの日は何をなさっているんですか?」
尋ねてから微妙な質問だったなと気付いた。噂と違い特定の女がいれば二人で過ごすのだろうし、そうでないならこれまた微妙だ。
アニーが彼に関心を持っていると白状するようなものだから。
「掃除をしています」
「掃除、ですか?」
意外だった。この男のことだ。女と遊んでいるか本を読んでいるかだと思っていた。
「我ながら神経質だと思うんですが、我慢ならないんですよ。普段はなかなか片付ける時間もないので、休みは徹底的に雑巾掛けです」
ずぼらなアニーは掃除が苦手で、相部屋時代は同僚に散々文句を言われていた口だった。自分とは異質なのだと、少し悲しい。
「貴女は何をなさっているんですか?」
「わ…私は……」
女らしいたしなみは何一つ知らない。教養もない。
休みもやはり剣を振り、そしていつもよりも長く走る。
仕事しか知らない。仕事しかない。
何とも応えられず、アニーは曖昧に笑う。
「つまらない人間なので……」
とだけ応えた。
再び沈黙が降りる。
クリフは静かに杯を傾け、笑みを浮かべた。
「――戦いの鬼神と噂される方がどんな方なのかとずっと思っていた」
長い沈黙の後、クリフは呟くように言った。
「どんな豪傑かと思っていたら、可憐な方で驚いた」
大きく鼓動が鳴る。

「貴女は、この国の未来についてどうお考えか?」
唐突な質問でアニーは目を見開く。瞬間、酔いが醒めた。琥珀色の瞳に光が宿り、金色に燃え上がる。
「私は、国王陛下のご命令のままに戦うまでだ」
昨今の不穏な空気と周辺諸国との小競り合いで、宮廷内にもきな臭い噂が立ち込めている。
誰かが裏で手を引き謀反を企てているとの噂もあるが、未だ真相は判明していない。
たとえクリフがその一味の人間だったとしても――アニーは躊躇いもなく斬るだろう。
そんなアニーの気迫が伝わったのか、クリフはふっと息を吐き、また柔らかく微笑んだ。
「私は謀反を企む者たちを捕らえるため貴女に力をお借りしたい」
「はい……!」
「我が国は国土が狭く資源も乏しい。僅かな産物を取引して成り立っている。
それを周辺諸国に侵略することで領地を広げ、国を富ませるべきだと考える者たちがいる」
「存じています」
「陛下は和平を尊び、侵略には反対の立場をお取りなのだが、それを腰抜け呼ばわりする輩がいる」
大臣のハリスを筆頭にする急先鋒グループ。アニーは無言で頷いた。
「ご協力願えませんか?」
クリフの真意が分からない。
アニーごときに何ができると言うのだろう?
「――少し、考えさせていただけませんか?」
長考の末にこう応えるとクリフは頷いた。
「分かりました」
互いに酒を飲み干す。
「今度よろしければ貴女の休みの日に、二人で出掛けてみませんか?」
「――え?」
どういう意味?
「私は貴女に興味を持っている」
文官クリフは女誑しの悪い男だが、自分からは決して女を誘ったりはしないはず――
ああ、勘違いをしてしまいそうになる。
それとも夢なのだろうか?
「……それはどういう意味ですか?」
「こう言う意味ですが――」
アニーを魅了してやまない微笑みが近づいた――と思ったら、唇に一瞬温もりが乗った。
胸の奥の痛みが熱く沸き立ち、そしてゆっくりと溶けた――。

《続く》

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最終更新:2010年04月25日 01:04