容赦なく照りつける陽光。しかし、今はそれを気にしている余裕など微塵もない。
「く……」
迂闊だった。遅れた時間を取り戻すためとはいえ、不注意に急ぎすぎた。おかげで足を滑らせ、こうして辛うじて片手で崖に身を保っている。
―――まったく、どんくさい『お荷物』のせいで…
その相方は、まだこちらの異変には全く気づいていないらしく、まるで助けにくる様子はない。…こんな調子で、本当にあのM機関になんて入れるのだろうか。先知れぬ不安を感じる……。
―――和泉怜は、M機関に入ることが幼い頃からの夢だった。ひとつの理由は、カナヅチで溺れていた私を助けてくれたミュータントに憧れて。そして、もう一つの理由は―――
「ひゃあっ…!?」
…危なかった。手に汗が滲む。気を許せば、すぐにでも真下の大口に飲み込まれてしまうだろう。辺境の島の、断崖絶壁。このまま助けがこなければ、確実に私は…
「何やってるのよ、アイツは…」
悪態付いても何も変わらない。ただ、静かな波の音と、ヤシの葉のさえずりだけが虚しく響く。
―――まったく、どんくさいお荷物さえいなければ…
ねずみ色の、まるで囚人みたいな服を着せられて乗り込んだ船に揺られること数時間。久しぶりに日の光を浴びたそこは木々ばかりの茂った、一目で辺境の地とわかる無人島。そのせいか、私と同じ服装をした数十人のミュータント達も、いい知れぬ不安を顔に表していた。
さらに、先導に従って道らしきものを歩くこと数十分。ようやく人の気配を感じる、しかしこの森林の中にあるはずのないものが姿を現した。
―――建物。掲げられた鷲の紋章を象った旗が、羽ばたくように風になびいていた。まさしく、地球防衛軍M機関の紋章である。
そうだ…ようやく来たんだ、ここまで。M機関入隊試験―――。数多くの難関項目をパスしたわずかなミュータントだけが受ける事の許されるこの試験…これに合格すれば、長年の夢だったM機関への入隊を許されるのだ。
ファイナルウォーズから二年後の、『不幸な事故』で死んでしまった兄さん。でも、私はそれが事故なんかじゃないことを知っている。
―――尾崎真一が、兄さんを殺したってことを。
あの日、何かの事故で捕獲するはずだった
ラドンとキングシーサーが脱走してしまった。その時、何故か尾崎は我を失って暴れ狂ったという。私は、逃がしてしまった原因が尾崎にあったからじゃないかと推測している。そして、それを隠蔽するために尾崎は、兄さんを…。
私は尾崎を許しはしない。たとえいかなる理由があろうとも、英雄の男であろうとも。
だから、いつしか『M機関に入る夢』は『尾崎へ復讐するための入隊』に変わってしまった。でも、私はそれでいいと思っている。私の夢は穢れてしまったけど、それで兄さんの無念を晴らせるのだから。
(兄さん、見ててね…。)
空を仰ぐと、真っ白な入道雲が青い空を覆うようにそそり立っていた。
しばらくして、試験管らしき男が目の前の建物から姿を現した。まるで四方堂亘みたいな顔の試験官は、壇上から一通り試験生を見渡すと今回の試験内容の説明を始めた。
「私が試験官の
国木田だ。早速だが君達に試験の内容を伝える。二度は言わない、よく聞いておきたまえ」
なんだか偉そうな人…イヤミな上司は多いって言うけど、まさに典型って感じ。ああいう人の下にはあまりつきたくないな……仕方ないことだけど。
「内容はいたって簡単だ。このゾルゲル島内に設置されてある5つのチェックポイントに二人一組で回ってもらう。制限時間は正午12時から48時間。それまでにここに戻って来られなかった場合は失格。もちろんチェックポイントを一つ逃していても失格となる。わかったな」
なんだかハイキングのレクリエーションみたいな内容だ。正直拍子抜けだな…。
「今簡単だな、とか拍子抜けだな、とか思った奴、安心しろ。このゾルゲル島には
カマキラスなどの原生怪獣が住み着いている。下手すると死ぬ」
一瞬のうちにどよめきが会場を駆け巡る。よくもまぁ簡単に死ぬなんて言ってくれる…。まさか安全性さえ保障されていない試験だったなんて、誰が想像しただろうか。
「そこで、お前らにこの護身用の加速銃を渡す。二人で協力すれば、カマキラス程度なら追い払うことが出来るはずだ」
って言われても…単なる気休めに過ぎないと思うのは私だけ? 周りの人たちも、不安を隠せないでいるようだった。
動揺の収まらないまま護身用の加速銃が配布され、ペアわけが始まった。驚くことに、ペアは名簿順だという。…せっかく学校を中退してまでこんな所に来たというのに……なんだか小学校に逆戻りしたような気分だ。
(まぁいいか、どうせ誰でも一緒だろうし)
だが、この考えが今になって思うと浅はかだった。
(で、えーと…私のペアは……っと)
渡されたペアわけの表をめくろうとしたその時、不意に背中のほうから声がした。
「あ…あのっ、い、和泉、怜さん…ですか?」
「ん?」
声のほうへと振り返ったとき、私は思わず一瞬固まってしまった。
鏡を見ているのかと思った。髪形から始まり、背丈や仕草まで私にそっくりな女の子が、私の前に恥ずかしそうに立っている。世界に似ている人は3人いるというけど…あれ?でもその人が出会っちゃったら死んじゃうとか、そういう話も聞いたことがあったような。
「あ、えと…ペ、ペアの、
有賀サキです……ふ、ふつつかものですがどうぞよろしくですっ…!」
「え…あ、うん」
消極的な性格であることはすぐにわかった。ていうか不束者って…。まぁ少なくとも間違いはしなさそうだし、罰則とか、その辺の心配はしなくてもいいかな。
「それじゃ、行こうか」
「は、はいっ…!」
私が歩き出すと、サキという娘も慌てて後についてくる。時間は、そろそろ正午を回ろうとしていた。
「ではこれより、M機関入隊試験を開始する。各人準備はいいか?」
各々ペアと最後の確認、心の準備をお互い準備を済ませている。もちろん私達も例外ではない。
「準備いい?銃持った?」
「は、はいっ!」
サキという子は確認するようにぎゅっとホルスターを握り締めている。見るだけで緊張していることがわかった。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
私はなんとかサキの緊張をほぐしてやろうと微笑みかけた。実際緊張しているのは私もなんだけど。
「は、はい…」
サキもぎこちなく微笑み返してくれた。紫の髪が揺れる姿は、やっぱり私の姿を映しているようだった。
「それでは―――試験開始!」
国木田の号令と共に、数十人の波がどっと溢れだした。それに完全に飲み込まれないように、私はサキの手をしっかりと握った。
「行くよ!はぐれないでよね!」
「はい!」
―――そこまではよかった。
試験が始まってからしばらくした森林の中で。
「怜さん、危ない!」
サキの助言に、私はさっと木の陰に身を翻した。敵?まさか、カマキラス!?
油断なく辺りを見回す。だが、それらしいものは何も見えない。
「サキ?敵なんてどこにも…」
と、サキの方向に振り返った時、思わず私は声を失った。
「よかった……」
などと言いながらしゃがみこんでいるサキの目線の先には一輪の花。それは私が歩いていた道に、他の植物に隔離されたようにひっそりと咲き誇っていた。
「アイビーの花…でも野生ってことは、ゼラニウム?」
「サキ…」
もしかして、危ないっていうのは、私じゃなくその花…?
踏まれなくてよかったね、などと微笑むサキに、私は先行きの不安を感じずにはいられなかった。
それだけではない。
「…あ、あの、休みませんか?」
ひぃひぃとあがった息に振り回されながらも必死についてくるサキ。正直私はうんざりする想いだった。
「また!?もう、何回目だと思ってるの?」
「ええと、6回目…」
「そういう意味じゃなくて!」
この広大なゾルゲル島を2日で回るには睡眠時間も考慮に入れるとかなりのハイペースで進んでいかなければならない。だというのに、休憩しようだのアレを失くしただの、サキのおかげで私達は牛歩状態。しかも、チェックポイントの一つも見つけていない。このままでは間に合わないことは火を見るより明らかだ。
「サキ…あなた、やる気あるの?」
「す、すみません…で、でも」
でもじゃないわ、全く…こんなトロくさい女のせいで失格になったらたまったもんじゃない。いくら私でもこれはさすがに付き合いきれない。それにしても、どうしてこう私の周りには世話の焼けるのが多いんだろう。例えばゆみとか。
「もう知らない。悪いけど、私は勝手に行かせてもらうから」
「え、あのっ…!」
困惑するサキ。でも、私は構わずずんずんと音を立てて森の奥へ突き進んだ。
とにかく、まずは遅れを取り戻さなくては。…サキは追ってこない。ひょっとして落ち込んでいるのだろうか。少しいい過ぎたかも、と思ったが、すぐにいや、と思い直した。
(遅れてるのは事実だもの…それに、この程度で根を上げてたら、M機関に入ってからやっていけるわけないじゃない)
と、その時不意に何かが姿を現した。殺風景な、草さえ生えていない広場に無造作に置かれた長机。そして、その上にちょこんと乗せられているスタンプ。
(まさか、あれがチェックポイント!?)
本当にレクリエーション状態だと呆れながらも、ようやく見つけた一つ目のチェックポイントに少しだけ安心する。
(よし、この調子で一気に追い上げて―――)
しかし、このときチェックポイントに目を奪われていた私には見えていなかったのだ。安易に近づく者に牙を剥く、魔の大口を開けた断崖絶壁に…。
―――そして、私は足を滑らせ、現在に至る。
「まったく、どんくさいお荷物のせいで…」
そっと下を覗けば、白波を立てて獲物を待つ絶壁の海が広がっている。あんなところに飲まれたらひとたまりもない。ただでさえ私は泳げないんだから―――
そう思うと、突然全身に寒気が走った。
「い、いつまで休んでるの…早く来なさいよサキ……っ!」
なさけない震えた声で助けを求めるも、サキどころか誰も現れる様子はない。野鳥の鳴き声が響き、自分一人だけ取り残されたような感覚に思わず身の震えが止まらなくなる。崖に掴まる手の感覚も痺れたように薄れていく。汗ばんだ手に、力が入らない……
(このままじゃ、落ちる…)
私は、半ば諦めかけていた。最期にしては、あまりにも間抜けかもしれないけれど…兄さんに早く会えるかもしれない、と思うと少しだけ気が軽くなった。
目の前で、自分の手が崖から滑るのが見えた。まるでスローモーションみたいに、命を手放す瞬間が見えた。
だが、その時。放たれた私の手をがっちりと何かが掴んだ。体が宙吊りになり、同時に無くなるはずだったものがそこに留まる。私は握られた掌の先を見上げた。そこに立っていたのは、紛れもなくあのおっちょこちょいな私の相棒、有賀サキだった。
「怜さん……だ、大丈夫ですか…っ!?」
「ったく…休憩が長いっての」
だが、力が足りない。ミュータントにしてはあまりに非力だ。徐々に体が崖下に飲み込まれていく。全くこの子はどこまで落ちこぼれなんだか…なんて言っている場合じゃない!このままじゃ、二人揃ってあの青い魔物の口の中に!
「サキ、もういい!いいから手を離して!!」
「……離しません…っ!」
「でも…!」
それでも、往生際の悪いサキは離そうとはせず、そのわずかな力で少しだけ私を持ち上げた。―――仕方ない、兄さんに会うのは、今回は諦めるとしよう。
一息つき、ようやく二人のカードに赤いスタンプがひとつ、ちょこんと押された。
「はぁ……やっと一つ」
「あ、あの……」
ため息をつく私に、おどおどしながらついてくるサキ。ひょっとして、さっき言ったことをまだ気にしてるんだろうか…?
「ご、ごめんなさい……わ、わたしがのろまなせいで…まだ、ひとつで」
やっぱり。そういえば、出会った頃のゆみも、こんな感じだったかな。
公園の片隅にあるブランコで、一人涙を拭いていたあの時。あの頃は声をかけたことを後悔するほど鬱陶しいと感じていたっけ。
私がサキに手を伸ばすと、サキはぎゅっと目を瞑った。まさか、叩かれるとでも思ったのだろうか?
「…さっきは、ありがとう」
―――悪いけど、私はそこまでヒステリックじゃない。私はサキの頭を、割れ物を扱うみたいに極力優しく撫でてやった。
「マジでやばかったもの…サキが来てくれなかったら……死んでた」
サキは、一瞬ぽかん、と間抜けな顔をしていたが、すぐに照れくさそうな眩しい笑みをみせた。
それから、私達は夜になるまでにもう一つチェックポイントを通過することができた。
「ねぇ…どうしてサキはM機関に入りたいの?」
寝袋の中で怜が尋ねた。隣で寝る準備をしていたサキの動きがピタッと止まる。
「え、ええと…なんでですか?」
口ごもり、さらに返答を遠まわしにするサキ。どうやらあまり話したい理由ではないらしい。
「だって、不思議じゃない?ミュータントにしては力もないし、体力も人並み以下だし」
「う“…」
「そんな人が、どうしてバカみたいに厳しいであろう軍隊なんかに入りたがるのかな~と思って。まさか、好奇心に突き動かされましたー、なんて言わないわよね?」
怜が悪戯っぽく笑いながらそう言うと、サキは「そ、そんなわけないじゃないですか!」と、からかわれているとも知らず本気で反論してきた。それがまたおかしくて、怜は思わず声を立てて笑ってしまった。
「わ、笑わないでくださいよぅ!」
むぅ、と顔を真っ赤にして、とうとうサキはいじけてしまう。
「ごめん、ごめん。それで、本当のところ、どうなの?」
え、とまたサキの口がモゴモゴと怪しい動きになる。怜はただ、面白おかしくその様子を見続けていた。コロコロと表情が変わる人は、見ていて飽きない。
しかし、やがて意を決したようにサキはひとつ息を吐いた。
「私の理由。それは…
―――居場所が、欲しいから。
さっきまでの自信のない声は消え、凛とした声が辺りに静かに響き渡り、やがて黒い星の海原の中に吸い込まれていった。怜は一瞬、別の誰かが現れたのではないかとさえ思ってしまった。だが、もちろん怜とサキ以外には誰も存在しない。
「いつ頃からだったでしょうか…そんなことを、思うようになってしまったのは……
―――13年ほど前。
小さい頃から、私は気の弱い、引っ込み思案な子供でした。だから友達もなかなかできなくて。それに、私の周りにミュータントの人間はほとんどいませんでしたから…だから、私がミュータントだとわかった途端、気味悪がって誰も話しかけてはくれず、むしろ近づいてもくれませんでした。近づいてくるといえば、近所で評判だったいじめっ子の男の子くらいで。
「この『かいぶつ』!せいぎのみかたがやっつけてやる!」
…なんていわれながら、よく木の棒とか、砂場遊び用のシャベルとかで叩かれていました。私は、やめて、なんて言いながら、ただ泣くことしかできなくて。でも、周りの人も助けてくれないし、仕方ないのでその子達が飽きるまで私はそのままで…。皮肉って言うんでしょうか…ミュータントの力のおかげで、怪我はそれほどでもなかったんですけどね。そんな力があるんだから、ホントはやり返すくらいのことはできたんでしょうけど…なんだか可哀相に思っちゃって。……バカですよね。
でも、どちらかというと…小さい頃は、家に帰ってからの方が苦痛でした。
「今までどこほっつき歩いてたの?さっさとやることやりなさい」
帰ってすぐの母の一声は、毎日大体同じで。あ、母って言っても実の母じゃないんですよ。本当の両親は、私もよく覚えていません。『仕事先の事故で死んだ』、としか聞かされていなくて。それで、親戚である今の両親に拾ってもらったんです。
それで、『やること』っていっても…宿題とかではないんですよね。幼稚園に、宿題はないですからね。つまり…掃除とか、炊事とか。家のことです。今なら大したことないですけど、何せ3歳の頃でしたからさすがに応えました。家は広かったですし、何より、失敗したときの『お仕置き』が怖くて…「ミュータントって聞いたから、何でもできると思ったのに…とんだ役立たず。ただのお荷物」なんて言われながら叩かれるのはしょっちゅうでした。
父は見てみぬふりです。私を助けようとはしてくれてたけれど…母には逆らえないみたいで。だから、せめて捨てられないように、ってあの頃は必死で働きました。当然、虐められていることなど、相談できるわけもなくて…。その頃の楽しみといえば、父の本棚からこっそり持ってきたお花の図鑑を、寝る前に読むくらいで。でも、おかげで色々な種類の花を覚えることができましたけど。昼間の、アイビーゼラニウムもその図鑑で覚えました。
そうやって、10年が過ぎました。
「……あ…ご、ごめんなさい…つまんないですよね、こんな話」
突然、思い出したようにいつもどおりの苦笑を浮かべるサキ。まるで他人事のように、辛い過去を淡々と語っていくその姿に、私はただ絶句するしかなかった。それに…
―――役立たず。サキの母親が口にしたという言葉。
まさか、これほどまでに自分が憎らしくなるなんて思いもしなかった。私は、少なからずサキのことを『役立たず』と思ってしまった。サキはこんなにも、必死に心の居場所を求めているのに…これじゃ、私も居場所を奪う者たちと同じじゃないか!
「それじゃ、別の話でも…」
遠慮がちに話を逸らそうとするサキを、私は制した。
「まって。 …その話、続けて」
「え、でも……」
「お願い」
少しの気休めにもなるかどうかわからないけど、せめてサキを苦しめているもの、それを受け止めよう。そして…せめて試験期間の間だけでも、私がサキの居場所になってあげよう、そう思った。
それからサキは、少しためらってから再び話を続けた。
中学に入って、私は生まれ変わろう、そう思いました。周りはほとんど知らない人ばかり。でも、私にとってはむしろ好都合でした。何より、私の他にもミュータントの人がいくらかいましたから。
最初は、話しかけてくれる方もたくさんいて。その時は、毎日が楽しかったです。
―――でも、駄目でした。どうしてかわからないけど…すぐに、皆離れていってしまうんです。私が、ドジだからでしょうか? …お荷物、だからでしょうか?
結局また、一人ぼっちに戻ってしまいました。いや……一人のほうが、よかったのかも。
話しかけてきた人は確かにいました。…でも、それはあの時のいじめっ子の男の子でした。…といっても、もう子供じゃありませんから、叩くようなことはしません。―――叩くくらいのほうが、まだマシだったんでしょうけど。
「いやぁ、昔は悪かったなぁ…乱暴なマネして、悪かったよ」
最初の言葉から、もう私は気づかなくちゃいけなかったんです。でも、一人じゃないことの楽しさや嬉しさを知ってしまった私には、警戒することなんてことは不可能でした。
「よく見るとお前……いい女だよなぁ」
今でも覚えています…顔に手をかけられたあの時の、気持ちの悪い感覚。
それから………
その男の子は、私が反抗しない…いや、できないことを知っていましたから―――何をやっても大丈夫だと、目をつけたのでしょう。私はなす術もなく、彼にされるがまま…。
あの時だけは……さすがに耐えられませんでした。シャワーで何度も、何度も洗いました。…でも、ダメなんです。体を侵していく気持ち悪さが体中纏わりついてくるんです。私は、この汚れが二度と落ちないのだと思うと、零れ落ちる涙を抑えることができませんでした。
もう死にたいとさえ、思いました。いくら生きても、楽しいことなんてこれっぽっちもない。あったとしても、すぐに逃げていってしまう。ならば、いっそ―――
思いついたのは、当時ニュースでも数多く取り上げられたリストカット。でも…私、出来損ないだから、ダメでした。ホント、ダメなこと多くて、やんなっちゃい、ますよね。右腕にカッターの刃を向けただけで、死ぬのが恐くなっちゃって。手が、自分のものじゃないみたいに震えるんです。だから、結局…
「待ってたぜ。今、帰りだろ?」
結局、次の日も私は彼から逃れられませんでした。そうしてまた…そんな日が一体何日くらい続いたのか……その頃の私は、完全に諦めていました。生きながらして死んでいるようなものです。でも、私一人が我慢するだけで丸く収まるなら、もうそれでもいいかなって、思ったんです。
ふと鏡を見ると、死んだ魚の目をした醜い姿が目の前にありました。最初に見たときは、それが自分だなんて信じられませんでした。
こんな、直視することさえ憚られるような醜い私。
こんな、人間か『怪物』かさえもわからない私。
こんな……こんな、汚れてしまった哀れで無様な私。
こんな私がどうなろうと、きっと何も変わらない。何も起こらない。世界は何事もなく動いていくだろうし、誰も私の言葉を聞いてくれないだろうし、……私は、逃げることすらできない、臆病者のままだし。
だから、全てを諦めよう。本気でそう思いました。
…でも、こんな私でも恋愛くらいはしたことあるんですよ?
―――それは、すごく単純な
きっかけでした。
「やめろ」
「あぁ?んだてめぇは?」
体育倉庫に突然飛び込んできた第3者の声に、私は顔を向ける。扉から溢れる光、そこに立つ彼は、まるで後光を纏った神様のように見えました。
「やめろっつってんだろ。…嫌がってるじゃねーか」
「はぁ?嫌がってんなら抵抗してくるだろーによ」
お楽しみを邪魔されて、脱ぎ散らかされた服を着ながら怒気の篭った声を吐く男の子。だけど、彼は全く動じない。それどころか、鼻で笑って
「よく言うぜ、抵抗しないって知っててやってるくせによ」
「んだとぉ!?」
男の子の拳が彼に向かって飛んでいく。でも、彼は小石を掴むみたいにいとも簡単に受け止めてしまった。
「いづっ!?」
「…大した力もねーくせに、弱いものイジメか?なさけねぇ」
「このっ………ひぎっ!?」
私の目の前で、私を苦しめていたものは腕をありえない方向へと捻じ曲げられてあっさりと根を上げた。
「二度とこの女に手ぇ出すな。出した時は…」
「わ、わかった!だから離してくれぇ!!」
彼が手を離すと、男の子は脱兎のごとく一瞬で遠くの雑踏の中に消えていった。
瞬く間の出来事に、私はただ口をぽかーんとあけて呆然とすることしか出来ませんでした。
「大丈夫か?」
彼の声にはっと我に返る。気づくと、彼の大きくて綺麗な掌が目の前にありました。
「あ、あの……」
「悪い、もっと早く助けられたらよかったんだが」
「い、いえっ…その……嬉しい、です…」
彼に手を重ね合わせた瞬間は、まるで生き返るような、生まれ変わるような暖かい気持ちでした。そう、纏わりついていた気持ち悪さも、浄化してしまうほどに。
それはまさしく、つかの間の幸せを手にした瞬間でした。
それからの数日間こそ、私が生きる中で最も幸福な時間だったんだと思います。
多分、これからも。
彼と一緒に買い物に行って、ゲームセンターで遊んで、映画に行って。
私は、初めて皆と同じように楽しむことを知りました。そう、皆と同じように…それがどんなに嬉しかったことか。彼とは…付き合っていたつもりはあるのかどうかわからないけど、それでもよく私を呼び出しては、色々な所へ連れ出してくれました。その頃には、もう昔の苦しみなんか捨てたように消えうせてしまって… ゲンキンなものですよね。
こんな幸せがいつまでも続いて欲しい。ようやく見つけた居場所を、いつまでも大切にしたい。叶った夢に、私は酔いしれました。
でも―――やはり、『つかの間』という言葉がそう長くないことを、私は知らねばなりませんでした。
きっかけは、彼からの一言。
「そういや、部活は入ってないのか?」
「え、あ、はい…」
部活に入っても、どうせ一人ぽっち、いないと同然の扱いにされることを分かっていた私は、当然部活への所属などしていなかった。
「ふーん。そんじゃ、ウチ来ないか?」
彼が陸上部のエースで、学校の中では軽い有名人であることを知ったのは割と最近だ。昔は、外のことにはまるで興味がなかったし、耐えることに精一杯だったから。
「え、でも私…」
正直なところ、運動は好きなほうではない。ミュータントの割には、身体能力もたいしたことない。だから私は、あまり気が向かなかった。
「大丈夫だって。…ていうか、少しでも一緒にいたいしよ」
なんだか照れくさそうに頭を掻く彼。それがなんだかおかしくて。
「下手っぴでも…笑わないで下さいね?」
私は、彼の誘いにOKを出しました。
気持ちよさそうに青空を泳ぐ雲の下で、黄色い歓声が上がった。それは他でもない、私に向けられた歓声。羨望、尊敬、感動。すべての視線が私に集まっていた。他人に認められ、持てはやされるという優越感…こんな経験は初めてだった。
陸上部での大活躍は、すぐにも私を人気者に仕立て上げた。今まで口を聞いてもくれなかった子達がころりと態度を変えてきたことには少し戸惑ったけれど…でも、悪い気はしなかった。まさか、自分を苦しめ続けてきたミュータントの血が、こんな形で役立つなんて。
(これも、全部彼のおかげ……彼と出会えて、本当によかった)
人の輪の中からふと彼を見やると、彼はなんだか浮かない顔をして一人立っていた。私はどうしたんだろう、と声をかけに行こうとした。しかし、周りの質問攻めになかなか彼のところまでたどり着けない。結局、彼の元へと解放されたのは放課後の、もうすっかり世界が夕暮れに染まった時間だった。
「私、誘われてよかったと思います。…これも、全部―――さんのおかげです。えと、ありがとうございます」
彼は何も言わなかった。そのときはまだ、きっと子供っぽくはしゃぐ私に呆れているんだろう、その程度にしか思っていなかった。
「あ、あの…私、今度こそあそこが居場所だなぁって…」
だが……次の瞬間、全てはガラスが砕かれたかのごとく砕け散った。
「うるせえよ」
それは、はっきりとした拒絶だった。私には、最初何が起こったのかさっぱりわからず、ただ目を丸くするしかなかった。
「…随分嬉しそうだな。……あれだけチヤホヤされれば当然か」
彼は、何を怒っているんだろう?冷たい視線はトワイライトな茜色に彩られ、私の中に深く突き刺さってきた。
「あ、あの…?」
「まさかミュータントだったなんてな。……全く、とんでもない女を拾っちまったぜ」
また、『ミュータント』…。
「努力でもなく、ましてや才能ですらない…」
どこまで、『ミュータント』という言葉は、私を苦しめれば気が済むのだろう。
「人間に紛れ込んで、チヤホヤされんのが楽しいってか…ええ?」
―――この『怪物』。
その瞬間、私の刻(とき)は止まった。
ミュータント―――それは、もはや私にかけられた呪い。
誰が、特別な力が欲しいなんて願った。
そんな力、役立ったこともない、ただの『お荷物』だ。私と同じ…お荷物。
誰がミュータントにしてくれなんて頼んだ。
ミュータントなんて、人を怖がらせる言葉でしかない。少なくとも、私にとっては。
誰が……『怪物』になりたいなんて、思った?
結局、人間は自分達以外の理解できないものを排斥する生き物。
―――諦めていたつもりだったのに。人生を、私を、諦めていたのに。それを引き止めたのは彼だったのに。どうして…私を引き上げてくれた彼が、私を突き落とすの。
ミュータントだと、わからなかったから?
―――この姿がいけないのか。人間と同じだから。
ならば、いっそ誰も近づけないくらい、恐ろしい姿にでも改造されればいい。こんな汚れた体など、面影もなく滅茶苦茶にされてしまったほうがいい。
リストカットもできない軟弱な心など死んでしまえ。体が死を恐れ、死を拒むなら―――心が自殺すればいい。死んでしまえばいい。
私など、壊れてしまえばいい。
気がつけば彼はもう私の隣にはいなかった。あったのは、壊れたスピーカーのような汚い烏の声。そして、一滴の雫――――――
最終更新:2008年04月01日 19:56