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明治初頭の大原地区」を以下のとおり復元します。
<p><font size="3">版籍奉還直後の大原地区状況  09/09/15 創始<br /><br />
 現在の大原地区も、「『智頭急行鉄道』 の立ち寄り地点」といわれる側面がありますが、幕末-明治初年も 因幡・播磨
間の宿駅の一つという地位を経験しています。</font></p>
<p><font size="3"><因幡・播磨道><br />
 古町・更生橋(旧土橋)東袂の元禄二年道標が象徴的。 古町は因幡播磨道から津山に分岐する地点です。<br /><br /></font></p>
<p><font size="3"><津山道><br />
 「大原町史(H13)」には、旧・津山道に関する自然石道標3基が示されています。 大原側から見たとき、津山に向かいながら梶並を意識していることが判ります。</font></p>
<p> <br /><font size="3"><上町と古町><br />
 上町と古町の主導権争いみたいなところも精査する必要があります。 大原町(吉野郡)の中枢:郡役所/郵便取扱所/警察支所がM17年からの数年間で、上町から古町に移設されています。<br />
 小学校は、風化小学校を嚆矢に、次々に開設され、本校/支校と変遷がありますが、下町に収まった(それを受けて中学校も置かれた)ようです。<br /><br /></font></p>
<p><font size="3"><明石領/生野領><br />
 藩籍奉還の最初の数か月、吉野郡には明石領(縣)44ヶ村/勝北・吉野郡に生野領(縣)54ヶ村があり、北条縣に移管されました。</font></p>
<p><font size="3"> 生野藩分は平福に出張役所があったが、明石藩分は下町(村)に旧・陣屋があり、役所が置かれていました。</font></p>
<p> </p>
<p><font size="3"><石井村/旧中山村の帰属替><br />
 深層心理・歴史的経緯については詳しく調べる必要があるが、M29.3.29の法律第56号で、石井村は一部(西町)を残して佐用郡・石井村として/讃甘村・中山は佐用郡・江川村に吸収される形で、移管されました。<br />
 なお、平成の合併で、大・佐用町ができたとき、旧佐用町・中山/上月町・中山が混乱するので、前者を東中山/後者を南中山と改称したようです。</font></p>
<p><font size="3"><br /><strong><font color="#0000FF">ここで、熊ぷーのスケベな悪夢;-<br /></font></strong></font><font color="#0000FF" size="3"><strong> 明治5・6年から明治29年に至る隙間=タイムラグの中で、旧中山村の中に 「里程標」
が建てられていれば凄いなぁ!!!!!<br /></strong></font><font size="3"><strong><font color="#0000FF"> さて、そのとき、明治一桁の「距津山元標」か? 20年代の「距岡山元標」か?  「距播磨(姫路)元標」
なら怖いなぁ!!!!<br /></font></strong><br /><br /><br /></font></p>

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