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「金毘羅往来」の変遷/異説 - (2008/08/08 (金) 00:02:28) の編集履歴(バックアップ)


「金毘羅往来」 考 変遷と異説
             08/08/07 創設
  このWEB内の参考項目: 原初の国道

<「金毘羅往来」 距離さまざま>  
  「道」調査書に依ると、往来の総距離は、
    正保四年(1647) 八里三十一町二十間
    文化十年(1813) 九里二十町
とあり、一里十一町余、つまり5K200m 程度、違うことになる。

  一方で、松島の里程標・三里(明治十五年)の示す下津井までの総距離は、十一里一町四十四間余りとなり、格段に長い。この場合は、平田(四里)を経て、羽島(五里・未現認)に迂回するルートではあるが、差は大きい。

  更に他方で、明治30年陸地測量部地形図(二万分の一)では、いわゆる庭瀬・鴨方往来の大供・石門別神社門先を通る部分では 『四国街道』 の記載が見られる。また、同じシリーズの吉備津南方には 『金毘羅道』 の記載がある<再調査中>。

 これらのことから、「金毘羅往来」 のルートの変遷/異説を距離と径路の再検討から考察することとしたい。

 

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