「明治初頭の大原地区」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

明治初頭の大原地区 - (2009/09/16 (水) 23:06:50) の編集履歴(バックアップ)


版籍奉還直後の大原地区状況  09/09/15 創始

===緊急書き込み==09/09/16===
  お蔵入りさせた 「ハンティングメモ・旧記事」 の中に、以下の記載発見;-

  なお  なお、『津山元標』 の刻字の中に 「距 播磨国境七里十四町四十四間二尺」 とあった由(『津山誌』からの孫引き)。
 出雲街道の土居が七里相当なので、上記数字の 「国境」 は万能乢か?

   一方、道調査委員会の 『津山往来』 最終段に依ると、『津山誌(上)』/『北条県誌』の明治5~8年の項目に関連記載がある由で、一読の価値あり。
  文献の所在に関しては;-
 『津山誌』(明治八年版の大正二年復刻?)が津山市岡山市に存在。  <県図になし|岡大図になし|県文資館にあり?>
 『北条県誌』は県図(と県文資館?)にのみある。

==== 以上

 現在の大原地区も、「『智頭急行鉄道』 の立ち寄り地点」といわれる側面がありますが、幕末-明治初年も 因幡・播磨 間の宿駅の一つという地位を経験しています。

<因幡・播磨道>
 古町・更生橋(旧土橋)東袂の元禄二年道標が象徴的。 古町は因幡播磨道から津山に分岐する地点です。

<江戸期・津山道>
 津山道を 「大原町史(H13)・地区誌編」 に拠って、経由地で書けば;-
古町⇒下町⇒◎笹岡⇒小原田⇒野方⇒川上・美土呂⇒◎桂坪⇒(◎滝)⇒●田井
となります。

 「上記出典」には、◎印の集落に、旧・津山道上で、梶並を示す自然石道標3基があり、●印には地域道標があると記されています。 ◎印をみると、大原側から見たとき、大勢は津山に向かいながら梶並を意識していることが判ります。 具体的な所在地・刻字は別項(地域別:美作地区)で示します。
 
<上町と古町>
 上町と古町の主導権争いみたいなところも精査する必要があります。 大原町(吉野郡)の中枢:郡役所/郵便取扱所/警察支所がM17年からの数年間で、上町から古町に移設されています。
 小学校は、風化小学校を嚆矢に、次々に開設され、本校/支校と変遷がありますが、下町に収まった(それを受けて中学校も置かれた)ようです。

<明石領/生野領>
 藩籍奉還の最初の数か月、吉野郡には明石領(縣)44ヶ村/勝北・吉野郡に生野領(縣)54ヶ村があり、北条縣に移管されました。

 生野藩分は平福に出張役所があったが、明石藩分は下町(村)に旧・陣屋があり、役所が置かれていました。

 

<石井村/旧中山村の帰属替>
 深層心理・歴史的経緯については詳しく調べる必要があるが、M29.3.29の法律第56号で、石井村は一部(西町)を残して佐用郡・石井村として/讃甘村・中山は佐用郡・江川村に吸収される形で、移管されました。
 なお、平成の合併で、大・佐用町ができたとき、旧佐用町・中山/上月町・中山が混乱するので、前者を東中山/後者を南中山と改称したようです。


ここで、熊ぷー流儀のスケベな悪夢;-
 明治5・6年から明治29年に至る隙間=タイムラグの中で、旧中山村の中に 「里程標」 が建てられていれば凄いなぁ!!!!!
 さて、そのとき、明治一桁の「距津山元標」か? M10年代末の「距岡山元標」か?  「距播磨(姫路)元標」 なら怖いなぁ!!!!


<附>
 坂根宿について、
坂根宿は、古町(大原宿)から三里の 「間宿」 です。 播州から因州に向かうとき、中山村から宮本・今岡に越える釜坂付近が難所で、坂根宿までは緩やかです。 坂根で、志度坂越えの心身支度を整えたものでした。

 釜坂の難所は、
生坂/明石藩に年貢を出すのが大変で、割増金の要請騒動もあったそうです。

目安箱バナー