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平成18年8月22日~25日 松下村塾へ

平成18年8月22日 経由地福岡にて


松下村塾は、山口県萩市にあります。最寄の駅は山陰本線東萩駅。

中国地方は、出雲や広島に一度ずつ行ったことがあるだけで、山口は今回が初めてです。

最初は2泊3日の予定でしたが、できる限り見学できる時間を長くとりたいと思い、日程を調整して3泊することになりました。

旅のルートは福岡経由に決定しました。仙台から直通便が多いことと、宿泊施設や観光名所も多いという理由です。

さて、今回の旅のお供は山岡荘八先生の吉田松陰(1)と吉田松陰(2)です。

山岡先生の歴史文学は、非常に思想性が高いということを以前から感じていました。実はこの2冊は以前にも何度か読んでいるのですが、今回はその物語の舞台を直接歩きながら、さらに想像を掻き立てる読書となりました。

まずは学問の神様、菅原道真公が祀られる太宰府天満宮へ。

福岡市内には、新しい地下鉄線が開通していたので、古い地図しか持参していない自分はかなり戸惑いましたが、太宰府へ行く西鉄大牟田線に乗ってしまえば、あとは楽勝です。

太宰府天満宮は2回目の参拝。

最初に行ったのは大学時代、合唱コンクールの全国大会でした。

このときは友人と車で移動しましたが、今回は初めて電車を利用。

情緒ある表参道を通ったのも初めてのことです。

太宰府天満宮は、失意のうちに亡くなった菅原道真公の崇りを鎮めるために建てられたと言われていますが、私はそのような「怨霊史観」を受け入れることはできません。


ながれゆく我は水屑となりはてぬ
君しがらみとなりてとどめよ


宇多院を慕う心は、大宰府へ旅立つ時も到着して暮らしてからも、少しも変わるものではありませんでした。

いろいろな店が並んでおり、のどの渇きが私をお店に誘惑するのですが、まずは神様へのご挨拶。

それから合格祈願の御神札を2体、お守りを1つ、そして境内の梅の枝でつくられた筆を1本かいました。

御神札は受験を控えた教え子のいる学校2校に、お守りは小学校教員を目指す音楽教室の門下生の方のために、筆はある考えがあって買ったものです。

無事に参拝を終えたので、改めて昼食にしました。

冷たいそばと、デザートに梅ケ枝餅を食べました。

これは、道真公の無聊をなぐさめたという伝説もある、太宰府では最も有名なお菓子です。

ほとんどの店で自家製の味を競っており、今回入った蕎麦屋の梅が枝餅も大変おいしいものでした。

次は西鉄福岡駅から櫛田神社まで歩いて行きました。

こちらは博多総鎮守として崇敬を集めており、博多祇園祭の山笠の通り道にもなっています。

ホテルのチェックイン時間までまだ間があるので、重い荷物を抱えながら市内を歩きます。

次に向かったのは筑前国一の宮、住吉神社です。

こちらは神道の祓詞にある「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」でイザナギの大神が禊をされた時に生まれた三柱の海の神様を祀っています。

昔から海と縁の深い土地であったことがわかります。

全国2千社をこえる住吉神社の中で「本社」ともいえる神社です。

そろそろチェックインの時間が来たのでホテルへ向かうと、夕立がやって来ました。

一瞬だけ大雨が降って、一瞬でやんでしまいました。もちろん傘も準備していたので、濡れることはありませんでした。

ホテルは地下鉄祇園駅から徒歩5分。小ぢんまりとしたビジネスホテルです。

翌日からの萩めぐりを控えているので、読書などをしてゆっくり過ごしました。


萩への旅行を決めてから毎日少しずつ、『講孟箚記』を読み続けて来ましたが、出発の直前になって一応読了するに至りました。

松陰先生といえば、松下村塾で明治維新の志士たちを育てたことで有名ですが、弟子たちから尊敬を集めたのは、何事にも真正面からぶつかろうとする誠の心と、理想を頭だけで追うのではない実際の行動力、そして弟子たちを思う愛情だったのではないかと思います。

松陰先生は萩藩士である杉家に生まれたものの、跡継ぎのいない吉田家(叔父)に5歳で養子に出されました。先生は6歳の時にこの叔父が亡くし、後見人の玉木文之進による大変厳しい教育を受けることになりました。

例えば松陰先生が蚊に刺されて読書中に痒い所を掻くと、容赦なく拳骨が飛んで来るというふうに。

その理由たるや、学問とは将来国に恩を返すための「公」的な務めであるのにもかかわらず、痒いという「私」的な感覚に負けるとはいかなることぞと、いうことです。

ちなみに、松下村塾は松陰先生が創設したと思っている人が多いようですが、それは間違いです。

この玉木文之進という方こそが、松下村塾の創設者です。

明治に入り、松陰先生の死後の村塾は文之進の教えによって継続されていましたが、弟子たちが「前原の乱」に関わったことで、文之進は自ら切腹して責任をとったとのことです。

平成18年8月23日 松陰神社へ


松陰先生は机の上での学問だけでなく、実際に日本の国中を歩き回ってその見識を高める努力を惜しみませんでした。

九州への遊学、2回の江戸遊学、そして手形を得ることより旅を共にする友人との約束を重んじて脱藩となった東北遊学など。

それによって、幕府による封建体制では遠くない未来に西洋列強によって侵略されてしまうだろうことを察するのでした。

黒船が浦賀に来航したとの情報をえると、早速実地へ赴いて、艦の様子や日本側の防備の状況などをつぶさに調べます。

日本の現状では、西洋の軍事技術に到底かなわないと知ると、黒船2回目の来航時にはついに小舟に乗って黒船に乗船を試みるのでした。

その真意は、一時日本を離れることになっても、西洋から沢山の技術や兵法などを学び、必ず日本に帰ってそれらを国防のために役立てようというものでした。

結局ペリーはそれを認めず、松陰先生と、一緒に乗船した金子重之助は、潔く自首するのでした。

幕府は二人に自宅での蟄居という処分を下しました。

しかし、幕府から睨まれることを恐れた萩藩は、犯罪人として二人を獄に押し込めました。

松陰先生は武士の入る野山獄、金子重之助は庶民の入る岩倉獄です。

体調を崩していた金子は、岩倉獄の過酷な生活の中でついに命を落としてしまいます。

この野山獄時代に書かれたのが『講孟箚記』です。

正確には、野山獄時代からその後の杉家幽囚時代にかけてかかれました。

講談社学術文庫版は、野山獄時代を上巻、幽囚時代を下巻として編集しています。

野山獄には、松陰先生の他11人の囚人が収容されていました。

当時の獄というものは、家族から厄介払いされた者が入るようなところでもあったので、いつ出獄できるかなどの希望もなく、誰もが自分の将来というものを考えずに悲観的になっていました。

松陰先生は、同じ囚人である彼らを未来あるひとりひとりの人間として扱い、『孟子』の講義を始めたのでした。

俳句や書道に詳しい囚人も先生となり、この野山獄はいつしかひとつの学校になったのです。

囚人ばかりか牢役人の福川犀之助までもが、松陰先生の『孟子』の講義に心服しました。

やがて、萩藩内にも処置が重過ぎるという意見が出て、松陰先生は自宅への幽囚という処分に減刑されました。

この時点で『孟子』の講義は終っておらず、それを惜しんだ家族は幽囚室において講義が継続されることを望んだのでした。

その内容は評判がよく、人が人を呼び、ついに松下村塾へと発展するのでした。

『講孟箚記』には、獄に入れられて猶高い精神性を求めようとする松陰先生の志、そして古典の名著だからといって阿らず、常に真理に到ろうという智の姿勢が読み取れます。

かなり疲れてはいましたが、翌朝はいよいよ念願の松下村塾へ向けて出発かと思うと、心が弾んでなかなか眠れませんでした。

全国を遊学行脚して有名な学者を訪ね歩いた松陰先生も、時に同じような心境になったことでしょう。

萩までは電車での旅となります。

まず博多から鹿児島本線に乗り、小倉まで行きます。新幹線には乗りません。

運賃の節約という意味より、多少不便があった方が旅は楽しいからです。

小倉から日豊本線で下関まで。

下関からいよいよ山陰本線に乗り、小串と長門市で2回乗り換えをして、ようやく東萩へ到着となります。

困ったのは、小串駅での乗り換え時間が40分もあるということです。

駅には食堂どころか売店もありません。クーラーの効いた待合室など、あろうはずもありません。

駅員さんにお願いして、一度改札を出してもらい、近くの大衆食堂でゆっくり素麺を食べました。駅員さんの親切に感謝。

車両の数は、乗り換えるごとにだんだん少なくなり、最後は1両電車となってしまいました。

それでも、車窓から見える日本海は驚くほどきれいでした。

約4時間かけて東萩に到着。

ホテルのチェックイン時間まで、近くの喫茶店などで時間をつぶすという選択もありました。

しかし、何のためにここまで来たのかをもう一度よく考え、まずは歩いて松下村塾へ行くことに決めました。

まったく初めての土地で、うろ覚えの地図だけを頼りに松下村塾の方向へ向かいます。

地図上では、駅からそれほど距離があるようには思えませんでしたが、実際に歩いてみると、気温が高いせいもあるのか、かなり長い距離に感じられました。

途中で出会った方に道を尋ねたりしながら、ようやく夢にまで見た松下村塾に到着しました。

まずは松陰神社で松陰先生の御霊にご挨拶。

手を合わせながら、様々な想いが頭をめぐりました。

しかし、松陰先生の声はまだ聞こえては来ません。

境内には、門下生の方々が祭られる松門神社もあります。

こちらは松陰神社の旧社殿を再利用したもので、高杉晋作や久坂玄瑞をはじめとする42柱の門下生の御霊が合祀されています。

そして松下村塾。

東京世田谷の松陰神社で複製を見たことがありますが、こちらはまぎれもない本物。

ここで幼い松陰先生が学び、松陰先生から門下生たちが学んだのです。


かくすればかくなるものと知りながら
已むに已まれぬ大和魂


松陰先生の唱えた尊皇攘夷とは、ただめくらのように天皇を崇拝し、外国人を排撃する思想ではありません。

日本の国民にとって宗家であり、一本一本の枝・一枚一枚の葉の根源となる太い幹のような存在である天皇家の「徳」による統治を、国民は誠の心をもって畏れながら尊び崇める、それが大和魂です。

逆に、力で征服しようという覇道的権力者やそれに阿る者は「夷(えびす)」と呼びます。夷を攘(はら)うということは、時に文化の力で、時に武の力で、日本の国を守り「夷」の国に王道を敷く手助けをすることです。

ですから「夷」は必ずしも外国人とは限りません。

江戸幕府にも皇室の御尊厳を畏れない「夷」はおりましたし、日本の国のあり方や皇室を心から尊敬して手本とする外国人も、歴史上にはたくさん存在します。

明治維新とは、外国の「夷」の脅威を退けつつ日本人の大和魂を目覚めさせる、大事業であったと言えるのです。

ただ、門下生が維新の元勲として統治機関の中枢にいた頃はよかったのですが、彼らが一人また一人と冥界へ旅立つと、尊皇攘夷の本来のあり方が見失われてしまったのは非常に残念です。

現在は、幕末以上の国難と言っても過言ではありません。

日本国民が総「夷」化しているのですから。

国を救うための本当の学問に取り組んでいる人は、いったい今の日本に何人いるのでしょうか。

「夷」が支配する国で一番気の毒なのは国民です。

松陰先生は自らの命が「かくなるものと」知りつつも、敢えて国禁を犯し、また幕府要人の「夷」を攘わんことを企てました。

大和魂を再び日本人の心に甦らせることだけが、日本を亡国の危機から救う唯一の方法であると、松陰先生は我々に檄を飛ばしておられるように感じます。

平成18年8月24日① 松陰先生の足跡を追って


今回宿泊したホテルでは、宿泊者に対し自転車の無料貸し出しサービスを行っていました。

萩市内を回るには、もちろん車があれば最も便利なのでしょうが、やはり多少不便な方が旅は楽しい、しかし全て徒歩となると一日で回りきれないので、自転車に乗って出発しました。

まず再び松陰神社へ参拝。一日の旅の無事を祈ります。

それから未知の領域へ。

神社の裏手の細い道をどこまでも自転車で行くと、松陰先生の師匠であった玉木文之進の旧宅がありました。

坂道をぐいぐい上って行くと、松陰先生の生誕地と墓所に到着しました。

墓所には吉田家ばかりでなく、松陰先生をその死後まで慕い続けようとした弟子たちの墓もあります。

誰が供えたのでしょうか、まだ線香の煙がくゆっておりました。

私も線香に火をつけ、手を合わせました。

自転車で坂道を一気にすべり下り、次に向かったのは桂太郎旧宅。

陸軍大臣、三度の総理大臣を経験した桂は、笑顔をたやさず相手の肩を叩いて話す様子から「ニコポン首相」と呼ばれていたそうです。

不凍港を求めて南下政策をとるロシアに対し、英国との同盟関係のもとで日本を救った偉大な総理大臣でありました。


次は萩駅付近を通り、涙松に向かいます。

松下村塾の門下生たちが、江戸へ護送される松陰先生と最後の別れを惜しんだ様子が、目に浮かぶようでした。


帰らじと思ひさだめし旅なれば
ひとしほぬるる涙松かな


再び市街地に戻り、藩校明倫館などの名所に立ち寄りながら萩城に向かいます。

平成18年8月24日② 萩城下町散策


そして萩城へ。

あまりの暑さに、みやげ物屋へ一時避難。

差し出された一杯の麦茶がとてもおいしいものに思えました。

それから城下町へ。

高杉晋作生誕地が閉館していたのは残念でした。

もっと勉強してからまた来なさいということでしょうか。

そして、野山獄跡と岩倉獄跡へ。

普通の市街地、民家に囲まれてあることに少々驚きました。

帰りの電車までまだ時間があったので、松陰神社に3度目の、今回の旅最後の参拝をしました。


親思ふ心に勝る親心
今日の音づれ何と聞くらん


萩での滞在は、丸一日という短い間でしたが、今回は思い残すことはありません。

上に書いたほかにも、吉田稔麿・山縣有朋・久坂玄瑞・前原一誠・品川弥二郎たちの生家を一日でめぐることができました。

明治維新の立役者たちが、全てこのせまい町に生まれ育ったことを考えると、やはり彼らを育てた松陰先生の偉大さを改めて思い知らされるのでした。

平成18年8月25日


今回の旅の最終日です。仙台行きの飛行機の時間まで、福岡市内をのんびり探索しました。

萩に負けないくらいの晴天。

気温は朝から30度を超えています。

日焼けした肌に、さらに追い討ちをかけるように紫外線が降り注ぐ…

まず、福岡城の外堀を利用してつくられた大濠公園へ行きました。

水場の空気というのは涼しいものですね。

強い日差しも多少和らぐ気がしました。

道路を渡り、福岡県護国神社に参拝しました。

もともと福岡連隊の錬兵場であった場所に鎮座しています。

福岡城を築いたのは、豊臣秀吉の家臣であった黒田如水の子、黒田長政公。

黒田家は儒学者貝原益軒との縁も深いのですが、今回は予習不足のため、貝原益軒の事跡巡りは次回の宿題とします。

それから福岡城のあった舞鶴公園を散策しました。

また、7世紀後半に立てられた迎賓館、鴻臚館の遺跡も見学しました。


帰りの飛行機まではまだ時間があります。

どこへ行こうか迷ったのですが、福岡の歴史について知りたいという思いから、博物館へ向かいました。

地下鉄の駅をおりて、かなりの距離を歩きました。

歩くことが、だんだん快感になって来ました。

企画展として吉村作治教授のエジプト展が開かれており、こちらは大勢のお客さんを集めていましたが、いつか仙台にも来ることがあると思い、今回はパス。

常設展には古代から近代にかけて様々な展示品が集められていました。

歴史の教科書にも載っている「金印」の実物を初めて見ました。

思ったより小さいものだったのですね。

また、黒田長政公の水牛の角を模した兜は、相当の迫力を持っていました。

それから、ここを最後と決めた筥崎八幡宮へ。

土御門天皇の御宸筆である「敵国降伏」の額を見て、松陰先生の「攘夷」を連想しました。

やはり日本の志操というものは、古代から現代まで一本に貫かれているのだと確信した次第です。

なぜ敵国「撃滅」や「滅亡」ではないのか。

それは、敵となった者を討ち滅ぼすことが日本民族の目的とする所ではなく、ただ敵国に戦意を喪失させることを目的とするからです。

戦意を喪失させるには、敵よりも圧倒的に高い所にいなければなりません。

武力で勝っていることは、必ずしも敵に戦意を失わせることにはならず、敵が本心から頭を下げるのは、精神的な高さに圧倒されてこそ実現することです。

敵を武力で倒す以前に己の精神に目を向け、厳しい態度で心を鍛えた民族であったからこそ、二度の神風が吹いたのではないでしょうか。

また、先の大戦で神風が吹かなかった理由は、「敵国降伏」と「鬼畜米英」というスローガンの心の在り処の違いにあるのではないでしょうか。

帰りの飛行機では、もう一冊の旅のお供であった吉田松陰留魂録を読み終えました。


七たびも生きかへりつつ夷をぞ
攘はんこころ吾忘れめや


松陰先生の思想は、細々とではありますが、今の日本にも確実に受け継がれています。

世界を見渡せば、独裁者による恐怖政治、平和の名の下に行われる侵略戦争、一部の特権階級による圧政、貧困、乱開発、暴動、凶悪兵器拡散など、人類の幸福とはかけ離れた現実があります。

それらを克服するための鍵は、日本の歴史の中に多く秘められています。

その鍵を開いた一つの歴史的大事件こそが明治維新でした。心ある日本人は、いま再びその鍵を開ける努力を惜しんではならないと思います。

旅先でお世話になった方々や親切にして下さった方々に、心から感謝いたします。

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最終更新:2008年12月14日 14:31
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