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平成19年6月30日~7月2日 神戸へ

平成19年6月30日


高校生時代に修学旅行で訪れて以来、しばらく振りで神戸へ行くことにしました。

阪神淡路大震災が起こったのは、修学旅行を終え、卒業目の前の頃でした。

あれから10年以上が経ち、地域の人々の努力によって街は完全に復興したことでしょう。

この日は、芸能人の結婚式が行われたことで全国的に有名になった生田神社を訪れました。

三宮駅から歩いてすぐ、繁華街に囲まれた所に鎮座する神社は、周囲の風景とはうらはらに、非常に長い歴史を持っています。

御創建は神功皇后の三韓征伐の時代。

御祭神の稚日女尊は、天照皇大神の御幼名なのだそうです。

また、お宮の背にうっそうと茂る生田森は、平安時代から多くの歌に詠まれ、枕草子にも記述され、そして源平合戦の一舞台ともなりました。

神戸(かんべ)とは本来、神社にお供えする御神米・御神酒などを作る荘園の意味で、朝廷からその土地を賜って神社が御創建されたことから、この土地が神戸と呼ばれることになったそうです。

平成19年7月1日 湊川神社


今回の旅の一番の目的である湊川神社へ参拝に行きました。

御創建は明治に入ってからですが、この場所は南朝の忠臣、楠木正成公のご殉節の地として、人々から大切にされて来たという歴史があります。

楠木正成公こそ、本朝の悠久の歴史において“智・仁・勇”ともに最も優れた武将と言えます。

大軍擁する鎌倉幕府から攻められ、城を何重にも包囲されても全く動じない勇。

逆臣足利高氏を京から追い出した智。

そして後醍醐天皇の命に諄々と従い、湊川の戦いにおいて弟正季卿と刺し違えて果て、後の国民に正道を示した仁。

この地は太閤検地の際には免租地とされたそうです。

その後水戸黄門として知られる光圀公が建立した「嗚呼忠臣楠氏之墓」の墓碑も、境内に現存しています。

ちょうどこの日は一日。

月次祭が行われておりました。

その後御墓所で手を合せ、宝物殿を見学しました。

楠氏兄弟はなぜ湊川で相果てたのか。

ほとんどの人は、足利氏の大軍を前に勝ち目がないことから、潔く死を選んだと言います。

しかし、戦を知り尽くした楠公なら、勝ちはせずとも負けもしない戦法を考えることは充分可能であったのではないでしょうか。

その死には、戦の勝ち負けを超えた、はるかに深い意味が込められていると思えてなりません。

あるいはその死は、詔かしこみては己を無にして従うという日本人の道の実践を後の世に伝える目的であったのか。

または建武中興の理想が崩れ去ることを防ぐことができない後醍醐天皇に対する諌死であったのか。

大楠公の最期の心を解き明かすことは、全ての日本人に課せられた重い宿題なのだと思います。

平成19年7月2日


宿泊させてもらった知人宅から程近いところに、観音寺というお寺があります。

ここには浅野内匠頭と四十七士が眠る墓所があります。

当初の旅の目的には含まれていませんでしたが、偶然近くを通った際に発見し、手を合せてから旅を終えることにしました。

討ち入りの日には毎年義士祭が盛大に行われるそうですが、この日は参詣者もなくひっそりとしていました。

天皇の命により死地に赴いた大楠公と、飽くまでお家のために禁を破って仇を討った四十七士。

似ているような、全く裏表の関係のような。

これをきっかけに、今までとは違う視点で、赤穂義士の思想と行動を勉強し直したいと思いました。

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最終更新:2008年12月14日 14:52
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