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平成20年3月1日~3日 岡山へ

平成20年3月1日 備前・備中


岡山へ足を踏み入れるのは、今回が初めてです。

岡山といえば吉備の国。吉備の国といえば、なんと言っても桃太郎。

しかし今回の旅の主目的は、桃太郎伝説を追うことではありません。

日本の国民が感謝を忘れてはいけない歴史上の人物が、この地からは二人も生まれているのです。

その偉人に所縁の場所を訪れることが第一の目的なのです。

まず一人目は和気清麻呂公。

清麻呂公と妹の広虫姫を祀る和気神社から、今回の旅はスタートしました。

和気清麻呂公は、太政大臣にまで昇った僧道教が皇位を簒奪しようと目論んだことに対し、宇佐八幡宮に詣でて

「我が国家、開闢以来君臣の分定まれり。臣を以て君と為すこと、未だこれあらざるなり。天津日嗣は必ず皇胤を立つ。無道の人は、宜く迅かに掃蕩すべし」

との託宣を称徳天皇に奏上しました。

怒った道教は清麻呂公の官を解き、穢麻呂と改名させて大隅国へ流し、道中で殺害しようと試みました。

しかし猪の大群が現れ、清麻呂公の御輿の前後を守護し、無事に送り届けたのでした。

猪は和気神社の守り神とされ、狛犬のかわりに猪が安置されています。

妹の広虫姫は、我が国初の孤児院を開設した慈しみ深い尼僧で、道教事件では兄と同じように備後国へ流されました。

支援者であった孝謙天皇が崩御すると、道教はついに失脚し、清麻呂公も元の官職に復し、広虫姫も都へ帰ることができました。

清麻呂公はその後、桓武天皇の信頼を得て、長岡京や平安京の造営に多大な貢献をしました。

「我独り天地に慙ず」とは、世俗の評価に左右されることなく、天地の誠の心で正しい道を歩む心がけを意味する言葉で、石碑の銘は清麻呂公の御真筆と伝えられています。

もし清麻呂公がいなければ、また「天地に慙」じず「利権に慙ず」人であったら、道教が皇位についたことで皇統は終焉を迎え、日本は中国の一部に吸収されていたことでしょう。

独立日本が今あるのは、ひとえに清麻呂公の功績と言っても過言ではありません。

次にしばらく車を走らせ、日本三大稲荷のひとつに数えられる高松最上稲荷に参拝。

正式名称は最上稲荷教総本山妙教寺で、極めて珍しい神仏混合の寺院です。

あまりの大きさに、どの位置から撮っても写真に収まりきらない社殿でした。

ここは孝謙天皇の病気平癒の祈願が報恩大師によって行われた場所で、その病気は僧道教との密接な関係が始まったきっかけでもあります。

岡山市内に入り、岡山縣護國神社に参拝しました。

境内にはたくさんの石碑が建てられています。

平成20年3月2日① 岡山城


この日はまず岡山城へ。

豊臣五大老の一人宇喜多秀家が築いた名城で、その外観から烏城(うじょう)と呼ばれています。

秀家は関ヶ原の戦いで西方につき、東軍の猛将福島正則と激戦を繰り広げました。

宇喜多家は改易になり、その後小早川・池田と引き継がれました。

明治の廃城令によって、建物の取り壊しや堀の埋め立てが行われましたが、本丸の天守は残され、昭和6年に当時の国宝に指定されました。

しかし、昭和20年の空襲によって、その天守も焼失。

戦後、鉄筋コンクリートの建築で再建されたのが現在の岡山城です。

寛永年間に建てられた月見櫓は、消失を免れた貴重な遺構で、国の重要文化財に指定されています。

川を隔てた所には、岡山藩主池田綱政によって造られた庭園「岡山後楽園」があります。

平成20年3月2日② 吉備の中山


備前国一之宮の吉備津彦神社と備中国一之宮の吉備津神社は、全国で最も接近した二社の一之宮です。

まずは吉備津彦神社へ。

ここの神池には、古代の祭祀場であったと考えられる環状列石があり、有史以前から重要な場所であったことは間違いありません。

拝殿・祭文殿・本殿と続く建築は、熱田神宮の様式に習ったものです。

樹齢約1000年と伝えられる御神木の平安杉は、拝殿などを焼失させた昭和5年の大火にも耐えて生きています。

吉備津神社へは、車ですぐでした。

吉備津神社は非常に珍しい建築様式で、入母屋造りを二つ連ねた比翼入母屋造りと呼ばれる様式です。

この特異な建築を見ることを楽しみにしていたのですが、残念ながら修復事業のため、社殿全体が工事用シートに覆われてしまっていました。

拝殿正面から参拝。漢学者三島毅による「平賊安民」の扁額だけは見ることができました。

社号標は、5・15事件で凶弾に倒れた犬養毅の揮毫。

犬養家は、吉備津彦命の吉備平定に従った犬飼建命に始まる家系で、建命は犬を飼うのが役目であったそうです。

授与品の吉備津こまいぬという土人形は、吉備津彦命が戦いのおりに連れていた犬がよく手柄を立てたことに由来するものです。

犬養毅の敬神の心は、ここに刻まれている「随身後裔犬養毅敬題」の文字からも読み取ることができます。

平成20年3月2日③ 美作


今回の旅も終りに近づいて来ました。

岡山でも内陸部にある美作に来ました。

目的地は作楽神社。さくら神社と読みます。

駐車場で車から降りると、子猫が何匹かいるのを発見。

人に慣れているらしく、体を摺り寄せてきます。

どうやら隣の民家で飼っている猫のようです。

さて、気を取り直して作楽神社に参拝。

御祭神は後醍醐天皇と児島高徳公。

境内には、児島高徳公が額づいている銅像があります。

後醍醐天皇が北条政権によって囚われの身となり、隠岐に流されようとする道の途中で、何度も天皇の奪還を試みた児島高徳公の誠忠は、全国の勤皇の士に伝播することになります。

君と臣が逆転することは、太陽と月が逆転することと同じく天の道に反することであり、天の道を誠にすることこそが人の道なのです。

奪還作戦はことごとく失敗に終わりましたが、帝がこの院の庄地で宿されていることを知った児島高徳公は、東大門そばの桜の木に


天勾践を空しうする莫れ
時范蠡無きにしも非ず


という十文字の漢詩を刻み、必ず非道を打ち倒す志を残したのでした。

警固の武士たちにはこの漢詩の意味が理解できず、後醍醐天皇お一人が、ここにも忠義の士がいたことを心強く思召したということです。

現在、その桜は残っていませんが、桜のあった場所には記念碑が建てられています。

児島高徳公は美作の誇りとして、現在まで顕彰されることになりました。

戦艦大和の建造者である庭田尚三海軍技術将校も熱烈な崇敬者の一人で、彼を会長とする忠桜会によって、昭和46年に忠義桜十字詞碑塔が建てられました。

最後に美作国一之宮の中山神社に参拝しました。

御祭神の鏡作神は、三種の神器にひとつ八咫鏡をお作りになった神です。

平成16年の台風によって、境内の杜は根こそぎ倒されてしまい、荒れた印象だったのが残念です。

これから歴史を経ることで、またもとの鎮守の森は復活するのでしょう。

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最終更新:2008年12月14日 15:48
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