平成20年5月5日 福島へ

平成20年5月5日① 白河


せっかくの連休なので、家族でドライブに行くことになりました。

秋田では遠い、山形は行ったばかり、岩手は「奥州藤原祭り」で混んでいるだろうということで、福島に決定。

まだ行ったことのない白河の関跡の見学と、奥州一之宮を名乗る都々古別三社への参拝に行くことになりました。
初めて訪れる石川町は、高校野球の学法石川くらいしか有名なものはありませんが、父に聞いた話だと御先祖様にゆかりがある土地ということなので、自分のルーツが何か手掛かりが摑めるかも知れないという期待が湧いて来ます。

東北自動車道を白河インターで下り、まず白河関跡に向かいました。

予想はしていましたが、やはり神社がありました。

白河神社は、成務天皇5年、白河国造・鹽伊乃自直命を御祭神として御創建され、宝亀2年に、天太玉命、中筒男命、衣通姫命が合祀された神社で、旧社名は二所関明神。

鳥居にかかっている注連縄が垂れ下がっていて、管理されていないのかと思いがっかりしましたが、調べてみるともともとそういう様式の注連縄のようです。

白河の関(しらかわのせき)は、念珠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)と共に、奥州三関のひとつに数えられます。

古代から、蝦夷の南下や通行人・物資などの往来を取り締まる機能を果たしていましたが、平安中期には廃関となり、江戸時代に白河藩主松平定信公が文献による考証を行った結果、白河神社の鎮座地が関跡であると確認されたのでした。

源義経公は兄頼朝公の挙兵を知り、ここ白河関を通って馳せ参じました。

戦勝祈願に神社を訪れた際に弓矢を立て掛けた「矢立の松」、源氏の旗を立て掛けた「旗立の桜」が残されています。

また、鎌倉初期に従二位藤原家隆が手植し奉納したと伝えられる、現在樹齢800年の「従二位の杉」を見上げると、八方に手を伸ばすように枝を広げている姿を見ることができます。

車ですぐのところに、義経公に忠義を尽くして討ち死にした佐藤兄弟にまつわる史跡があります。

佐藤一族は信夫の庄司で、代々白河関を守ってきた一族です。

治承4年、平泉から鎌倉に馳せる義経公に対し、佐藤基治は子の継信・忠信兄弟を従わせ、父子の別れにあたって「汝ら忠義の士たらば、この桜の杖が生づくであろう」と、携えていた桜木の杖をこの地に突き立てました。

この後、戦いに臨んで兄弟は勇戦しましたが、継信公は屋島の合戦で、忠信公も京都で主君の身代わりとなって戦死しました。

桜はその忠節を感じて根付き、見事に花を咲かせたということです。

佐藤兄弟は福島が誇る歴史上の人物で、「乙和の椿」という創作オペラの題材にもなり、平成7年のふくしま国体でも上演されました。

次に南湖神社へ。

御祭神は、白河関の場所を特定した陸奥白河藩第3代藩主松平定信公(楽翁公)です。

天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信公は、祖父吉宗公の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指しました。

また、江戸湾などの海防強化を提案しますが、将軍徳川家斉公と対立し、海防のために出張していた寛政5年に辞職を命じられました。

寛政の改革の折に提唱していた江戸湾警備は、失脚後の文化7年に実施されることになり、最初の駐屯は白河藩に命じられました。

しかし皮肉なことに、このことが白河藩の財政を圧迫させる原因となってしまうのでした。

定信公は元和元年、人工の湖を造成して庶民が身分の差を越え憩える場所として開放しました。

これが、南湖公園が日本初の公園と呼ばれる所以です。

南湖の名は、李白の詩句「南湖秋水夜無煙」から、また「白河小峰城」の南に位置していたことから名付けられたといわれています。

彼は「四民(士農工商)共楽」の思想で民政にも力を入れたことから、名君として慕われていました。

楽翁という諡号の理由は分かりませんが、市民共楽の思想からつけられたのではないかと思います。

公園内には「共楽亭」という茶室もあります。

平成20年5月5日② 棚倉


次に向かったのは棚倉町の八槻。

陸奥国一之宮の都々古別神社へ参拝に行きました。

ツツコワケ神社と読み、農耕の神様である味耜高彦根命を祀っています。

他のツツコワケ神社と区別するため、八槻都々古別神社と呼ばれています。

根本から二股になっている杉の古木をはじめ、境内はうっそうとした杜で囲まれており、国道沿いにあるにもかかわらず、心を静かに落ち着かせることができる場所です。

社殿は、朱というよりも紅に近い色で塗られています。

京の雅さとは反対に、力強さを感じさせます。

日本武尊による東夷征伐の際に創建され、源義家による奥州平定の際にも立ち寄られたことから、武神としても崇められて来ました。

代々宮司を務める八槻家の屋敷も、すぐ近くにあるのですが、こちらは固く門が閉ざされており、近づいて見ることはできませんでした。

次に、少し北上して都都古和氣神社に参拝。

こちらは馬場都都古和氣神社と呼ばれています。

御祭神は八槻と同じで、どちらが分祀であるのか、二社同一なのか、あるいは全く別な神社なのか、はっきりしていません。

社務所に神主さんは常駐しておらず、御朱印を押していただくにはご自宅へ行かなければなりません。

社務所に地図が貼ってあったので、すぐ歩いて行きました。

この日は町内会の行事があるらしく、おばあさんが一人でお留守番でした。

御朱印は快く引き受けてくださったのですが、20分は待たされました。

きっと手数をかけて、墨を磨るところから始めてくれたのだと思います。

平成20年5月5日③ 石川


次に石川町へ。

石都々古和気神社は、ネットの地図に載っていません。

しかし、その歴史を知ると、日本の歴史においてかなり重要な神社であることが分かります。

しかし、この時は下調べもろくにしていなかったため、そのことには気づいておりませんでした。

まず、場所が分からず、同じ所を車でぐるぐる回ってしまいました。

そして、車で通るのもやっとの細い道を見つけ、恐る恐る進んでみると、山を登っているようです。

そして目の前に巨石と「鏡石」と書かれた立札が現れた所が、どうやら小高い山の頂のようでした。

御社殿も歩いてすぐの所にあります。

あちらこちらに名前のついた巨石があり、参道の階段を降りながら、それらを一つ一つ見ることができます。

山を下り、少し歩いた所に、社務所がありました。

予想していましたが、自分と同じ姓が書かれた表札が。

呼び鈴を押すと、どことなく父に似た雰囲気の宮司さん。

御朱印を押していただく間に自分の家系のことを話すと、やはりこちらが本家であることが分かりました。

石都々古和気神社は、清和源氏である陸奥石川氏の居城があった場所に鎮座しており、御祭神は味耜高彦根命や、武神の八幡神などです。

しかし城が建てられる前から、巨石信仰の場所でもありました。

我が一族は、二代有光公の子を祖とし、代々こちらの神主を務めて来たそうなのです。

神様を訪ね歩くことが好きなのは、自分の中に流れる血がそうさせていることに気づいたのでした。

この日は偶然にも、近畿に流れた一族も集まっていました。

いずれ正式参拝もしたいと思いながら、次の目的地に向かいました。

こちらもネットの地図にはない場所で、道を歩いている人などに訊ねながら、ようやく着いた場所です。

和泉式部の産湯に使われたという伝説の湧水、小和清水です。

安産の他、声がよくなる作用もあるとのこと。

声を商売道具にしている自分としては、ぜひ飲んでおかなければなりません。

とてもおいしい水でした。

(後日大事な仕事がありましたが、声の調子に恵まれ、成功裏に収めることができました)

帰り道、父がひとつの名所を教えてくれました。

松尾芭蕉も訪れた乙字ヶ滝です。

右岸から見ると、滝の落ち口の形が乙の字をしていることから「乙字ヶ滝」と呼ばれているそうです。

阿武隈川の舟運の最大の難所であったのを、江戸時代に滝の北側の岸壁を堀割り工事をして船を通した運河跡があります。

日本の滝100選に選ばれていますが、圧倒するようなスケールの滝ではありません。

しかし、芭蕉の句を読むと、この滝の持つ趣が感じ取れると思います。


五月雨の滝降りうつむ水かさ哉

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最終更新:2008年12月14日 15:53
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