平成20年8月22日 今帰仁・本部
仕事一筋を通してきた今年の夏も終わりが近づき、夏の終わりは旅で締めくくろうと、沖縄に行ってきました。
もっとも、思いつきの旅ではなく、準備はだいぶ以前から積み重ねて来ていました。
沖縄へ行けるからこそ、仕事に打ち込むこともできたとも言えるかも知れません。
那覇空港で、別便で到着していた友人と合流。
彼は沖縄通で道路や食事にもとても詳しいのですが、今回行ってみたいと要望した場所は、彼でも知らない場所が多いようでした。
心配していた台風は、別な方向へ行ってしまいました。
目的地の中で一番遠い今帰仁から、今回の旅は始まりました。
今帰仁城跡は琉球国が統一される以前、三山時代の北山王の居城跡で、世界遺産にも指定されています。
首里城に次ぐ規模の城で、高台に築かれているため見晴らしがとてもよく、沖縄の原生林が茂る山々と、深い青の空を眺めながら、暑さも忘れてしまいました。
隣接する今帰仁村歴史文化センターでは、今帰仁城跡から発掘された中国製の陶磁器や、御獄・水田・馬場跡などの様子を展示しています。
琉球の人々の暮らしが、少し身近に感じられた気がしました。
廃藩置県によって琉球国が日本の一部となると、御嶽やグスクは神社と同一化され、鳥居が建てられました。
歴史文化センターの横には、そうして建てられた今帰仁城鳥居の脚部が、注意して見なければ分からないほどひっそりと佇んでいました。
沖縄で人気の観光スポット、沖縄美ら海水族館へ。
自分の場合、一人旅でこのような場所へはまず行きません。
自分の知らない世界へ入り込むことができるのも、連れのある旅のよさだと思います。
道の駅許田で割引入場券が手に入ることも、友人は調べ済みでした。
美ら海水族館は、昭和50年に開催された沖縄国際海洋博覧会にて海洋生物園として出展され、博覧会跡地に平成54年に開園、平成14年に新館が会館して今に至っています。
ちょうど18:00からのオキちゃん劇場に間に合いました。
館内の、7500立方メートルの水量を誇る大水槽のパネルの厚さは60センチ。
ヒトデに直接触れることができたり、サメの歯の骨をくぐることができたりと、楽しめるだけの展示ではなく、子供の自由研究にも充分に活用できる充実した内容になっています。
館内のあちこちにある16枚のカードを集めてファイルにとじれば、立派な海洋生物図鑑の出来上がり。
以前はあまり目立たない所にあり、全部集めるのが大変だったと、友人は言っていました。
美しい海を守る沖縄の人々の熱意が伝わって来るようでした。
平成20年8月23日① 金武・普天間
2日目は、観光しながら本島を縦断して、島尻まで行くことになりました。
最初に立ち寄ったのは金武観音寺鍾乳洞。
金武観音寺は16世紀に日秀上人によって開かれたもので、高野山真言宗。本尊は聖観音。
現在の本堂は昭和17年に再建されたものです。
ほとんどの社寺が戦災によって失われてしまいましたが、金武観音寺は焼失をまぬがれた貴重な木造建築です。
昭和59年に、有形文化財に指定されました。
小さな本堂ですが、我々が訪れた時はご夫婦(?)が並んで座って静かにお参りをしていました。
敬虔な祈りを邪魔しないよう、足早に鍾乳洞へ向かいました。
鍾乳洞内部には、琉球八社のひとつである金武宮が鎮座しています。
陶製の入母屋造りの小祠には熊野権現が祀られています。
琉球八社のうち金武宮だけが琉球王府の官社ではなく、金武観音寺が管理して来ました。
鍾乳洞内部のお社は、全国的にも珍しいものです。
鍾乳洞のゴツゴツした岩が造形をとっていて、仏像に差しかける天蓋や、それぞれ十六羅漢像などと名づけられています。
また鍾乳洞内は、金武酒造による泡盛の貯蔵庫や豆腐ヨウの製造所にも利用されています。
次に向かったのは普天満宮。
こちらも琉球八社のひとつで、普天満権現が金武宮と同じように洞穴内に祀られたのが始まりです。
普天満宮洞穴は本殿の裏にあるようですが、立入禁止になっているらしく、内部の確認はできませんでした。
洞窟内部は遺跡となっており、約三千年前の遺物が多数発掘されているそうです。
また平成3年、宜野湾市文化財「名勝」に指定されました。
神社に残る伝承によると、首里桃原に女神が現れ、後に普天満の洞窟に籠られたことや、洞窟から現れた仙人が熊野権現を名乗られたことが伝えられています。
社務所の参拝者控室には、その仙人を題材とする絵が飾られていました。
中城間切安谷屋村に住む夫婦は、貧しいながら仲睦まじく真面目に暮らしていたが、ある年、不作によって年貢を納められず、妻は首里の殿内に奉公へ行くことになった。
時々自分の髪を切って付け髪として売り、得たお金で供物を買って普天間へのお参りを続けること3、4年。風の日も雨の日も欠かさず通った。
9月のある日、鳥居に近づくと一人の老人に出会い、大切な品を預ってほしいと頼まれた。
言葉を尽くして断ったが、ついに老人は立ち去り、やむなく預けられた品を持って首里に帰った。
その後も品物を返すために普天間へ通い続け、会わせてくれるよう祈りを始めると、ある晩夢に老人が現れ、「我は熊野権現なり。汝等は善にしてその品を授けるものなり」と言った。
同じ夢が毎晩続くので不思議に思い、包みを開くと、まばゆいばかりの黄金が現れた。
夫婦は神の恵みに深く感謝し、御恩返しに石の厨子を造って3体の権現の石像を安置した。
というストーリーです。
平成20年8月23日② 摩文仁・知念
高速道路で一気に南下、南風原で下りてひめゆりの塔に向かいました。
こちらは観光ルートになっているらしく、観光客であふれていました。
姫百合学徒隊は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された看護のための女子学徒隊で、犠牲になった方が最も多かった陸軍病院第三外科壕跡に立っています。
日本を守るために、兵士の救護という重い使命を負って命を落とした女学生の皆さんに感謝の誠を捧げ、悲劇が繰り返されることのないよう、国家の自存自衛のために努力することを誓いました。
今回一番の目的は、帝国陸軍第32軍司令部の終焉地に祈りを捧げることでした。
32軍が最後に司令部を置いた洞窟は摩文仁の崖にあり、黎明の塔や健児の塔を目印にすれば入口までは行くことができると調べはついていました。
摩文仁の丘の最も西側に車を停めました。
営業していない売店から、なぜかラジオの放送だけは流れています。
友人には車で待っていてもらい、案内板もない道を山の中へ入って行きました。
健児の塔までは難なくたどり着きましたが、その先はがけ崩れの惧れがあるため歩行禁止になっています。
周辺に他の道はなく、そこに来る途中に分かれ道があったことを思い出しました。
そこまで戻り、どこへ続くのかも分からない道を、奥へ奥へと進んで行きます。
潮騒の音が少しずつ大きくなって来るのが分かりました。
整備された歩道が崩れてしまっていますが、目の前には人の姿のない、紺碧の海が広がっていました。
それ以上先へ進むことはできないと判断し、友人の待つ場所へ戻りました。
このまま帰ってしまうのは、後悔だけが残る気がしたので、せめて黎明の塔だけでも探したいと思いました。
友人はこころよく承諾してくれました。
少し進んだ先の公園らしい広場に、人が歩くための階段が設けられています。
ここにも案内表示はありませんでしたが、方角的に黎明の塔に向っているようなので、上ってみることにしました。
しばらく行くと、ようやく表示が見つかりました。
階段を登りきった所には、石碑や塔が整然と並んでいました。
売店のような小さな建物の脇を通った時、「お花いらないかい」と、不意に声をかけられました。
そこは売店で、お婆さんがにこにことした表情で手に供物の花を持っています。
お金を払いながら、黎明の塔の位置を確認しました。
どこから来たのと訊ねられたので、宮城からと答えると、宮城の塔はそこに見えるダバオの塔の後ろだよと教えてくれました。
どうやら各都道府県の慰霊塔が建っているらしいのです。
ここが摩文仁の丘であることに気付きました。
教えられた宮城の塔に花の一束を捧げ、手を合わせました。
黎明の塔は、階段を上った所から反対側に少し進んだ所にありました。
黎明の塔は、第32軍司令官牛島満中将と参謀長の長勇中将を祀っています。
その先に、健児の塔まで続く歩行禁止の道が続いていました。
辺りを見ると、展望台の脇から下へ降りる細い階段があります。
その先が、牛島中将が自決した洞窟、第32軍司令部終焉の地でした。
矢弾尽き天地染めて散るとても
魂かへり魂かへりつつ皇国護らむ
洞窟の入り口は、人一人がやっと立っていられるほどの狭さで、小さな石の仏像が一体やすらかな表情で置かれていました。
売店で買った花も尽きており、水の一杯も捧げることができず、手を合わせた後、海行かばを歌ってせめてもの供物としました。
友人はいやな顔一つせず、待っていてくれました。
次に琉球王国最高の聖地、斎場御嶽へ行きました。
森の中に祈りの場が点在し、首里城内にある部屋と同じ名前がつけられていたそうです。
御嶽は神が降りる場所ですが、石そのものは御神体ではなく、神の降りる場所を示すための標識なのだそうです。
世界遺産に登録されたため、駐車場や展示施設も整備されましたが、観光客も増え、神様はびっくりしていることと思います。
ひととおり見学できたので、せっかく沖縄まで来たのだから海で泳ごうということになりました。
友人が人工ではなく自然の砂浜を希望するので、新原ビーチという所へ行きました。
売店の方に聞いたのですが、海水浴客のほとんどは人工ビーチへ行くそうです。
広い砂浜にほとんど人はなく、ゆったり時間をかけて泳ぐことができました。
平成20年8月23日③ 首里
水浴びを終えて宿泊場所に向かいましたが、首里城の閉館まではまだ時間が残されていたので、安心するために見学を済ませることにしました。
道路は渋滞していましたが、薄暗くなって来た頃に首里城公園に到着。
2000円札のデザインにもなった守礼門をくぐります。
守礼門は、扁額に書かれた「守礼之邦」からつけられた名前で、民から遣わされた冊封使を礼儀正しく迎える国として誉められたことを表しています。
当時の東アジアは、日本のような例外を除き、ほとんどの国がシナと冊封関係を結んでいました。
琉球王国は15世紀に明の朝貢国となり(明が滅ぼされて清に変わっても)、薩摩藩の支配下に置かれるまでその関係は続きました。
守礼門からすぐ先の左手には、園比屋武御嶽の石門が見えます。
ここは琉球国王の拝所で、首里城を出る時は必ず拝礼してから通っていました。
現在は御嶽は失われ、石門だけが残っていますが、日常的に祈祷する人の姿が見られる場所でもあります。
そこから歓会門、瑞泉門、漏刻門、広福門をくぐって進むと、ひときわ大きな門が現れました。
ここが奉神門で、いよいよ首里城の内庭に入る門です。
ちなみに入場券のもぎりもここです。
早く進みたい気持ちでしたが、門の外側のちょうど正面に、なにやら神聖な気を発する場所がありました。
ここが首里森御嶽で、やはり琉球王の拝所であり、造られたのは神話時代までさかのぼるとか。
やはり沖縄の歴史は奥が深いです。
首里城正殿は、日暮れの後にライトアップされ、絢爛なたたずまいを夜空に浮かべます。
14世紀末に築城され、琉球王国の王宮として400年にわたって国王の居城だった首里城は、明治の廃藩置県によってその使命を終え、沖縄神社の拝殿として新たな役割を果たすことになりました。
焼失と再建を繰り返しましたが、先の大戦の沖縄戦で完全に破壊され、戦後その跡地には琉球大学が建てられましたが、復興を強く願う県民の熱意によって平成4年に復元されました。
現在は正殿裏の復元工事が進められています。
内庭の縞模様は正殿に対して斜めになっており、不思議に思ったので近くにいた案内人に訪ねてみたところ、再建した時に風水の関係でこうなったのではないかと述べられました。
建物内は、南殿・正殿・北殿の順に見学することができます。
王の玉座である「御差床」は、とてもきらびやかに飾られています。
琉球の王族である尚氏は代々ここでまつりごとを務められたのでしょう。
王族の墓である玉陵へも行きたかったのですが、見学を終えて外に出ると真っ暗になっていたので、次に来た時のお楽しみとすることにしました。
平成20年8月24日 那覇
沖縄最終日。
仙台行きの飛行機は昼過ぎには出発なので、あまり時間は残されていません。
まず沖縄で最も規模の大きな神社、波上宮に参拝に行きました。
琉球八社のひとつで、沖縄総鎮守・旧官幣小社、新一之宮にも列せられています。
海を見渡す断崖の上に立つ波上宮は、伊弉冊尊・速玉男尊・事解男尊を祀り、海の守り神として崇敬を集めて来ました。
御創建の伝説は、
南風原の崎山の里主が釣りをしていると、浜辺で「ものを言う石」を手に入れた。
この石に祈ると豊漁を得ることができるので、諸神がこの霊石を奪おうとした。
そこで里主が波上山(波上宮御鎮座地で、花城とも呼ぶ)へ逃れると、「吾は熊野権現也、この地に社を建てまつれ、然らば国家を鎮護すべし」との神託があった。
里主はこのことを琉球王府に奏上し、社殿が創建された。
というものです。
沖縄戦によって社殿は灰燼に帰し、当時の宮司は御神体を摩文仁の洞窟に奉安して殉職されたそうです。
戦後、ハワイ移民の募金などによって復興され、初詣の時には境内が人で埋め尽くされるそうです。
次に奥武山公園へ行き、沖縄県護国神社に参拝。
全国にあるほとんどの護国神社は、郷土出身で明治維新後に戦争で亡くなった軍人・軍属を祀っていますが、沖縄は沖縄方面作戦で殉じた本土出身の御英霊や、戦争で犠牲になった一般住民・学童・文官もともに祀っています。
戦争という極限の状態で、沖縄の人たちも本土の人たちも、それぞれが必死に日本を守ろうとした事実は、国家の永続を願う現在の国民にとってかけがえのない記憶の財産です。
沖縄独立論というものがあるそうですが、もしその声が高まれば、ロシアによるグルジア侵攻のような悲劇が日本でも起こることになるでしょう。
それが、命を失ってまで国を守ろうとした戦没者の意思に反することにはならないか、冷静に考えることが求められると思います。
次に、護国神社のすぐ近くにある沖宮に参拝。
こちらも琉球八社のひとつ。
社殿は山の傾斜に建てられており、社務所が拝殿の下にあったり、本殿の裏の丘に御嶽があったりします。
伝説によると、那覇港内に光るものがあり、首里城からそれを見た国王が漁師に命じてすくい取らせると、熊野権現垂迹の霊木であったので、御宮を建てて祀らせたということです。
社殿は国宝に指定されていましたが、残念ながら戦争によって失われてしまいました。
御祭神の天受久女龍宮王御神は天照大御神の琉球語で、他の御祭神もそれぞれ聞きなれた名前とは違う名前で祀られています。
非常に興味深いと思い、宮司さんの著書「御嶽神教・うるま琉球沖縄神道記」を買いました。
沖縄の神々の御由緒や鎮座地が書かれているので、次に沖縄を訪れるまでにしっかり勉強しておきたいと思いました。
今回の旅行で最後の食事のために、国際通りへ。
横丁のアーケード街に、タコライスがお勧めという店を見つけました。
前日の番、飲み屋で泡盛を飲んだ後、ふらりと入った店でタコライスを食べたのですが、友人の話では「これはタコライスではない」とのことで、どうしても美味いものを食べさせたいとのことでした。
友人は大盛りを注文したのですが、普通盛りでもかなりのボリュームがあり、飲み物やちんすこうのサービスもついていて、とても良心的でした。
確かに、前日の店の味とはかなり違っていて、食べてよかったと心底思いました。
まだ少し時間があったので、「よい所へ連れて行ってあげる」と勧める友人に運転を任せました。
着いた場所は那覇空港滑走路のの南側、着陸する飛行機の機体が、轟音とともに迫り来る様子が迫力満点です。
時間が来たので空港へ。
かなりたくさんのワガママを聞き入れてくれた友人に感謝しつつ別れを告げ、仙台へ帰る便に搭乗したのでした。
最終更新:2008年12月14日 16:15