平成20年10月13日 水沢へ

平成20年10月13日① 水沢公園


「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」を購入し、2回分は使い道が決まっているものの、あと1回分をどのように有効に使うべきか迷っていました。

「青春18きっぷ」と同様、鈍行にしか乗れないので、少し遠出をしようとすれば移動だけでかなりの時間を費やしてしまいます。

どこへ行こうか悩んだ末、新一之宮がある岩手県奥州市の水沢に決めたのが、前日の10月12日。

他に観光できる場所がないか、あわてて調べてみると、なんと当初の予定では回りきれないほど、見学できる場所が多いことが分かりました。

帰りの電車を一本遅らせると、なんとか急ぎ足で全て回れそう。

帰ってすぐ仕事場へ向かうことになりますが、せっかくの機会だし、帰りの電車で昼寝もできると思い、決断しました。

8:01仙台発、9:43一ノ関着。

ここで乗り換えに約1時間。

ただ待つのもつまらないと思い、散歩して見つけたのが八幡神社です。

10:25一ノ関発、10:49水沢着。

まずは水沢公園へ。

三偉人のひとり、後藤新平の銅像が迎えてくれました。

明治44年に建てられた銅像は先の大戦で供出されましたが、その台座に昭和46年、ボーイスカウト初代総長の姿として今の銅像が甦りました。

水沢三偉人とは、吉小路という水沢の一画で生まれた高野長英・斎藤實・後藤新平の3人を意味します。

水沢公園内に高野長英記念館はあります。

高野長英は文化元年に留守家臣の家に生まれました。

文政3年、17歳で江戸に出て蘭医学を学び始め、更に長崎でシーボルトの鳴滝塾に学びます。

文政11年、シーボルトが帰国の際に、国外への持ち出しを禁じられている日本地図を所持していたことが見つかり、シーボルトには国外退去の上再渡航禁止の処分が下され、地図を贈った関係者は処断されましたが、長英はこれを巧みに逃れました。

天保8年、幕府がモリソン号に砲撃を加えたことについて批判し、10年の蛮社の獄で永牢の判決が下され、伝馬町に投獄されてしまいます。

しかし弘元元年に起きた牢屋敷の火災に乗じて脱獄し、薬品で顔を焼いて人相を変えて医学や兵学の発展に努めながら、町医者として庶民のための医療を続けました。

嘉永3年、青山百人町に潜伏しているところをついに幕府に察知され、捕方20名との乱闘の末、喉を突いて自刃しました。

まさに“偉人”と呼ぶに相応しい、すさまじい生涯です。

公園内を少し歩くと、駒形神社の鳥居が見えて来ました。

駒形神社は陸中国一之宮(新一之宮)に数えられます。

七五三の季節のため、子供づれの参拝客の姿が目立っていました。

御祭神の駒形大神は、宇賀御魂大神や毛野氏の祖神などの説がありますが、現在は天照大御神・天常立尊・国狭立尊・吾勝尊・置瀬尊・彦火尊の六柱を駒形大神の総称としています。

崇神天皇の長子である豊城入彦命の子孫を称する毛野氏は、現在の栃木県と群馬県を支配していた豪族で、一族の上毛野胆沢公が胆沢郡金ケ崎町の駒ヶ岳山頂に駒形大神を勧請したのが雄略天皇の御代のことです。

蝦夷を平定した坂上田村麻呂や、源頼義・義家父子、更に奥州藤原氏4代の崇敬も篤いものでした。

境内には安倍貞任を征伐した源頼義・義家父子が勧請した塩竈神社の他、山神社と水沢招魂社が鎮座しています。

平成20年10月13日② 日高小路


そろそろ空腹感を覚えて来たところで、道の駅のような施設を発見。

みずさわ観光物産センターZプラザアテルイという長い名前の施設。

こちらのレストランで蕎麦を食べました。

次に向かったのは高野長英旧宅です。

案内板によれば、ここは長英の母美也の実家で、長英が17歳で江戸に出るまでの一時期を暮したところということ。

明治9年に改築されましたが、西側の表庭に面した8畳と6畳の2部屋が長英の居室として保存されているそうです。

内部は非公開ということなので、今も親族の方が住んでおられるのでしょう。

隣には高野整形外科が建っているので、もしかすると医療の志は子孫の方に受け継がれているのかも知れません。


たえねばやはては石をもうがつらん
かよわき露の力なれども


高野長英旧宅からまっすぐ西へ延びる小道があり、日高神社参道と書かれた看板が立てられています。

次の目的地である日高神社まで、そこを通って行くことにしました。

この小路には、毎年正月の宴会などに召し出される資格のある家臣や小姓など、家格の高い人たちの屋敷が軒を連ねていたそうです。

武家屋敷の一部は今も残されています。

参道の先にようやく鳥居が見えて来ました。

日高神社は弘仁元年、52代嵯峨天皇の勅命によって御創建されました。

征夷大将軍源頼義・義家父子が戦勝祈願に訪れたことも伝えられています。

主祭神は火を掌る火産霊神に、大年三神、源頼義公、義家公、水波乃売神、大国主神、倉稲魂神たちを合祀しています。

主祭神が火の神ということもあり、毎年4月29日に行われる日高火防祭が有名です。

水沢三偉人もそれぞれ参拝に訪れたそうです。

境内には、水沢伊達家の祖であり留守氏の初代水沢城主である留守宗利公の像が建てられています。

家臣に慕われた殿様であったらしく、その死に殉じた家臣ら8名。

境内の八士の墓に眠っています。

日高火防祭は、宗利公の孫である3代目城主宗景公が伊達公の名代として江戸にいた時、10万人以上が焼け死んだ明暦3年の「振袖火事」の惨劇を目の当たりにしたことで、防火の対策を打ち出したことが始まりです。

実務面では民間消防隊を組織し、精神面では日高(火)と瑞山(水)へ火防祈願を始めました。

その瑞山神社は留守家代々の祖霊社で、日高神社の境内に鎮座しています。

留守氏は藤原兼家の子孫で、源頼朝公による奥州平定の後に陸奥国留守職に任命された伊沢左近将監家景公を祖とします。

南北朝時代以降に衰退し、太閤秀吉に領地を召し上げられ、伊達家の家臣となってしまうあたりが我が宗家の陸奥石川氏と似ていることに、近親感を覚えます。

平成20年10月13日③ 吉小路


日高神社から斎藤實記念館を目指して歩いていると、吹奏楽の楽器の音がにぎやかに聞こえて来ます。

近くの中学校で部活の練習でもしているのでしょうか。

近づけば近づくほど、その音色は大きくなって行くようです。

それもそのはず、中学生(?)の吹奏楽団は記念館の敷地で練習していたのでした。

この日はちょうど三偉人の顕彰イベントが催される日であったらしく、地域の方もたくさん集まっておりました。

斎藤實は第30代総理大臣の他、海軍大臣・外務大臣・文部大臣・朝鮮総督、そして内大臣を勤めた政治家です。

県庁の給仕になった年、庁舎の火事にいち早く駆けつけ、機敏な行動が称賛されて知事から表彰されました。

海軍兵学校に入学し、アメリカ留学と西洋視察を経て、41歳で海軍次官、49歳で海軍大臣に就任しました。

朝鮮総督としては、力による支配から文治政策へ方針を転換し、民政の安定に努めました。

五・一五事件の後、75歳で総理大臣に就任、昭和天皇の御信任も篤く、78歳で内大臣に就任しました。

しかし、軍部の擡頭を抑えようとしたことしたことを批判され、二・二六事件で凶弾に倒れます。

記念館には旧宅の他に書庫もあり、「内外の事情が全て分かるように」と収集されたおよそ3万8000冊の書籍が収められています。

記念館の1階は主に各大臣として活躍した時の写真や軍服・勲章などの服飾品が展示を行い、2階は凶行によって命を失った時の遺品などが展示されています。

額を撃ち抜かれた時の枕や布団、銃弾によって割れた愛用の鏡、そして主人を庇って撃たれた春子夫人の着物などを見ると、惨劇の様子が目に浮かぶようです。

春子夫人は、公人の妻としての自覚を強く持っていた方で、撃たれた主人の盾となって自らも銃撃を受け、事件後は主人の血や吐瀉物の付着した遺品を、全て大切に保管しました。

記念館の庭には、斎藤夫妻の銅像が建てられています。

最後に後藤新平記念館に向かいました。

記念館は、後藤伯記念公民館に隣接して建っています。

読売新聞社の創設者である正力松太郎が経営に乗り出した際、後藤新平が自らの別荘を担保にして資金を用意し、正力に貸しました。

後藤の死後、自らが出資の依頼に後藤を訪ねた別荘が担保になっていたことを知った正力は、感謝の意をこめて後藤の故郷である水沢市に日本で最初の公民館を立てる資金を寄贈しました。

公民館は現在も地域の人たちに大切に使われています。

敷地には、後藤・正力の銅像や顕彰碑が建っています。

後藤新平は須賀川医学校で医学を学び、支援者の安場が愛知県令になったことをきっかけに愛知医学校で医師となり、やがて24歳の若さで学校長兼病院長になります。

岐阜で遊説中に暴漢に襲われた板垣退助を診察した際には「政治家として本望でしょう」と言ったというエピソードが残されています。

本心は医師よりも政治家になりたかった後藤は、内務省衛生局に入り、ドイツ留学などを経て、台湾総督府民政長官となります。

台湾の近代化に多大な貢献をしたことから、今でも台湾では英雄の扱いを受けており、李登輝元総統も昨年の来日の際に、記念館に立ち寄りました。

台湾の街並みを整備した経験は、関東大震災によって壊滅した東京を復興させる時に生かされることになりました。

その後、南満州鉄道総裁・逓信大臣・内務大臣・外務大臣・東京市長などを歴任、またボーイスカウトを設立しました。

三偉人の中で非業の死をとげなかった後藤新平ですが、その生涯はすべて公のために尽くされました。

他の二偉人も、もし志半ばで倒れることがなければ、日本のために更に偉大な仕事をしてくれたのではないかと惜しまれます。

14:19水沢発、14:42一ノ関着。

14:53一ノ関発、16:35仙台着。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2008年12月14日 16:33
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。