平成20年11月29日① 小浜
冬を迎えようとしている北陸へ行くことにしました。
福井といえば、京から北陸に抜ける交通の要衝で、こまやかな文化が生まれ、歴史上重要な合戦が数多く行われた土地でもあります。
織田信長による朝倉攻め、豊臣秀吉による柴田攻め、古くは新田義貞軍の全滅などです。
今回は特に南北朝時代の新田軍の足跡をたどりたいと思いました。
いつものように伊丹空港まで飛行機に乗り、今回はバスに乗ってJR伊丹駅まで行き、そこから電車に乗りました。
車を貸してくれる友人と篠山口で合流、そこから舞鶴若狭自動車道に乗り、現在の終点になっている小浜西まで行きます。
最初の目的地、若狭彦神社は、車ですぐの所でした。
若狭国一之宮である若狭彦神社は上社と下社に分かれ、最初に参拝した若狭彦神社は上社に当たります。
御祭神の若狭彦神は、彦火火出見尊と考えられています。
神武天皇の祖父神に当たり、山幸海幸神話の山幸彦のことです。
天孫瓊瓊杵尊には二人の子がいて、兄の海幸彦は魚を、弟の山幸彦は獣を獲って生活していました。
ある日、山幸彦は海幸彦に道具の交換を提案してそれぞれ漁や狩りをしますが、結局収穫がなく、悪いことに山幸彦は釣り針を失くしてしまいました。
代わりの釣り針を作っても兄は納得せず、海で泣いていると、そこに塩椎神が現れ、山幸彦は海の中にある海神の宮殿へ案内されました。
そこで海神の娘である豊玉姫命と結婚し、海神に地上での出来事を話すと、海神は魚たちの中から赤鯛の喉にそれが引っ掛かっているのを見つけ、鹽盈珠・鹽乾珠とともに山幸彦に与えて地上へ返しました。
釣り針を見つけてもなお弟を許さない兄を、山幸彦は鹽盈珠・鹽乾珠を使って懲らしめ、ついに屈服させました。
そして山幸彦は豊玉姫を地上に招き、二人の間から生まれたのが、鵜草葺不合命です。
境内には、鵜草葺不合命を祀る境内社の若宮神社も鎮座しています。
上社に神主さんは常駐しておらず、御朱印を希望する人は下社へ向かうよう、案内が掲示されていました。そこで下社に向かったのですが、残念ながら留守の様子。
しかし授与所の窓の所に、2時半に帰りますと書かれたメモが置かれていました。
せっかく小浜に来たので、中心部へ行ってみることにしました。
アメリカ大統領選挙で立候補、後に当選した民主党のオバマ氏と同じ名前という縁をもって、オバマ氏を応援する会というものが小浜市に旗揚げされたというニュースを聞いていました。
民主党に政権が移った時、日本がどれだけ苦しんで来たか、その近現代史にはここでは触れません。
土曜日の昼間にもかかわらず、繁華街に活気は見られず、閉じられたシャッターばかりが目立っていました。
小浜市は全国でも一人当たりの寺社数が最も多い自治体なのだそうですが、同じ名前の外国人に藁をも掴む思いにならなければならない現状に同情さえしてしまいます。
戦後日本人が失ってしまった「何か」が最も多い土地だからこそ、こんな状態になってしまったのかも知れません。
ちょうど時間になったので、気を取り直して下社に向かいました。
単独で呼ぶ時は、若狭姫神社と言います。
こちらの御祭神は、山幸彦と結婚した豊玉姫命。若狭姫神と呼ばれています。
先日千葉を旅した時に参拝した玉前神社の御祭神、玉依姫命の姉に当たります。
お産に際し、決して見てはいけないと言われたにもかかわらず、山幸彦は豊玉姫が心配になって覗いてしまいます。
すると、そこにワニザメの姿になってのたうっている妻を見てしまったのです。
海の神の娘は、出産のために本来の姿に戻ってしまったのでしょう。
見られたことを恥じた豊玉姫は、生まれた子を残して、海神の国へと帰ってしまいました。
上社の夫婦杉も立派でしたが、下社の千年杉も見る者を圧倒して来ます。
写真ではその迫力が伝わりにくいですが、ごく普通の大きさの社殿が、下の方に小ぢんまりとして見えています。
神主さん(たぶん宮司さん)が戻っておられたので、御朱印をいただくついでにいろいろとお話をうかがいました。
かつて鯖街道としての賑わいも今はなく、最近は後背地の山から獣が下りて来るそうで、山が荒れているのではないかということです。
オバマ旋風も結構ですが、地域の神や仏をまず第一に敬ってこそ、活性化の第一歩なのではないかと思います。
平成20年11月29日② 敦賀
小浜を出て敦賀に向かいます。途中原発への案内表示が出ていました。
まずは武田耕雲斎等の墓と松原神社へ。
名前から、気比の松原にあるのだと思っていましたが、実際は少し離れたところにありました。
武田耕雲斎は幕末水戸藩の尊王攘夷派、天狗党の首領です。
天狗党は尊王攘夷の魁として筑波山に挙兵しますが、幕府軍に追われることとなり、各地に転戦して京都を目指すも、元治元年に越前新保(現在の敦賀市)で加賀藩に投降しました。
天狗党の者たちは鰊蔵に幽閉され、過酷な環境の中で多数の病死者を出し、加賀藩が幕府に彼らの除名を嘆願したのも聞き入れられず、耕雲斎以下353人がこの地で斬首されました。
刑場だった場所に遺体を埋め、土を盛って墓石を建てたのがこの墓地です。
墓に手を合わせ、松原神社を探そうとすると、墓地からまっすぐ進んだ先に鳥居が見えました。
ここには武田耕雲斎以下411名が祀られており、幽閉された鰊蔵のうち1棟が移築されています。
少しずつ薄暗くなって来ましたが、翌日は雨の予報が出ているため多少無理をして、今回の一番の目的地である金崎宮・金ヶ崎城跡へ。
南北朝時代、一度は九州まで追われた足利軍は勢力を盛り返し、後醍醐天皇の信頼が篤かった楠木正成や名和長年たちを次々に倒します。
勢力を立て直すため、宮方の大将である新田義貞に二方の親王をつけて北陸に遣わせますが、形勢は不利のまま、ここ金ヶ崎城に籠城しました。
金崎宮は建武中興十五社のひとつで、尊良親王と恒良親王をお祀りしています。
秋の葉が鮮やかに色づいていましたが、春は桜の名所でもあるそうです。
隣には摂社絹掛神社。
落城の際に自刃した新田義顕以下321名をお祀りしています。
金ヶ崎城は難攻不落の城と言われ、背後の絶壁からは食料を運ぶこともできるはずでしたが、足利軍は軍船によって海上からの糧道も断ち、籠城兵たちは完全に孤立してしまいました。
海岸にやっとの思いで降りては海藻を集め、草の根を掘り、木の皮を剥ぎ、それらも全て尽きると軍馬の肉まで食し、最後は力尽きんとする兵が、己の肉を食ってもらうことで共に戦いたいと仲間に頼みながら死んでいったそうです。
友人を待たせ、ひとり山城に登り始めました。
しばらく進むと、尊良親王墓所見込地にたどり着きました。
金崎宮の御祭神の一柱である尊良親王は落城に際し、落ち延びることを勧める新田義顕に対し、兵士を見捨てて皇族だけが命ながらえては日本の国柄に背くことになると、真っ先に自害されたそうです。
この理想は後世にも受け継がれ、未曽有の国難となった大東亜戦争においても、多数の皇族が戦死されています。
後で神主さんから聞いた話では、もともとはここ墓所見込地に社殿が建てられたそうです。しかし海から吹きあげる風に社殿の傷みが激しく、また火災によって焼失してしまったため、現在の場所に遷座されたとのことでした。
頂上付近は本丸跡と考えられ、月見御殿と呼ばれています。
ここから敦賀湾が一望することができ、戦国時代には武将たちが月見を楽しんだと言われています。
後醍醐天皇の皇太子でであった恒良親王は、三種の神器を捧持していましたが、落城の際にはからくもこの海から城を抜け出すことに成功します。
しかし足利軍の探索から逃れることはできず、捕らえられて京都の花山院第に幽閉され、先に捕えられていた成良親王とともに毒を盛られて亡くなりました。
本来皇族を守るはずの武士が逆に皇族を殺めるような暗黒の時代が、たしかに日本にはあったのでした。
平成20年11月30日① 氣比神宮
翌日は残念ながら朝から雨が降っていましたが、雪にならないだけよしとします。
まずは敦賀市内で行き残していた氣比神宮に参拝しました。
氣比神宮は越前国一之宮で、伊奢沙別命(いざさわけのみこと)の他、全7柱の神をお祀りしています。
社殿によると、三韓征伐に先立ち、仲哀天皇の命を受けた神功皇后が玉姫命と武内宿禰をともなって参拝し、その帰順が託宣されたということです。
また、その皇子である応神天皇がもともとイザサワケという名前でしたが、気比大神と名前を交換してホンダワケを名乗り、もともとホンダワケという名前だった気比大神がイザサワケを名乗るようになったとも伝えられています。
このように皇室とのゆかりも深い氣比神宮は、越前国一之宮・北陸道総鎮守として大切にされて来ました。
再び歴史の表舞台に立つことになるのは、南北朝時代のことです。
新田義貞を北陸に向かわせた後醍醐天皇は、氣比神宮にも挙兵を促します。
当時の宮司であった気比氏治が旗揚げに用いた松の木は、境内に今も残されています。
気比一族は金ヶ崎城に新田の軍勢を迎え入れ、共に戦いますが、先に書いたとおり城は落ち、社領は足利幕府によって減ぜられました。
その後、朝倉氏に協力して織田軍と戦って敗れ、社殿は全て灰燼に帰し、祭祀も廃絶してしまいます。
これを再興したのが福井藩祖結城秀康でした。
氣比神宮には元禄2年、松尾芭蕉も訪れています。
旧暦8月14日、出雲屋という宿に泊まった芭蕉は、宿の主人から氣比神宮での月見を勧められます。
翌日は満月。しかし北陸の天気は変わりやすいと教えられ、14日の夜に月見に出かけることにしました。
そこで主人から、かつて道の悪かった参道を埋め立てるために浜から砂を運んだ遊行上人の話を聞かされます。
月清し遊行のもてる砂の上
翌日は、主人が心配したとおり雨が降ったそうです。
境内には摂社・末社がたくさん鎮座していますが、その中で特に珍しいのが角鹿(つぬが)神社です。
御祭神の都怒我阿羅斯等命(ツヌガアラシトノミコト)は、崇神天皇の御代に意富加羅(加耶)から渡来した王子で、氣比神宮の宮司をに任命され、この国の政治を委ねられたそうです。
敦賀の地名はツヌガが由来であるとも言われ、今回は見ることができませんでしたが、敦賀駅前には都怒我阿羅斯等の像が建っています。
駐車場の脇に鳥居を見つけました。案内表示には、古殿池遙拝所と書かれています。
鳥居の先に社殿はなく、「土公」と呼ばれる土を盛った小さな塚があるのですが、これこそ気比大神が天筒山から降臨した場所で、神社創始の聖地であります。
結城秀康によって再興された神社も、先の大戦における空襲によって再び焼け野原になってしまいました。
その再建事業は半世紀にわたり、平成の御代まで続いていました。
境内地の一部が、戦後の都市計画法に基づき学校用地の一部として譲渡されることになりましたが、土公はそのままの形で残されました。
この敬神の精神を、日本人の心の中核として守り続けなければならないと思います。
平成20年11月30日② 福井市
翌朝、雨があがる気配はありませんが、福井市内に向けて出発しました。
最初に訪れたのは、足羽山に鎮座する藤島神社。
建武中興十五社のひとつで、新田義貞公とその一族や家臣を祀っています。
新田氏とその宿敵足利氏とはもともと同じ河内源氏の一族でした。
新田氏は上野国を、足利氏は下野国を治めていましたが、足利氏が鎌倉幕府に厚遇を受けていたのに対し、新田氏はかなり低い地位に甘んじていました。
後醍醐天皇による倒幕の呼びかけに対していち早く応えたのも新田氏で、ついに鎌倉を攻めて幕府を倒します。
しかし新たな武家政権の樹立を目論む足利家が裏切り、劣勢に立つ後醍醐天皇に、京への遷幸と引き換えに義貞公の首を求めます。
やむを得ず後醍醐帝は尊良親王と恒良親王を新田軍につけ、足利への反攻の兵を募るよう北陸に遣わされるのでした。
季節は冬。極寒の行軍によって新田軍の兵士は次々に雪の上に屍を連ねました。
敦賀では気比氏や瓜生氏などが呼びかけに応え、果敢に戦いますが、先に書いたように金ヶ崎城落城の悲劇へとつながります。
嫡男の義顕公を失ったものの、義貞公はここ藤島で平泉寺衆徒を味方につけ、足利軍の斯波高経と戦います。
高経が平泉寺へ藤島荘の寄進を約束すると、衆徒はあっさりと寝返り、義貞公もついに討ち死にするのでした。
討ち死にの場所からは、明暦年間に義貞公の兜が発見され、福井藩主松平光通侯が石碑を建てました。
また明治に入って義貞公を顕彰しようという機運が高まり、藤島神社の御創建が実現するのでした。
武家支配の実利を求めた足利と、一君万民の理想を追った新田。正義は必ずしも勝つとは限りませんが、公正な民の眼によって正しい評価が下ることを物語っています。
更に坂道を登り、小高く盛りあがった丘の下に着きました。
この丘を上ると、継体天皇石像が置かれているはずです。
福井は、数々の武将が散った土地でもありますが、一つの壮大な歴史が始まった土地でもあります。
それは、25代武烈天皇が皇嗣を決めずに崩御したことで、26代の天皇として迎えられた継体天皇が治めていたという意味です。
史書によれば、継体天皇は応神天皇の5世の孫で、男大迹王(おおとのみこ)と呼ばれていました。
沼地同然だった越前国に、九頭竜川・足羽川・日野川をつくり、三国に水門を開いて水を海に流すという治水事業を行った結果、越前平野は非常に豊かになりました。
石像の表情は、どちらかというと柔和なのですが、一度見たら忘れられないような威厳も兼ね備えています。
56歳で天皇に即位した継体天皇は、越前国を離れるにあたって、自らの御生霊を鎮めました。
それが現在の足羽神社で、山を少し下ったところに鎮座しています。
治水事業に当たって安全祈願のために朝廷から勧請した大宮地之霊も祀られています。
戦国の兵乱によって廃れていましたが、柴田勝家や松平家によって復興され、現在に至っています。
一時期「女系天皇」なるものが叫ばれましたが、たとい血筋が遠くても皇統を守らなければならないことを、継体天皇の即位という事実は教えてくれます。
福井には、柴田勝家や松平家、朝倉氏、それに橋本左内などにゆかりの、歴史上かなり重要な史跡がありますが、今回は福井縣護國神社を参拝して、福井散策を終えたいと思います。
不思議なことに、急に雨がやんで太陽が顔を出しました。
福井縣護國神社には、橋本左内をはじめとする明治維新以降の国難における御英霊の他、警察・消防・自衛隊などの殉職者、満洲開拓団の戦災死亡者も祀られています。
巫女さんの親切なご案内により、「秀芳館」という英霊の遺品の展示館を見学させていただきました。
平成20年12月1日 茨木市
今回の旅は、大阪の茨木市で締めくくりたいと思います。
茨木市には繼體天皇陵があり、当初から今回の旅の最後に参拝するつもりでおりました。
宿泊地の十三から阪急線で総持寺駅まで行き、そこからバスと徒歩で30分ほどの所にあります。
バスを降りて歩いていると、石灯籠と「式内社」の案内板が見えたので、寄り道してみました。
住宅地の奥の方に鎮座するのは太田神社。
更に歩くと、ようやく繼體天皇陵に到着です。
大連大伴金村に推戴された男大迹王は、すぐに大和国には入らず、河内国の樟葉宮(くすばのみや)で即位します。
直系の後継者でなかったことが、何らかの混乱を呼んだことは間違いないでしょう。
しかし、応神天皇-若野毛二俣王-意富富等王-乎非王-彦主人王-男大迹王という男系の血統は護持され、皇嗣たちも立派にお育てになりました。
ふと現代のことを思うと、今上陛下の孫の世代は親王がお一方しかおられず、このままでは皇統が断絶するか、よくても綱渡りの状態が続くことは間違いありません。
2000年の歴史を持つ、日本の国民全体の宗家たる皇室が衰退するようでは、日本国全体の活性化も更に先の話でしょう。
旧皇族が一刻も早く皇籍復帰できるよう、またそれが敗戦による諸々の呪縛を解くきっかけになるよう、継体天皇に祈りを捧げたのでした。
現在の繼體天皇陵は、考古学的には別人の墓である可能性が非常に高いそうです。
真の継体天皇の御陵と見られているのは、北西の方角にある今城塚古墳です。
帰りの飛行機の時間までまだ余裕があったので、徒歩で向かいました。
こちらは宮内庁の管理ではないので、かなり荒れています。
どちらが本物かという話には、私はあまり意味がないような気がします。
「そっちは偽物こっちが本物」と声を大にして主張する学者に限って、本物にも偽物にも手を合わせようとはしないものですから。
歴代の皇族方や国民が手を合わせる方に、御霊は宿られるのだと思います。
最終更新:2008年12月20日 14:48