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平成21年1月24日~26日 赤穂へ

平成21年1月24日① 備前


いつ雪が降ってもおかしくないこの季節。

雪を見る目的の旅も悪くありませんが、限られた時間をできるだけ有効に使って旅を満喫するためには、やはり天気に恵まれた方がよいに決まっています。

どこへ行くかによって天気の影響も大きかったり小さかったりします。

そこで今回は中国山陽、赤穂へ行くことに決めました。

片岡千恵蔵主演の「赤穂浪士」をDVDで鑑賞したのがつい先日のこと。

また旅程が決まってからは、吉川英治の「新編忠臣蔵」を引っ張り出して読み、浅野内匠頭切腹後に家臣たちがとった行動のイメージを膨らませました。

これから実際に赤穂城を訪れることで、そのイメージはより鮮明になるものと期待しての旅となります。

いつものように伊丹空港に到着。

まずは少し遠回りをし、備前にある閑谷学校へ。

閑谷学校に新しい講堂(現在は国宝に指定)が完成し、現在に残る姿となったは折しも元禄14年。

浅野内匠頭が江戸城松の廊下で刃傷に及び、即日切腹となった年のことです。

学校そのものの創始はそれよりも遡り、寛文6年に岡山藩主池田光政公が池田家の墓所の選定のためにこの地を訪れた際、風光明媚な環境が学問を修める場所として適していると思い立ち、寛文10年に津田永忠に学校建設を命じました。

前の年には藩士のための学校を創立していましたが、ここ閑谷学校は領民のための学校として特別に設立されたので、庶民のための学校としては世界最古のものです。

その後、講堂や聖廟が次々に完成しますが、光政公は天和2年に亡くなります。

赤穂藩から距離的に近いことから、四十七士の中にもここで学んだ人がいます。

敷地の小高い丘には、二棟の社殿が立てられています。

東側の社殿は閑谷神社。西側の社殿よりも少し低い位置にあります。

閑谷学校の創始者である池田光政公が祀られており、その後明治に入って先々代輝政公・先代利隆公の御霊が合祀されました。

光政公は徳川光圀公・保科正之公とともに三名君と称され、淫祠邪教を廃して神儒一致の政策を進めた他、庶民に至るまで華美や奢侈を戒めました。岡山名物の「ばら寿司」も、倹約の精神から生まれたものだそうです。

光政公のすごい所は、万が一転封や改易となったとしても、学校は永続されるよう、財政面での独立すなわち学校単体の自給自足の体制を整えたことです。

西側の社殿は孔子を祀る聖廟です。

入念な考証によって鋳造された金銅製の孔子像が納められており、10月の釈菜(せきさい・羊などの犠牲ではなく野菜を供える簡素化した儀式)の際にのみ開かれます。

聖廟に続く19段の石段の両脇には、孔子の墓所で採取された種から育てられた楷の木が植えられており、秋にはそれぞれ赤と黄に染まります。

閑谷学校は津田永忠の死後、次第に衰微しますが、宝暦13年に教授になった有吉以顕と藩主池田治政公によって再び隆盛し、頼山陽や横井小楠も訪れました。

明治3年、藩政改革によって藩営の閑谷学校は閉鎖となりますが、それを惜しむ人々が山田方谷を迎えて「閑谷精舎」として再建。

方谷の死後、明治17年に藩士西薇山などによって「閑谷黌」として再興します。それから私立中学閑谷黌、岡山県閑谷中学校と改称して行きます。

その閑谷中学校の本館であった建物は現在、閑谷学校資料館となっています。

平成21年1月24日② 赤穂城


閑谷学校の見学を終え、赤穂に向かいます。

最初に訪れたのは赤穂大石神社。

旧赤穂城内に鎮座し、大石内蔵助良雄命を始め四十七義士命、中折の烈士萱野三平命、浅野家三代、その後の藩主森家七武将をお祀りしています。

江戸時代は幕府に憚って表だった顕彰ができませんでしたが、明治天皇が勅使を泉岳寺に遣わして赤穂義士を弔われたのをきっかけに、赤穂と京都に義士たちを祀る神社が創建されました。

参道両脇には四十七士の石像がずらりと並び、その間を参拝者が後を絶たず往来しています。

宝物殿には討ち入りに用いられた刀剣や防具などが、別館には城の請取の際の文書や浅野家断絶後の城主森家に伝わる重宝類などが展示されています。

また義士木像奉安殿には、昭和28年の義士自刃満250年大祭を記念して当代超一流の木彫家49人によって一人一作ずつ製作された木像が展示されています。

四十七士と浅野内匠頭、そして萱野三平の合計49人の木像ですが、それぞれ生前のエピソードを踏まえて特徴を備えた作品になっています。

四十七士に含まれない萱野三平は中折の烈士と呼ばれ、四十七士と同格でお祀りされています。

萱野三平は主君の刃傷を藩に伝える一番早駕に乗った人物です。

江戸から赤穂まで4日間、昼夜を徹して駕籠を走らせたのは、早水藤左衛門と萱野三平の二人でした。

飛脚でさえ8日かかる道のりをその半分の時間で移動した二人は、到着した時には廃人同然だったとのことです。

実はこの日乗った飛行機は気流の影響でかなり揺れ、1時間と少しの間不快感との戦いでしたが、早駕の揺れはその比ではなかったことでしょう。しかも4昼夜連続とは。

二人が目指したのは筆頭家老大石内蔵助の屋敷でした。その時くぐった門は、大石邸長屋門として、当時のまま残されています。

萱野三平はその後健康も回復し、血判状にも名を連ねますが、吉良家と縁の深い大島家への士官を父から強く勧められ、孝と義に板挟みされて悩み、大石内蔵助に遺書を書いて自決するのでした。


晴れゆくや日頃心の花曇り


変事の噂はたちまち城下に流れ、藩札を持つ領民が続々と城に押し寄せました。

浅野家がお取りつぶしとなれば、藩札はただの紙屑となってしまいます。

領民たちの不安に答える形で、大石内蔵助は六分換え(換金率60%)の決定を下します。

藩の現金を全額藩札処理に充て、自ら所有する藩札は全て破棄するなど誠実な対応をした結果、地元の商人たちも日ごろの恩に答えるかたちで藩札を返すのでした。

領民たちが押し寄せることがなくなったばかりか、安心しきってしまい換金になかなか訪れず、逆に早く換金を済ませるよう呼び掛けるほどだったとのことです。

それから、城を枕に討ち死にか、大手門前で全員切腹か、藩士の間で意見が分かれますが、お家再興のために城の明け渡すという決定がなされ、秩序を乱すことなく藩士たちは城を去るのでした。

赤穂城跡は、今も復元整備が進められています。

忠臣蔵の物語は、その後京都や江戸を舞台とし、宿願であった仇討を成し遂げ、全員が切腹することは誰もが知るとおりです。

四十七士のうち寺坂吉右衛門は、泉岳寺へは向かわずに姿をくらまします。

彼の陪臣という身分から、逃げたことにすれば追手がかからないだろうことを予期して、浅野大学(内匠頭の弟)や瑤泉院(同夫人)への報告を行わせた内蔵助の深謀であったと考えられます。

切腹した四十六士は泉岳寺に埋葬され、吉右衛門もその死後、同じ墓所に葬られました。

赤穂の花岳寺にも墓所があるというので、お参りに行くことにしました。

受付へ行くと、閉館時間が近いからと断られてしまいましたが、遠方から来たと熱意を伝えると、墓所だけならと通してくれました。

墓所には遺髪が納められ、大石内蔵助と主税を中心に、右から身分の高い順に墓石が並んでおり、後から加えられた寺坂吉右衛門の墓は一番左、一番右にある吉田忠左衛門の墓の位置より少し飛び出して置かれていることなど、丁寧に説明して下さいました。

一番早駕で赤穂に着いた二人が水を飲んで呼吸を整えたという息継ぎ井戸が、花丘寺の近くに残されています。

現在は飲料水ではないため、萱野三平と同じ水を飲むことはできませんでした。

平成21年1月25日① 赤穂の海


翌日、まずは赤穂市立海洋科学館「塩の国」へ行きました。

赤穂と言えば塩。

浅野内匠頭は、製塩技法を隠したために吉良上野介から怨まれたという説もあるくらい、赤穂の塩は全国的に優れていました。

日本の場合、塩は岩塩ではなく海水から精製されますが、いきなり海の水を蒸発させて作るのではありません。

まず水分を飛ばして、塩濃度の高い鹹水という食塩水を作ります。

鹹水の精製は、藻塩焼き・揚浜式塩田・入浜式塩田・流下式塩田と発展し、イオン交換膜法という最新技術にたどり着くのですが、海浜公園には揚浜式・入浜式・流下式の3つの塩田が設置されています。

鹹水が出来たら、いよいよそれを煮詰めて塩を取り出します。

「塩の国」では、所要時間30分でそれ塩づくり体験することもできます。

生活に欠かせない塩がどのように作られるのか、というより目の前でキメの細かい綺麗な塩の結晶が作られるのを実際に体験し、教え子たちも連れて来たいと思いました。

毎週日曜日の決められた時刻に、製塩作業所では大規模な釜焚きが行われますが、今回は時間の都合で、準備中の釜を外から覗くだけに終わりました。

海岸へ進むと伊和都比売神社があります。

赤穂御崎に鎮座しています。

御祭神は伊和都比売大神、播磨国一之宮の御祭神大穴牟遅神の比売神と考えられます。

鳥居の先には海しかありません。

海の道から参拝する神社なのです。

日本海海戦の前には、東郷元帥も海の道から戦勝祈願の参拝に訪れています。

少し歩いた所に、大石名残の松があります。

赤穂城を明け渡した大石内蔵助は、浅野家再興を期して京都山科に隠棲します。

赤穂を去る時、ここに生えている老松を何度も振り返り見ては、赤穂への名残を惜しんだそうです。

当時の松は既に枯死してしまい、現在は新しい松が成長を続けています。

赤穂への名残を惜しみながら帰路につくのは、旅人である自分も同じです。

これから神戸に向けて帰るのですが、どうしても寄っておきたい神社があります。

それは大避神社、謎の渡来人・秦氏ゆかりの神社です。

御祭神は大避大神は秦河勝のことで、聖徳太子から弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、広隆寺を建立したことで有名です。

聖徳太子が薨去されてからは、権勢を強める蘇我氏に迫害され、都を追われてこの坂越の地にたどり着いたのでした。

建築や治水などの技術集団であった秦氏は、日本全国の神社建設や、数々の神道行事の創設に関わっているらしいのですが、表の日本史ではあまり語られることのない一族なので、正確なところはよく分かりません。

大避神社は瀬戸内海三大祭りの一つ、坂越の船祭り(御船渡御)でも有名で、復元された祭礼船が納められています。

赤穂藩主は江戸参勤の際、必ずここを参拝してから江戸へ向かったそうです。

裏参道を登ると、明治維新までは神社と一体であった妙見寺観音堂があり、その境内には児島高徳朝臣の墓があります。

岡山を訪れた際、御醍醐天皇の奪還を試みた児島高徳が桜の幹に十字の詩を刻んだ地に鎮座する、作楽神社に参拝しましたが、その後も南朝の武将として各地を転戦、熊山の戦いで重傷を負って妙見寺にて療養したと伝えられています。

和気清麻呂が宇佐に流される際、道教の遣わした暗殺者から彼を守った猪とは、実は秦氏のことではないかと言われています。

同じく忠勤の武将・児島高徳も、秦氏の協力によって朝敵と戦ったのかも知れません。

平成21年1月25日② 加古川


帰りに加古川に寄り道をしました。

まずは日本三奇のひとつ、石乃宝殿です。

生石(おうしこ)神社という珍しい名前の神社の御神体、巨大な石造物のことです。

地元宮城の塩釜にも日本三奇のひとつである塩竈神社の御釜がありますが、いつでも行ける場所であるため、改めて見に行く機会がありませんでした。

先にこちらを訪れることになったのですが、その佇まいは、想像をはるかに超えていました。

巨大な石室が浮いているような造りになっているのですが、山から切り離されているのではないのです。

石室の下は池になっており、どんな旱魃においてもその水は絶えることがないのだそうです。

惜しいことに、石室の謎を解く手掛かりとなる、神社にあった伝来物の全ては、秀吉公の三木城攻略に協力しなかったために引き起こされた焼き討ちにより灰燼に帰してしまいました。

石室の周囲をぐるりと回ることができ、背面には、意味ありげな突起を見ることができます。

石室の巨大さと、周囲の崖との近さゆえ、どの位置から見ても全体を見渡すことはできません。

この石室がどのような理由で造られたのかは、はっきり分かっておりませんが、以下の伝承が残っています。

神代の昔、大穴牟遅命と少毘古那命の二神が、天津神の命を受けて国土経営のために出雲からこの地へお遷りになり、国土を治めるのにふさわしい石の宮殿を造営しようと一夜だけの工事を進められましたが、工事の途中で阿賀の神の反乱を受け、それを鎮圧した時には既に夜が明けてしまっていたため、未完成のままこの石に籠られたのです。

万葉集にも詠まれています。


大なむち少彦名のいましけむ
しづのいはやは幾代へぬらむ


次に鹿嶋神社へ。

聖武天皇の勅願によって国分寺と大日寺が建立された時、その鎮護の神として奉祀されました。

秀吉公の神吉城攻略の際、周辺は戦火に焼かれましたが、社殿の消失はまぬがれました。

参拝して気づいたのは、社殿をぐるぐると回っている人たちがいることで、よく見ると手には竹の札のようなものを持っています。

説明書きには、置かれている竹の札を年の数だけ持ち、一周するごとひとつずつ箱に収め、全部なくなると願いがかなうのだと書いてありました。

神仏習合の風習が残っているようで、境内には線香の煙がただよっています。

境内を出ると占い所や新興宗教らしい施設もあり、独特な雰囲気でした。

参道で売っている柏餅が名物です。

次は高砂神社。

御祭神は素盞鳴尊、奇稲田姫、大己貴命の三神。

神功皇后が三韓征伐から凱旋の途中、守護神である大己貴命がこの地に止まって国土を守りたいと宣されたため、阿閇臣の祖瀬立大稲起命を祭主として創建されたという伝説が伝えられています。

その後、円融天皇の御代に疫病が流行した際には、阿閇臣正敦の夢に素盞鳴尊と奇稲田姫が現れ、翌朝社頭の松を見ると、神託のとおり白木綿がかけられていたことから、二神を合わせてお祀りしたところ、疫病は治まったのだそうです。

境内にある松は、ひとつの根から左右に雄雌が分かれており、「相生の霊松」と呼ばれています。

尉姥の二神がこの松の元に現れて、「我は伊弉諾・伊弉冊の神である」と告げて姿を隠されたという伝説が残されており、浪曲「高砂」にも歌われています。

しかしこの松も、秀吉公による三木攻めの際に切られてしまい、現在の松は5代目とのことです。

播磨地方は秀吉公によって傷つけられた歴史遺物が多いことを実感したところで、二日目も暮れて行くのでした。

平成21年1月26日 三宮


帰りの飛行機まで時間があるので、神戸市内を散策することにしました。

前回は湊川神社へ行ったので、今回は三宮駅周辺を回ることに。

まずは三宮の地名の由来となった三宮神社へ。

一ノ宮・二ノ宮の次に格式の高い神社なのだから、それなりに大きな神社だろうと予想していましたが、小さな地図には掲載されていない小さな神社で、ビル群に囲まれて窮屈そうな様子でした。

御祭神は水の神である湍津姫命。

海運の盛んな町ですから、昔から水の神によって守られていたのでしょう。

三宮神社は、明治維新期にひとつの事件の舞台になります。

神戸事件。西宮警備のために移動していた備前藩兵の隊列を仏兵と米兵が横切ろうとし、それを制止した藩兵に対して英兵が銃を構えたことで騒動に発展しました。

備前藩は3門の大砲を引いて応戦しました。

その時の大砲ではありませんが、同時代の大砲が境内に置かれています。

力にものを言わせる三国は神戸沖の諸藩の船6隻を拿捕し、神戸の外国人居留地を軍事占領下に置きました。

結局新政府は日本側の非を認めて謝罪。銃撃を指揮した藩士、滝善三郎を切腹させることで解決するのでした。

彼の犠牲がなければ、神戸は香港や上海のように本国から切り取られていたことは間違いありません。

辞世の句


きのふみし夢は今更引かへて
神戸が宇良に名をやあげなむ


次に生田神社へ。

前の神戸旅行の際にも訪れましたが、その時は友人が一緒であったため、あまりゆっくり散策することができませんでした。

今回は、社殿の裏にある生田の森のを見ることができました。

源平合戦の舞台でもあります。

まだ時間に余裕があるので、異人館が立ち並ぶ北野天満神社へ向かいました。

まだ1月なのに温かさを感じます。しかも上り坂なので、歩くと汗ばむほどでした。

しかしここで道に迷ってしまいました。

異人館の案内表示はたくさん出ているのですが、神社の看板は一つも見かけません。

犬を連れて散歩しているおじさんに訊いてみると、どうやら日本人ではないらしく、言葉すくなに教えてくれました。

そしてようやくたどり着いた北野天満神社。

平清盛公が福原の都を整備する際、禁裡守護の神として、京都の北野天満宮を勧請してお祀りしたのが始まりです。

北野の地名も、この神社からつけられたものです。

鳥居から階段を上り、社殿で参拝した後さらに裏手の梅林園の階段を上ると、そこは展望台になっていました。

天神様といえば梅の花。

この梅林園は、先々代宮司の手作りで整備されたものです。

展望台からは、神戸港まで見渡すことができました。
最終更新:2009年07月29日 14:59
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