平成21年4月5日① 高輪
東京は桜が満開だという知らせを聞き、ぶらりと散歩をしながらの花見に行ってきました。
東北新幹線で終点の東京まで行き、そこから山手線で新橋に向かってのですが、ぼんやししていたら乗り越してしまいました。
分単位で一日のスケジュールを立てて来たので、すぐに戻れば修正できると思ったのですが、これまでの経験から、こういう不測の事態に対してはジタバタせず、流れに身を乗せてしまうのがよいと知っています。
考えて来た旅の行程を逆ルートでめぐることに決定し、品川で下車しました。
向かう先は泉岳寺。
ここも東京で過ごした大学時代には一度も訪れたことがない場所です。
駅から泉岳寺まで歩いていると、あちこちに桜が咲いているのが見えます。
境内に入ると、「義士祭」と書かれた提灯が並んでいました。
ちょうど義士さんたちのための法要が営まれる日に当たっていたようです。
墓所に向かう途中に、仇討ちを終えた浪士たちが吉良上野介の首を洗った井戸が残されていました。
四十七士の物語では、吉良上野介は悪役として憎まれていますが、領民や家臣からの信頼は非常に篤かったそうです。
四十七士の墓所では、義士ひとりひとりの墓に線香を手向け、手を合わせて来ました。
先日赤穂に行ったばかりなので、本懐を遂げて潔く散った義士たちの墓を詣でることができた感慨はひとしおでした。
泉岳寺には、松の廊下で刃傷に及んだ後、即日切腹となった浅野内匠頭が葬られていました。
大石内蔵助をはじめとする義士たちが吉良の首を供え、仇討の報告をしたのが、まさにこの場所です。
大石内蔵助は統率する立場にあっても、最初に焼香することを一番槍をつけた間十郎左に、次の焼香を二番太刀の武林唯七に許しました。
このことにも、大石という人物の大きさが表れていると感じます。
その後、義士たちは4つの大名屋敷に分散して預けられ、幕府からは切腹の沙汰が下るのでした。
しかし死後、主君のそばに眠ることを許された義士たちの魂は、いたって安らかであったことだと思います。
赤穂浪士記念館では、討ち入りの口上書などが展示されています。
別館には、四十七士ひとりひとりの木像も。
討ち入りから主君が眠る泉岳寺まで歩いた道を再現するビデオ上映も行われていました。
平成21年4月5日② 東海道(国道15号)を歩く
泉岳寺をあとにし、現在の国道15号線を北に向かって歩きました。
すれ違う人たちの表情も様々ですが、車椅子の女性がご主人らしき人に押されて散策しているのを見た時、こちらまでが幸せになるほど幸福な表情をしているのに気付きました。
鼻にはチューブを挿しており、重い病を抱えておられるようにも見えましたが、大好きなご主人とまた春を迎えて桜が咲くのを見ることができたという喜びが、満たされた表情に表れています。
自分も、いまの仕事が思い通りに進まずとも、決して暗い顔・怖い顔をしてはいけないのだと反省しました。
途中の歩道橋の上からは、東京タワーがコンクリートジャングルの狭間によく見えました。
田町駅の前は、西郷南洲と勝海舟が江戸開城の会見をした場所であり、記念の碑が建てられています。
幕末期、敗色の濃い幕府軍は起死回生の策として、薩長軍を江戸城下におびき寄せ、町ごと丸焼きにしてしまうことを検討していました。
もしそうなっていれば、日本の国力の損失は膨大なものとなり、後に列強と渡り合うための力はおろか、東京という首都の誕生もなかったでしょう。
しかし、幕府を追いだした新政府が、結局あの大戦争によって東京を焦土にしてしまったことも、忘れることはできません。
平成21年4月5日③ 増上寺
お昼になってので、途中に食事処でもあれば入ろうと思っていたのですが、気安く入れそうな店もないので、そのまま増上寺に向けて歩き続けました。
首都高の高架をくぐった時、近くでサイレンの音が聞こえました。
それは、北朝鮮が日本列島を横切る形で「飛翔体」を発射したことを知らせるサイレンでした。
軍事目的のミサイルであることは間違いないのですが、それを「飛翔体」と言い換えるところに、北朝鮮という野蛮国への遠慮が見え隠れしていて、非常に不快でした。
そうこうするうちに、増上寺へ到着。
こちらも春の法要の日程に当たっていて、花見客と合わせてかなり混雑していました。
浄土宗の宗祖法然上人の忌日、御忌大会という法要でした。
また、浅野内匠頭が勅使饗応役として畳替えをすべきところ、吉良からその必要性を教えられなかったのがこの増上寺で、松の廊下の刃傷に及ぶきっかけとなりました。
境内では、和太鼓の演奏が賑やかに響いています。
また、徳川家墓所の特別公開も行われていました。
増上寺は徳川将軍家の菩提寺であり、2代秀忠公をはじめとする6名の将軍と、家茂公の正室である皇女和宮、そして将軍の正側室や夫人子女など38名の女性が眠っております。
ちなみに初代将軍家康公は日光東照宮に、他の将軍は上野の寛永寺に眠っています。
ここにはもともと霊廟がありましたが、戦災によって焼失し、現在は宝塔のみが残されています。
この地下には、歴代の将軍が、座った状態で江戸城を向いて葬られています。
事前に調べたわけでもなく、このような特別な機会に参拝できたことは、大変幸運なことであったと思います。
幸運というばもう一つ、舞楽の上演が行われる直前でした。
最初に降りる駅を間違えたのも、今になって振り返ると正解だったようです。
この日の曲目は納曽利(なそり)。
緑系の装束からも分かるように、右方の舞です。
桜の花見も堪能できたので、増上寺をあとにしました。
ここで、メールを入れておいた古い友人から電話が来ました。
ちょうど仕事が休みなので、会うことができるということです。
実に4,5年ぶりの再会です。
どうやら起床したばかりらしく、家を出るまで1時間はかかるとのこと。
こちらとしても、もう一か所行っておきたい所があったので好都合です。
平成21年4月5日④ 愛宕神社
今回の日帰り旅行最後の目的地は、増上寺から北の方角にある愛宕神社です。
愛宕神社が鎮座する愛宕山は、天然の山としては東京23区の最高峰です。
寺院らしきものを見つけ、そちらに向かって歩くと、愛宕神社参拝者はエレベーターに乗るようにと表示がされていました。
他に参道らしきものも見えなかったため、そのままエレベーターに乗りました。
愛宕神社は、江戸幕府が開かれた慶長8年、将軍徳川家康公の命によって江戸の火防の神として祀られました。
神社のホームページには、愛宕神社と愛宕山にまつわる秘話が紹介されていますが、そこから一つ。
愛宕山にはNHKの最初の放送局が置かれ、日本で初めての生中継は、陸軍参謀本部の馬丁だった岩木利夫が、馬で愛宕神社の石段を登った状況を中継したものだったそうです。
境内には池があり、桜の花びらが浮かんで春の錦をなしていました。
ちらほらと参拝客の姿も見え、都心の隠れた名所となっていることが分かります。
少し離れた広場には茶店もあり花見をしながら軽食をとれますが、友人と会うまで食事は我慢。
おいしそうに食べている人たちを、なるべく見ないように心がけました。
境内には、桜田烈士を顕彰する石碑が建てられていました。
後で分かったのですが、ここは井伊直弼を襲撃するための水戸浪士たちが集合した場所でした。
初代将軍によって建てられた神社に集合、祈願した後に井伊大老を襲ったのですから、彼らは本心から幕府そのものに対して叛逆するつもりのなかったとこが窺えます。
帰りは表参道の階段を降りました。
その後、新橋で友人と再会し、お互いの仕事のことや生活のことなど報告し合いました。
日帰りとは思えないくらい、充実した旅行になりました。
最終更新:2009年08月26日 13:21