平成21年5月30日~6月1日 香川へ

平成21年5月30日 高松


新型インフルエンザの流行も一段落ついた様子なので、伊丹経由で2度目の四国上陸を敢行しました。

いつも旅を手助けしてくれている友人に、毎度自分のわがままばかりでは申し訳ないと思い尋ねたところ、讃岐うどんの食べ歩きがしてみたいとのこと。

うどんの名店を回りながら、巡礼を協力してもらうことにしました。

明石海峡大橋を渡って高松に入った時には、時刻は既に2時近く。

2時で閉店する店も多く、観光ガイドとにらめっこしながら、何件かの店で食べることができました。

空腹が満たされたところで田村神社を参拝。

讃岐国一之宮で、御祭神の田村大神とは、倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(吉備津彦命)、猿田彦大神、天隠山命(高倉下命)、天五田根命(天村雲命)の五柱の神の総称です。

倭迹迹日百襲姫命は第7代孝霊天皇の皇女で、大神神社の御祭神である大物主神と結婚しますが、その本体が蛇であることを知った驚きが原因で亡くなり、箸墓古墳に埋葬されたと言われています。

ちょうどこの日、箸墓古墳が卑弥呼の墓であるという有力な手掛かりが、発掘された土器の測定によって明らかになったという研究結果が発表されました。

百襲姫命は託宣によって大物主神を大和に祀ることを天皇に進言したりするなど、祭祀を行う女性として伝えられており、卑弥呼と同一人物ではないかという説が多くの学者に支持されています。

国津神の正体を見て亡くなった皇女の神話と、旧来からあった邪馬台国を滅ぼした天孫族という学者の見方は、完全に食い違っています。

このことが果たして何を意味するのか、そう簡単に結論を出すことは避けるべきだと思います。

御創建は和銅2年と古く、定水大明神とも呼ばれていました。

奥殿の床下には深淵があり、水の守り神として歴代の領主から水乞の祈願などを受けていました。

こんな恐ろしい伝説も伝えられています。

明暦元年、社殿の改築工事にあたり、普請奉行の竹村斉庵はその淵を見せてもらうよう頼み込みました。神官は拒否しますが、断り切れずに見せたところ、水が坂巻き上がり、龍が現れて斉庵をにらんだところ、斉庵は気分が悪くなって死んでしまいました。

工事が中断してしまったため、淵の蓋に穴が開いたままであったため、ある人足が誤って鑿を落としてしまったところ、再び龍が現れて鑿を戻しますが、恐ろしくなった人足が足でそれを取ったところ、たちまち死んでしまったのでした。

境内には相撲場があり、奉納相撲の際は賑わいを見せることが想像できます。

他に、百襲姫命が御手を洗われた花泉や、憩われた休石などがあります。

次に、四国村の近くにあるうどんの名店に向かいました。

駐車場がいっぱいなので、ひとり車を降り、すぐ近くにある屋島神社を参拝しました。

またの名を讃岐東照宮といい、慶安4年に初代高松藩主の松平頼重公が本門寿院境内に徳川家康公をお祀りしたのが始まりで、文化元年になってここ屋島に遷座されました。

屋島は、源氏の軍勢が平家の軍を破った土地で、那須与一がはるか離れた海上に浮かぶ船の扇を射落とした説話でも知られています。

征夷大将軍を仰せつかった徳川家も、源氏の流れから出ているとされていることから、都を追われた平家が戦力の立て直しを図ったものの、その滅亡を決定的にした戦いのあった屋島の地は、祀りを行うに相応しい場所であるとされたのかも知れません。

白村江の戦いに敗れた当時、唐の侵攻を防ぐ目的で、天智天皇の命により八嶋城が築かれるなど、古くから要害の地とされて来ました。

さすがに3軒も回ると、あっさり味のうどんでも相当食べた気になります。

薄暗くなって来たことだし、この日の観光は、高松城跡を見学して終えることにしました。

日本三大水城の一つに数えられる高松城は、豊臣秀吉公の家臣であった生駒正親公によって築城が開始されました。

生駒氏は、織田・豊臣・徳川と巧みに臣従して来ましたが、4代目高俊公の時に生駒騒動が勃発、出羽へ転封となりました。

新しく高松藩の藩主となったのは、水戸藩初代頼房公の子の頼重公でした。

高松城の別名、玉藻城からとって、現在は玉藻公園として市民に親しまれています。

失われてしまった天守閣を復元する計画が進められているようで、その台座となる石垣の修復工事が行われていました。

公園内には、披雲閣という庭園もあります。

ここを見学している時、閉園時間が迫って来た上に雨まで降り始めたため、近道をしようとしたところ、民家の裏庭のような所へ出てしまいました。

公園内で生活している人がいるのでしょうか?

車に乗った瞬間に雨が激しくなり、ここまで耐えてくれた天気に感謝して、旅の一日目を終えました。

平成21年5月31日 坂出


翌日は晴天となりました。

まずは白峯寺に向けて車を走らせます。

途中、有料の高松坂出道路を通り、瀬戸大橋を一望することができました。

有料道路なのに、道沿いには民家が建っており、ここに住んでいる人は毎日通行料を支払っているのかと、余計な心配をしてみたりします。

有料道路を抜け、車が行き交うのも精いっぱいの狭い山道を登ります。

白峯寺は八十八箇所霊場の一つに数えられますが、この急な参道を徒歩で登っている人の姿も見られました。

白峯寺には、崇徳天皇陵があります。

保元の乱によって讃岐へ遷された崇徳上皇は、仏教に深く帰依して、戦死者の供養のために写経したものを朝廷に送りますが、後白河法皇は他意あることを疑ってそれを送り返しました。

恭順の心を認められなかった崇徳上皇の悲しみは、察して余りあるものではないかと思います。

その後崇徳上皇は怨霊になり、「皇を取って民とし民を皇となさん」と書き残して崩御したと伝えられています。

朝廷が官位の授与によって有力者たちを、時に味方につけ、時に賊となし、武力の均衡のためだけに政治を動かした時代は、源頼朝の出現によって終わりを遂げます。

頼朝公が、それまでの天皇に代わって武家を統率する強大な権力を握ったことは、崇徳上皇の言葉が現実のものとなったことを表すと考えることもできます。

山を降り、次に香川県護国神社に参拝しました。

讃岐宮とも呼ばれ、香川県出身の御英霊をお祀りしています。

ちょうど結婚式が行われており、神職の方が奉仕中でした。

パンフレットは切れてしまっており、受付の方に御由緒などを質問しても詳しくは知らない様子で、ちょっとがっかりしました。

摂社なのでしょうか、境内には乃木神社も鎮座しています。

鎮座地の善通寺市は、帝国陸軍第11師団が置かれた土地であり、その初代師団長は乃木大将でした。

明治31年に、第11師団が招魂社を建立したのが、香川県護国神社の始まりです。

乃木大将は、明治天皇の崩御に際して夫人とともに殉死したのですが、戦死ではないため、護国神社や靖国神社には合祀されませんでした。

香川の人たちは、乃木大将の生前の人柄を偲んで、単独でお祀りしたのではないかと推測されます。

乃木神社は、乃木夫妻が殉死した邸宅の隣地(東京赤坂)など、全国に数社あります。

平成21年5月31日 金刀比羅宮


いよいよ今回の旅のクライマックス、こんぴらさんの呼び名で親しまれる金刀比羅宮へ参拝です。

長い階段で知られる金刀比羅宮の社殿は、当然のこと山の上にありますが、そのふもとから参道まで、たくさんの土産物屋が並んでいます。

買い物をすると料金が無料になるという駐車場をみつけ、車を停めました。

さて、本来ならこれから本宮まで785段を登らなければならないのですが、運転に疲れている友人のことを考え、途中の大門まで裏道を登ってくれるタクシーを利用することにしました。

大門までは365段。

約半分を省略できたことになり、友人も少しほっとした表情でしたが、年配の方も階段を登っていることを考えると、少し複雑な気持ちになるのでした。

タクシーを降り細い道を抜けると、大門が見えて来ました。

ここからは自力で階段を登らなければなりません。

しばらく進むと、こんぴら狗の銅像が見えて来ました。

江戸時代、犬による代参が流行しました。

参拝したくてもできない人が、飼い犬の首に結んだ袋に、こんぴら参りの札と路銀を入れて送り出すと、同じ方向へ向かう旅人がそれを見つけては、途中まで連れて行ってくれるという仕組みです。

務めを果たす犬も立派ですが、神を敬う点において一致していた民衆が、不思議な縁でこんぴら参りに協力し合ったという文化は、現代では忘れてしまった心の豊かさを思い出させてくれます。

もちろん、途中で事故に遭い、こんぴらさんにたどり着けなかった犬もいれば、帰り道に遭難した犬もあったことでしょう。

あどけない表情をしたこの像には、それらの犬たちへの供養の気持ちも込められているのではないかと、ひとり推測するのでした。

すれ違った子供から、77、78…と階段を数えている声が聞こえて来ました。

本宮は間もなくなのでしょう。

そこで目の前に現れたのは、そびえるような巨大な社殿です。

重要文化財に指定される旭社は、神仏混合の信仰であった明治までは金堂と呼ばれていました。

金刀比羅の名前の由来は、梵語のクンビーラで、ガンジス川に住む鰐を神格化したものです。

本地垂迹説では、大物主が金毘羅権現の化身であると言われています。

讃岐国一之宮に祀られる倭迹迹日百襲姫命と結婚した、蛇の姿をした神様です。

なるほど、蛇と鰐は姿が似ています。

子供が数えていた77段を登っても、本宮は見えて来ません。

あの子供には、算数を教えなければならないねと友人と話しながら、もうしばらく登り、ようやく本宮に到着しました。

大物主神と崇徳天皇をお祀りしています。

崇徳天皇は、先に書いたとおり悲劇の天皇で、都を追われて讃岐で過ごされた間に、たびたび金刀比羅宮を参拝されたそうです。

本殿に並ぶ形で、三穂津姫社が鎮座しています。

三穂津姫は高皇産霊尊の娘で、大物主の后であると日本書紀に記されています。

国津神である大物主が、同じ国津神の后ではなく天津神を后としたことは、永遠に皇孫をお護りすることを約束する意味があるのです。

ここから更に石段を登れば、崇徳天皇と御母侍賢門院をお祀りする白峰神社や、奥社へと行くことができますが、これから車で帰ることを考えると、あまり無理もできないと思い、今回はあきらめることにしました。

一生に一度はこんぴら参りと言われますが、なにも一度だけに限ることもないので、楽しみを残しておくことにします。

他に、幕末に志士と親交のあった侠客、日柳燕石の住居など、まだまだ訪れたい場所はたくさんあるのですから。

平成21年5月31日 金丸座


金刀比羅宮の参拝を終え、参道沿いに並ぶ土産物屋を覗きながら石段を降り、駐車場に戻りました。

タクシーに乗っている時に見えた旧金毘羅大芝居「金丸座」を、最後に見学することにしました。

国の重要文化財に指定されている金丸座は、現存する日本最古の芝居小屋です。

初めは年3回の興行が仮設小屋で行われていましたが、門前町の整備が進んだことで常小屋の設置を求める庶民の声が高まり、天保7年に完成しました。

「金丸座」の名称は、明治33年以来のものです。

見学料を払って中に入ると、係の方が見学者向けに説明をしていました。

館内はどこでも見学できますが、このような説明を先に聞くことができれば、見学する時に見るポイントなどもしっかりおさえておくことができます。

升席や桟敷の客席は当時のまま残されているそうです。

江戸時代の人々も、ここに座って芝居を楽しんでいたのでしょう。

舞台や花道の地下のことを奈落といいますが、そこも見学することができます。

ひんやりとしてますが、すこし湿気っぽい空気が漂っています。

廻舞台も機械ではなく人の力によって回されます。

足がすべらないようにと、ちょうど歩幅くらいの間隔で石が地面から顔を出していました。

舞台の裏は楽屋です。

それぞれの役割ごとに部屋が決められています。

上階と行き来するための階段はかなり急で、廊下も狭く、百人を超える人々が一つの芝居のために動き回る時には、さながら戦場のような忙しさだったことでしょう。

金丸座が現在の場所に移築されたのは昭和44年。

昭和60年には第1回目の「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が公演され、その後毎年春に定期公演が行われています。

次の公演のチケットは、すべて旅行会社などにおさえられているということで、観劇したい人は旅行会社を通して購入してほしいとのことでした。

情緒あふれる芝居小屋での歌舞伎の観劇、いつか実現したいと思います。
最終更新:2009年08月26日 13:34
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。