平成21年9月21日① 彌彦神社
今年は秋にもうれしい連休がありました。
目的地は新潟県にある弥彦神社。
越後国一之宮です。
高速道路の割引制度のため、連休中はかなり渋滞がひどいという情報でした。
なるべく渋滞を避けるため、少し早目に出発することにしました。
東北自動車道と磐越自動車道を使い、新潟県に入ると、平野の向こうに屹然とそびえる弥彦山が見えます。
途中の磐梯山も山頂までくっきり見える程の快晴で、北国だから寒いだろうという予想も見事に裏切られました。
高速道路を降りて、ナビゲーションシステムの指示のままに車を走らせますが、高さ30メートルもあるという大鳥居は経由してくれませんでした。
そして彌彦神社に到着。
近くの駐車場は既に満車になっており、少し離れた駐車場に車を停め、境内に向かうのでした。
一の鳥居をくぐると、小さな小川が流れています。
本来ならここで禊をするのでしょう。
左手を見ると、朱の太鼓橋。
玉の橋と呼ばれるこの橋は、神様しか渡ることができない橋です。
彌彦神社の御祭神は天照大御神の曾孫、天香山命。
大和が平定され、神武天皇が初代天皇として即位した4年後、天香山命は越の国の開拓を命じられ、日本海を渡って野積浜に上陸されました。
そしてこの地に、塩の製法や漁撈の術、稲作や酒造などの技術も伝え、その子孫も代々越の国の文化・産業の発展に尽力されました。
その天香山命を越後開拓の神として祀ったのが彌彦神社で、御創建は1300年以上も昔のことだそうです。
参道では、菊まつりの展示スペースの準備が、着々と進行している様子でした。
さすが越後の一之宮とあって、参拝客の姿も多いです。
しかし、観光客のマナーの低下も、人数に比例しているようで残念でした。
境内で奇声を上げて仲間と戯れるいい年した男性客。
また、ペットの持ち込みを禁止する看板が立っているにも関わらず犬を持ちこむ家族連れ。
神社は単なる観光地ではなく祈りの場であるということを、日本人自信が忘れてしまっているのが悲しいです。
奇声を上げたい人は遊戯施設に行けばよいのだし、犬を連れて歩きたい人はペット用公園に行くべきで、神社で心静かに参拝したい人の迷惑になることは慎んでほしいと思いました。
一の鳥居から続く参道を、途中で左に直角に曲がると、弥彦山を背に負った御社殿が見えてきます。
弥彦山は万葉集にも詠まれています。
いやひこおのれ神さび青雲の
棚引く日すらこさめそぼふる
また越後が生んだ国文学者、相馬御風は、越後の国で一番最初に朝日を浴びる姿を和歌に詠んで讃えています。
いやひこの高嶺の雲のかがやかに
越の国原夜はあけむとす
その弥彦山の山頂には、天香山命の御神廟が鎮座しています。
ハイキングコースもありますが、今回はロープウェイを利用して山に登ることにしました。
ロープウェイの山麓駅までも、神社からは少し距離があるため、駅と神社を結ぶ往復のバスが出ています。
バス乗り場には行列ができていました。
ちょうどそこに石碑があり、読んでみると、弥彦山という唱歌の歌詞が刻んでありました。
作詞作曲は小山作之助。「夏は来ぬ」の作曲者として有名です。
越路の国に名も高き
弥彦の山を見わたせば
壮麗雲につき入りて
貴く清きながめかな
前に渦巻く日本海
沖辺に浮ぶ佐渡ヶ島
遙かに眉を引きたるは
遠き陸羽の山々か
海風清く袖吹ふきて
浮世のちりも通い来ず
思へばげにも御神の
宮居い座します弥彦山
平成21年9月21日② 弥彦山
バスは「万葉の道」と呼ばれる遊歩道を運行します。
道路わきを見ると、万葉集に詠まれた植物が、それと分かるように名札をつけて植えられています。
万葉集に詠まれる約150種の植物のうち、約60種がこうして植えられているのですが、その全てが弥彦山に自生している植物で、他の土地から移植されたものは無いそうです。
弥彦山の自然の豊かさが、こんな所からも知ることができます。
山麓駅に到着。
ロープウェイ乗り場にも行列ができていました。
しかしまだ時間がそれほど遅くないため、3・4回くらい待ってすぐに乗ることができました。
山頂駅まではロープウェイに揺られて約5分。
展望台やレストランなどがあり、かなりにぎやかな雰囲気です。
地面にシートを敷いて弁当を食べている家族連れなどの姿も見えます。
山頂からは、日本海をへだてて佐渡島を望むことができます。
これから少し山登りをしなければならないので、佐渡島を眺めながら、軽く昼食をとりました。
弥彦神社の奥宮である御神廟までは、徒歩で約15分かかります。
新潟の代表的な山とあって、放送施設も多く建っています。
階段があるので、道は歩きにくいとくことはありません。
しばらく進むと、御神域を示す鳥居が見えて来ました。
御神域の中でもひときわ高い位置に、御神廟は鎮座していました。
鳥居と賽銭箱があるだけで、社殿はありません。
山そのものが御神体だからです。
ここには天香山命と、妃神の熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと)が祀られています。
ここから北の方角には、天香山命が大和から持参した10種の神器が埋められたと伝えられる多宝山があり、弥彦神社・御神廟・多宝山は正三角形の位置関係にあるのだそうです。
弥彦山からは、日本海の反対側に越後平野を見渡すことができます。
刈り入れが迫って黄金色に色づいた田んぼも、日本が誇れる景観のひとつではないでしょうか。
遠く広がる田園の眺めを満喫し、ロープウェイに乗って再び弥彦神社の散策に向かいました。
平成21年9月21日③ 再び彌彦神社
山麓駅には、乗った時より更に長い行列ができていました。
往復バスに乗って、再び彌彦神社境内へ。
来た時に通り過ぎただけの所などをじっくり見学することにしました。
随神門の両脇には、少し変わった姿勢をした狛犬が置いてあります。
この狛犬と同じデザインの左右一対の置物が、授与品として販売されていました。
社殿向かって右手の方に進むと、毎日5時・正午・10時に叩かれる太鼓の置いてある鼓楼があります。
そこから摂社末社の並ぶ細い道を進むと、明治の大火で焼失を免れた十柱神社があります。
茅葺屋根の社殿で、趣を感じさせます。
舞殿の前を通り、表参道に合流。
宝物殿へ向かう角に、石油蒸留釜が置いてありました。
明治17年に考案された日本最初の石油精製装置で、現在は国内に2基しか残っていません。
日本書紀に、天智天皇の時代に越の国から燃える土と燃える水が献上されたという記録が残っており、古代から石炭と石油が産出されていたことが分かります。
明治以降、油田を掘る業者は必ず彌彦神社に参拝したそうです。
現在、宝物殿が建てられている場所は、もともと御本殿が鎮座していた場所の近くで、一の鳥居から真正面に当たります。
明治45年の大火によって社殿は焼失してしまい、現在はその跡地が、ひっそりと残されています。
せっかくなので宝物殿も見学することにしました。
源義家公、義経公、上杉謙信などが奉納した宝物が展示される中で、特に目を引いたのは刃渡り2メートル以上もある大太刀です。
最後に御神木を見て、神社を去ることにしました。
この御神木の椎の木にも伝説があります。
天香山命が越の国を治めるにあたり、ここが自分の住むに相応しい場所であるなら根を広げ葉を茂らせ、繁茂するがよいと言って、持っていた木の杖を地面にさしたところ、みごとに根付いたということです。
見たところ、残念ながら上部から枯れて来ているようでした。
ペット持ち込み禁止の立て札に従わず、御神域に犬を散歩させるような人間がいる場所に、神様は住みたくないのかも知れません。
一の鳥居を出ると、境内の前の道路は大渋滞でした。
やはり早目に来て正解だったようです。
道路の反対側には、明治天皇行在所跡の碑があります。
明治11年、北陸東海御巡幸に際し明治天皇は、この地にあった祀官五十嵐盛厚氏の邸宅を行在所とされました。
祝日とあって、付近の土産物屋の軒先には日の丸が掲げられています。
鎮守の森と日の丸のある風景。
日本の美しい風景は、日の丸を切り裂くリベラル政党が政権与党になっても健在です。
平成21年9月21日④ 燕市
まだ帰るには時間が早いので、周辺の見所を訪問してみることにしました。
新潟について下調べをするまで知らなかったのですが、新潟では槌器という伝統工芸品が作られています。
弥彦山の間瀬銅山で産出された銅を材料としたのが始まりで、一枚の銅板を叩いて皿やコップなどの形に仕上げます。
槌器の技術を伝えたのは仙台の藤七という職人で、それ以来生産され続けています。
槌器は形だけでなく、科学変化を利用した着色も手間と技術が必要で、使用する場合も湿気の対策をとらないと、次第に変色してしまいます。
今回は彌彦神社からほど近い、槌器工房清雅堂を訪れました。
ずらり並べられている商品は、どちらかというと現代風のデザインのものが多いような気がしました。
説明をして下さったのは、工房三代目のまだ若い職人さんで、いろいろな質問をしても丁寧に答えて下さいました。
一つ一つが手作りのため、私たち庶民が手にするには多少高価な気がしますが、大事に使えるのなら手元にあってもよいかも知れません。
特に冷たいものを飲むには、金属でできているため冷たさがじかに手に伝わり、飲み物もより美味しく思われます。
次に、18世紀初頭に建築された農家の家屋が残る旧武石家住宅へ。
室内には板の間と土間しかなく、寝る時には土間に藁を敷いて寝ていたという当時の生活をうかがうことができます。
それでも、中流農家の母屋としてはかなり豪華な造りで、カンナではなくチョウナで削られた柱は太く立派なものでした。
最後に、越後が生んだ禅僧、良寛の生涯をたどるため、燕分水良寛史料館へ行きました。
良寛は越後の名主の家に長男として生まれましたが、父を継いで名主になることを拒み、出家して僧となり、師の入寂をきっかけに諸国行脚の旅に出ます。
しかし、旅先で父の入水自殺の知らせを聞き、郷里へ戻って庵での孤独な生活を始めます。
彌彦神社へしばしば参拝しながら、和歌や書に人生の安らぎを求めるのでした。
史料館には、良寛本人はもちろんのこと、親族や知人らの書も展示されていますが、誰もが豊かな文学的才能を持っていたことが分かります。
現実の世の汚濁から逃れて理想に生きる良寛の人生が、今の自分にはとてもうらやましいものに思えるのでした。
良寛は、子供の心にこそ誠の仏の心があるとして、積極的に童子たちと遊び戯れました。
高名な人物からの書の依頼は断っても、子供に頼まれると喜んで筆をとったそうです。
良寛はいつしか「良寛さま」と呼ばれるようになり、それは今も続いています。
良寛さまが弥彦山や彌彦神社詠んだ歌は、
いやひこの杉のかげみちふみわけて
われ来にけらしそのかげみちを
隣接する建物には、分水の祭りで使われる御神輿と歌舞伎屋台が展示されていました。
最終更新:2009年10月05日 18:53