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上水と江戸の発展 - (2006/11/20 (月) 01:45:32) の編集履歴(バックアップ)


天正18(1590)、徳川家康の江戸入府と同時に、良質な飲料水を得るために上水が造られたと伝えられている。家康は江戸の街づくりの第一歩として、何よりもまず飲料水の確保に目を向けたのである。家康は、江戸入城にともない上水道の整備を大久保藤五郎に命た。藤五郎は、小石川(現在の後楽園のあたり)の流れを利用し、この水を小さな堀割で駿河台方面へと流した。これが、江戸の上水道の始まりであり神田上水の原型と言われている。(藤五郎はこの工事の功績により、主水の名を授かった)

徳川幕府の発展と共に、江戸の街も大きくなり、三代将軍家光の頃には、江戸は数十万の人口を抱えるようになったのに対応するため、上水設備の拡張工事が行われるようになった。当時は、いくつかの自然河川が江戸の街を流れていましたが、その中で最大の河川だった井の頭池を水源とする川(つまり神田川)を利用して、神田上水が作られた(寛永六年)。 江戸への供水は、目白下関口に設けられた堰で取水して、堀割を伝って小石川の水戸屋敷へ導かれ、その後地中の導水管へと続き、現在の水道橋のあたりで掛樋となって神田川を渡り、 駿河台方面へと供水された。関口に設けられた堰は、大洗堰と呼ばれた。上水の余水は江戸川となり、船河原橋(現在の飯田橋付近)より下流は神田川と呼ばれるようになった。神田上水の工事は今でいう一大公共工事だったため、多くの人間が工事に参加した。その中の一人には松尾芭蕉もいたと言われています。 その当時芭蕉が寝食を行った家が関口芭蕉庵として残されている。

*玉川上水が出来るまで

江戸で使う水は最初、湧き水や溜池、周囲の小さな河川のものを使っていましたが、人が増え、町が広がるにつれて、それだけでは足りなくなってきていました。

承応元年(1652年)徳川家綱が四代将軍になって早々、幕府は、清い水の豊富な多摩川から江戸に上水を引く計画を立てました。幕府は、工事を願い出ていた庄右衛門・清衛門兄弟に金7500両を払い、請け負わせました。

 承応2(1653)44日から工事に着工。羽村の取水口から四谷大木戸(現在の新宿御苑前)まで約40キロを、武蔵野台地の最も高い稜線に沿って掘り進んでいます。取水口から四谷大木戸までの標高は約92メートルで、その傾斜を利用して水が流れるよう設計してあるのです。測量は暗闇の中で束にした線香や提灯の明かりを利用したといわれています。機械のない時代にクワやツルハシなどを使ってまったく人力で掘ったにしては、43キロもの長さをたった8ヶ月、11月15日に工事は完了しました。当時の水道としては世界一の規模と言われています。

 幕府は庄右衛門・清衛門兄弟に玉川の苗字を名乗ることを許し、後に2百石を与えました。

承応3年(1654)には玉川上水が完成したことで、世界有数の100万都市江戸の人々の暮らしを支えました。多摩川の羽村の堰で取水された水が、江戸中央部へと給水を行い、神田上水は、小石川地区から神田川以南の日本橋、京橋、大手町地区に供水していた。 また、本所、青山、千川、三田の4上水が整備され江戸周辺へと給水されました。こうして作られた上水道も明治の時代に入ると、水質悪化などの問題が発生し、浄水施設を持つ近代水道の必要性が求められ、明治26年に工事着工。32年に改良水道工事が完成。神田上水は、明治34年6月30日にその使命を終えた。

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