7月31日、夏休み真っ盛りの昼下がり。
蝉たちの騒がしい鳴き声を聞きながら、唯はギー太を背負い音楽室への階段を登っていた。
しかしその足取りは重く、表情も冴えなかった。
それもそのはず、恒例行事だった紬の別荘での合宿が、
今年は澪の夏期講習の日程と紬の避暑地旅行の日程とで折り合いがつかず、
中止となってしまったからだ。
何とかふたりのスケジュールをやり繰りして、
飛び飛びの日程ながら夏休み中の校内で練習することとなり、今日はその練習日。
すっかり今年も合宿があるものと思い込み、
高校生活最後の合宿を満喫するべく新しい水着や肝試しの小道具、
そして大量の花火を買い込んでワクワクしていた唯にとって、
その中止決定は死刑宣告に等しかった。
「はぁぁ〜。今年こそムギちゃんちのいちばんおっきな別荘に行けると思ったのに…
りっちゃんとの無人島ごっこ、新しいシナリオ考えたのに…
澪ちゃんが心臓麻痺起こして生死の境を彷徨うくらい驚かそうと思って小道具仕入れたのに…
あずにゃん用のネズミ花火も200個買ったのに…あ〜あ…」
その上さらに、今日は寝坊してしまい集合時間から40分も遅刻。
紬以外のメンバーから怒られるのは確実とあって一向に歩みが進まない。
普段以上に時間をかけてやっと音楽室手前の踊り場までたどり着いたその時。
唯は音楽室から漂ってくる異変に気付いた。
「え、何この匂い……わっ!煙?!も、もしかして火事?!うわ、たいへんだぁ!!」
先ほどまでの足取りとは裏腹に二段飛ばしで残りの階段を猛ダッシュし、
メンバーの安否を気遣いつつ大あわてで音楽室の扉を開き、大声で叫んだ。
「み、みんな大丈夫?!」
最悪の状況を想像してしまい、もはや涙目の唯。
その大きく開かれた目の前に、信じがたい光景が広がっていた。
「…はぁ〜。火事じゃなくってホントに良かったぁ〜。それにしても、なんでこんな事になってんの?」
食欲をそそる香ばしい煙が立ちこめる音楽室。
唯は大きく安堵のため息をつきながら、
白衣姿の出で立ち、おデコにはトレードマークのカチューシャではなく
豆絞りの手ぬぐいをねじり鉢巻きにしてきりりと締め、
右手に大団扇を持ち、得意げに焼き台の前に立つ律に尋ねた。
「へっへ〜ん。お嬢ちゃん、今日は今年二回目の土用丑の日だぜ♪どう?似合ってる?」
パァン!と威勢良く大団扇を叩きながら律が答える。
「う、うん。似合ってるね…」
明確な回答をノリノリ状態の律に求めるのが間違いだったと、今度は甚平姿で微笑む紬の方を向いた。
「ね、ねえ、ムギちゃん?」
「ごめんね唯ちゃん、黙ってるつもりじゃなかったんだけど…」
紬の説明をかいつまんでみると、こういう事だった。
- 紬はみんなが楽しみにしていたであろう合宿が自己都合で中止になってしまった事に心を痛めていた。
- 二日前に父親の取引先から四万十川産の天然物、それは立派な鰻が生きたまま大量に届けられた。
- それは家族や住み込みの人達を持ってしても、とても食べきれない量であった。
- ならば、合宿中止のせめてもの罪滅ぼしとしてメンバーに食べてもらえれば、と思った。
- 今年二回目の土用丑の日、7月31日はちょうど校内での練習日。
- せっかくの天然物、暖め直しではなく焼きたてを食べてもらいたい。
- 幸運なことに今日の当直はさわ子先生。
- 事情を話すと、自分のぶんを確保してくれるなら音楽室で何やってもいい、焼きなさい!との確約を得る。
- 鰻を捌くのは素人にはさすがに無理なので、元板前の斉藤が裂き、串打ち、蒸しまでやってくれた。
- 焼き台と最上級の備長炭、最高級の醤油と味醂で作られたタレを琴吹家で用意。
- 調理用白衣や作務衣はさわ子の衣装のワードローブから。
- 前回の合宿で炭火焼きに目覚めたという律がノリノリで焼き係を買って出る。
- 以上。
「…でも唯ちゃん、今日…遅刻しちゃったでしょ?早く来ててくれれば…」
ちょっと言い辛そうに言葉を選ぼうとする紬の心遣いを知ってか知らずか、被せるように絶叫する唯。
「うわあああ!ムギちゃんスゴいね!太っ腹!大盤振る舞いだよ!
これって合宿よりもスゴいよ!だっててんねんもののウナギなんでしょ?
し…よ…し…よんまんじゅうがわのウナギが有名な事ぐらい知ってるよ!
お父さんが読んでたグルメ本に載ってたもん!ムギちゃん、ホントにホントにありがと!」
「…唯ちゃんに喜んでもらえて私も嬉しいわ!さあ、りっちゃん、どんどん焼いてね!」
「あいよー!鰻屋さん鰻屋さん♪(パタパタパタパタ、パァン!ジュー)おいこら弟子!
そっちのやつ早く引っ繰り返せ!せっかくの天然物が焦げちまうじゃねーかよ!
ったくモタモタしてんじゃねーよ!てやんでぇ〜!」
「…あ、あのー、今日は練習しないんですか?」
律が着ている調理衣より、若干裾の丈が短いものを身に纏った梓が困惑の表情を浮かべ、
焼き台の端に置かれた鰻を返しながらおずおずと律に尋ねた。
「なぁにぃ〜?れんしゅうぅぅ?ウチは代々、生まれついての鰻屋よ〜!
お客さんにうまーい鰻を食べて貰うのが筋ってもんだろーがってんだよちきしょーめぇぇ
(パタパタパタパタ、パァン!ジュー)」
「んでもぉ…それにこんなに煙出して火災報知器とか大丈夫なんですか?」
「なぁにぃ〜?ほうちきぃぃ?その辺抜かりはねぇよ!今日の当直はさわちゃんだよ!
今日の校内のセキュリティは全部オフってくれてんだよ有難いねちきしょーめぇぇ
(パタパタパタパタ、パァン!ジュー)」
「ぅおぉぅ、江戸っ子だね粋だねりっちゃん!あ、あれ?そういえば澪ちゃんは?」
「ん?澪?澪だったらいつもんとこにいつものポーズでしゃがんでいるよん♪」
律にそう言われた唯は、音楽室内で怯えた澪がいつもしゃがみ込む定位置へと視線を向けた。
果たして、澪はいつもの場所でブルブルと震えながらうずくまっていた。
ただ、いつもの澪と様子が違うことに唯は気付いた。
いつもならば耳を抑え”見えない聞こえない見えない聞こえない”と呟いている筈なのに、
今日の澪はは鼻を抑えて”見えない匂わない見えない匂わない”と繰り返しているのだ。
「みおちゃんみおちゃん、大丈夫?今日は何が怖いの?」
「ゆ、唯!実は私…。鰻が駄目なんだよ〜!」
「へ?そうなの?何で〜?あんなに美味しいのに」
「だって…鰻ってひょろっと長いだろ…あの姿形が私には蛇にしか見えなくて…
とにかく長い生き物を食べるなんて絶対イヤなんだぁ〜!!」
「そうなんだぁ〜。じゃあ穴子は?」
「穴子もイヤ!!」
「鱧は?」
「鱧もイヤ!!」
「ウツボは?」
「もっとイヤ!!」
おもろい…と思いながらも、現在の自分の胃袋が、澪いじりよりも
食欲を満たすことを優先するよう命じていることに気付いた唯は直ちに澪から離れ、
タレと備長炭の炎が絶妙のハーモニーを奏でる、律のいる焼き台へと踵を返した。
「大将!もぉガマンできません!蒲焼きを食べさせて下さいお願いします!」
「あいよぉ!こっちのはもう焼けたぜ!食べてみ食べてみ♪」
「(モグモグムシャムシャ)…何て言うか、とっても言葉にしにくいんだけど…
素晴らしいわ!ふっくらほこほこしてそれで少しも脂っぽくない!」
「そーだろそーだろ、これが炭火の魔力ってやつさ☆」
「こっちの白焼きも(モグモグムシャムシャ)…お、美味しい!!
ワサビ醤油がうまいことウナギの脂を打ち消して…くれて…気が遠くなるくらい…うーまいー……」
「そうだろそうだ…ろ…串打ち三年裂き八年…つって…な……」
「まあまあまあまあ…まあ…まあ……」
「何かちょっと…頭が…痛いです………」
「見えない匂わない見えな…い…に…お……わ………」
……………………………………………………………………………。
ガチャーーーーン!!!!
「お姉ちゃん大丈夫?!」
音楽室にいた全員が一酸化炭素中毒を起こし倒れ込んだところに、
水をなみなみと汲んだ消火バケツを両手に持った憂がドアを蹴破り錐揉み状態で突入、
バッシャァァァァァァン!!!!
と、不完全燃焼で炭火の炎が消えかけていた焼き台めがけてバケツの水をかけ、
と、ほぼ同時に音楽室の窓という窓を全開にした。
「ふぅ…ありがとうな憂ちゃん。下手したらここにいた全員死んでたよ」
「まるで”放火後suicide”でしたわね」
「おい」
「う〜、まだ頭が痛いです…」
「う〜い〜、ありがとね助かったよ」
「ところで憂ちゃん、何故ここに?」
「家で今夜の献立とか考えてたら…お姉ちゃんの身に何か危険な事が起こるって虫の知らせが…
そう思ったらいてもたってもいられなくなって、気が付いたら…」
全員「セコムより綜合警備より優秀!」
「でも、何で換気もせずに炭火なんか熾してたんですか?危ないに決まってるじゃないですか」
「…い、いや〜、さわちゃんがさぁ〜、
『煙が校外に漏れたら近隣住民から通報されるから絶対に締め切るように!』っつーもんだからさー」
「ああ、なるほど…。でもすみません、せっかくの鰻が台無しですね」
憂の言うとおり、
焼き台にあった鰻は全て焼き台の中で今もシューシューと水蒸気を上げる備長炭とまみれてしまい、
とても食べられたものではなくなっていた。
申し訳なさそうにうつむいた憂の肩に手をかけ、
笑顔を浮かべながらゆっくりと首を振り律が言った。
「命の恩人を前にしちゃあ、何も言えないよ…」
そして更に、もっと気の利いたセリフを続けようしていたところに。
ガチャり。
「あ〜〜〜〜〜〜当直やっと終わった終わった!!ったく暑いしめんどいし、
今日はムギちゃんの蒲焼きだけを楽しみに過ごしてたって言ってもいいくらいだわ。
で、私の分はどこ?ひゃぇ?みんな何で怖い顔してるの?え?ひぇ?何?」
終わり
出展
【けいおん!】田井中律はパイナップル可愛い58【ドラム】
このSSの感想をどうぞ
- 以前聞いた事があるのだが、能登半島某村ではかつて、単に「鰻」と言えば「八目鰻」の事を指していたそうで、栄養事情の悪かった昔は貴重な蛋白質とヴィタミンの供給源だったそうです。……澪ちゃんが耳を塞ぎそうな話、かな?~~~ -- (紅玉国光) 2009-10-06 19:19:56
- これは面白い!!駄洒落もウィット利いてるし。……澪しゃん、その調子だと当然、“八目鰻”も駄目でしょうね……。 律「とり目に効くんだぞ~」澪「い~や~だ~!!長~い上に吸血鬼まがいのあんなバケモノ、喜んで食べる人間の気が知れない~」(注:紅玉は富山県在住です) -- (紅玉国光) 2009-09-23 15:35:11
最終更新:2009年08月05日 22:53