「……兄上様。私の不孝が招いた出来事の数々を、今において改めて繰り返す必要は有りますまい。いいえ、必要が無いと言うよりか、出来ない、と言った方が良いのかもしれません。何故、と問われるべきは数あれども、もはや、懐かしい家へと出向いていって、貴方といつかの夜の如く、蚊帳の下に枕を並べて言葉を交わす事はできなく思われます。不孝の上にもう一筆を塗り重ね、私の思うままの事許りを、この拙い一葉にて述べ立てて済ますのをどうぞお許し下さい。そしてどうか、私の正気を疑わずにおいて下さい。……(略)……下宿へと届けられていた電報を読んだ時、私は――半ば判っていたことの筈なのに――冷や水を背から浴びせられたような心地がしました。常から懸隔を感じていた親と子とではありましたが、兄上様、矢張り私は父を、母をも愛していたのです。そればかりは、どうか知っていて欲しいと思います。けれども今私がこの手紙で記す事々は、父や母への、ましてや貴方や○○(引用者注:妹の名)への謝罪でもなければ、言い訳でもないのです。私が見た夢の、いいえ、恐らくは今この時にも見続けている、夢の話なのです。


「あの日、今際の父の床から飛び出して、先生の遺書だけを袂に、それへの奇怪な情熱と焦燥だけを胸に、停車場から東京行きの汽車へと飛び乗った私は、ごうごう鳴る三等列車の中で、一心に遺書を読みながら、眠りこんだ覚えもないのに、いつの間にだか見も知らぬ場所へと来ていました。……(略)……火入りの月を思わせるのっぺりとした明りの下、趣味のない、芝居の書き割りじみた部屋の中でした。人とも、人でないともつかぬ影が幾つも蠢いていました。そして、私たちは、「屠り合い」をやれとか云われたのです。出来の悪い新派劇でも言わぬような、冗談とも思えぬ冗談で、しかし年端も行かぬ子どもが、いきなりその可愛らしいお河童頭を首から飛ばされたのです。さらには、海水浴場にでも居そうな赤裸の男だの、色眼鏡を着け銃を携えた女だの、真っ白い熊のような猫だの、逃げようとした若い男だの、三鞭酒の栓を開けたように次々ぽんぽんと首が飛びました。それを見て向って行った着物姿の武士みた男も、その綿菓子のような頭を……(略)……私はと言えば、あまりに綺麗に飛んだり転がったりするものだから、これはいつか東京に横行したとかいう、残酷趣味の浄瑠璃人形を使っているのじゃないかなどと、存外に呑気な事を、今考えれば恐らく無理やりに……(略)


「悪夢じみた芝居の最中に放り込まれてどうするもなく、私はと言えば、同じように鬱々と歩いていた銀髪の外人らしき青年と共に彷徨しました。奇妙なことに青年は流暢に国語を使いました。剰え芦屋とかいう日本姓を名乗っていたのですが、その時の私には、さほどの事とも思われませんでした。酷く誇張されたこの芝居の毒々しさに、いい加減と精神を摩り削られておったものと見えます。……(略)……我々を励ましてくれたのは、異国のらしい服を着こんだ金髪の青年と、西洋のらしい剣を帯びた女との二人でした。彼らは揃って軍属を名乗っていました。特に青年の方は、Knightがどうとかroundがどうとか言っておりました。Knight of roundtableというと、『アーサー王物語』があります。してみると英国かと考え、「貴方がた、では、大使館か何かに来ておられるのですか、ずいぶんと日本語がお上手でござんすね」と水を向けたのですけれども、これも噛みあうような噛みあわぬような、歯の抜けた猫の口のような具合で、とにかく気疲れをするばかりでした。然し、思い返してみれば、彼らの御蔭で私は命を拾うことが出来たのです。彼らが結局、その清廉な意志に殉じて命を散らしてしまった事を思えば、かえって相済まぬことをしたと、悔やまれる限りです。……(略)……人は必要に迫られれば、いくらでも活動的になるものだと、そんな事を私は思い知りました。先生の遺書に取り込まれておった私が、あの色彩の地獄のような、目のちかちかする書き割りの中で、自分でも驚くほど積極的かつ情動的な人間として立ち働いたのです。それと言うのも、ジイノとアズリイアの二名の死がそうさせたのです。私は、彼らをうらやましいと思ったのです。


「私にとって、この芝居を最も悪夢たらしめたのは、私の知り合いの何人もが、そこにいたことでした。それも、私にとって、奥さんを除いては、出会う筈のない人たちばかりでした。あの遺書を残して自裁した筈の先生その人、昔先生と海水浴場にいた外人、とうの昔に病で亡くなった筈の奥さんの母親。そして、あの、先生の人生にとって決定的な存在となった人、今は雑司ケ谷の墓の中で眠っている筈の人。まるで、先生の遺書の中の彼の遺書から、暗く閉じ切られた襖の向こうから、這い出て来たかのような、……(略)……『精神的向上心のないものは、馬鹿だ』。青い月のかたちを目に入れたその人が、小さなナイフを手に持って、先生に……(略)……先生は笑いました。その時、今まで――――避暑地で出会ったときから、最後に遺書をよこしたその文字の中にまで――――一度も私の見たことのないような顔で、笑ったのです。そして、私の目の前で……(略)……奥さん。可哀そうな、優しい奥さん。かつて先生が命を捨ててまで、一滴の印気(インキ)をすら、そこへ落としたくないと願った純白は、彼女自身の手によって、彼岸花みた真っ赤な色で染められてしまいました。……(略)……ジイノが肝を砕いてくれたと言え、私はよく正気を保てたものだと思います。いや、顧みれば、私は、正気を保てていたわけではなかったかもしれません。……(略)


「そして私は、生きて帰ってきました。来た時と同様に、気付いた時には、東京の、先生の家のそばの苗畑に面してぼんやりと立っていました。空には青白い月が掛かっていました。……(略)……いくら探っても、ありませんでした。私は確かに袂へ入れていた筈の先生の遺書を、なくしてしまったのです。いいえ、なくしたと言うより、『最初からなかった』ような心持でした。私は妙な胸騒ぎを覚えました。それは、既に何かが手遅れとなったという、どうしようもない予覚でありました。……(略)……先生の家の戸を叩いて、顔を出したのは、まるで見慣れぬ、赤い頬をした女でした。「何ぞ、先生に御用ですか」私は、下女を変えたのかと思いながら、その言葉から、では先生はまだいるのか、生きているのかと、安堵だか焦燥だかわからない気持ちを抱きながら、尋ねようとしたのです。その時、奥からのっそりと、顔を出したものがありました。「あらあ、先生。お客さまが……」下女が振り返って、さも勝手知ったるような口調で云いました。けれど、違ったのです。それは、先生とは似ても似つかない男でした。酒でも飲んでいたものか、少しく赤くなった顔に薄く痘痕を散らし、鼻の下に黒い口ひげを備えて、着物に懐手をしたその男は、怪訝な顔つきでこちらを見やると、「何だ、一体」とか何とかぶつぶつ言いながら、また奥へ引っ込んでしまいました。私は呆然として立ちながら、辛うじて、奥さんを呼んでほしい、と下女に告げました。遺書のない着物の懐に、すうすうと風が抜けるように感じながら、私は得体の知れぬ予覚を以て待ちました。そして、足袋を擦る音を立てて、厨の方から女が現れました。「どなた?」私は思わず、呻き声を洩らしました。その女もまた、奥さんではなかったのです。……(略)……下女によって閉められた戸をふらふらと背にし、門口まで引き返したところで、振り返り、家を改めて見やりました。間違いようもなく、それは先生と奥さんの家でした。お互いのこころに言い知れぬ悲しみを抱えながら、静かに暮らす一対の男女の住処のはずでした。くらくらとする頭で見上げる私の耳に、その時、家の庭の方から、奇妙な声が聞こえた気がしました。『南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』…………私は思わず、声のした方へ駆けて行ってみましたが、月のさす庭には何事もなく、ただ、軒先に置かれた妙に大きな甕に、水が波紋を作っているばかりでした。……(略)……それはおおかた車夫か誰かの捨てて行ったらしい、号外でした。拾い上げた紙面には、朱塗りらしい立派な門と、大きな赤松とが描かれています。そして、その傍には、護国寺の山門で今ちょうど運慶が仁王を刻んでいて、見物人で大変な人だかりだ、という、冗談のような文字が躍っていました。……(略)……苗畑のそばを、私の目の前を、何時の間に、どこから現れたか、じゃらんじゃらんと鈴の音を立てて馬が通って行くのです。馬の上には、裾模様の振袖に、高島田を結った花嫁が、俯いて顔の見えないまま腰かけています。鴉の濡れ羽の高島田には、桜の花片が斑を作っていました。「花の頃を越えてかしこし馬に嫁……」はっとして目をやると、花嫁と馬の後ろから、写生帖を携えた画家らしき男が、付き従うように歩いています。月の光がその男の上に差して、背中に取り付いている、黒いかたまりを浮かび上がらせ、それが、目の潰れた小さな青坊主であると気付いた時、私は手元の奇妙な号外を放り捨て、とうとう、自分でもわからぬ叫び声を上げながら、その場を逃げ出しました。……(略)……それから私は、どうやって下宿へと帰りついたかわかりません。ただ、そこで、兄上様、貴方から届いた、数日前の電報を受け取ったのです。父の死と、それを追うようにした母の死を知らせる電報を。……(略)……恐らく私は、あの時、先生の遺書を読みながら、あの汽車で、門松もない、冥途の旅の一里塚を通り越してしまっていたのでしょう。兄上様。どうか、私の正気を疑わずにおいて下さい。私は確かに理性を以て此処に居ります。しかし、夢なのです。私は、こんな夢を、見てしまったのです。……(以下欠字)





参考:
こころ/吾輩は猫である/草枕/夢十夜(第三夜・第六夜)

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最終更新:2014年06月15日 01:17