『記憶、尊く輝くもの』











「きみは、どうするの?」












―――わたしは空を見上げる。
―――じくじくと疼く痛みに耐えながら。

あの悪夢のような出来事が終わった後、気がついたらわたしは、あの美術館の中に立っていた。
絵空事の世界。あの大きな絵の前に。
その事実を認識した瞬間、わたしの意識は遠くなって、そこから先は覚えていない。
気が付いたらわたしは病院にいて、傍には涙を流す両親がいた。二人が言うには、わたしは二週間もの間、あの美術館で行方不明になっていたらしい。
いつもは優しい両親が珍しく声を荒げ、しかしそれでも嬉しそうに抱きしめてくれるのを感じながら、止まない頭痛を振り払い、わたしはそれを虚ろに聞いていた。

その後は流されるように日々を送った。担ぎ込まれるように入院して、やることがないから窓の外を眺めながら暇を潰した。
警察の人たちからも、色々聞かれたように思う。けれど本当のことは言わない。別の世界で殺し合いをしていました、なんて。子供のわたしでも正気を疑うようなこと、決して。
そして結局、わたしは記憶喪失として扱われることになった。いなくなってた間のことを何も覚えていない、そんな風に。
すわ誘拐なのではないかとも疑われていたらしいが、それにしては不自然な点が多いから単なる失踪として処理されると、お母さんが言っていた。
お父さんとお母さんはそれに腹を立てていたけど、わたしとしてはそちらのほうが気が楽だった。いくら調べても何も出てくることはないと知っているから。
そんなことを、痛む頭で考えていた。

そうして何日かを病院で過ごし、わたしは退院した。
記憶障害と疲労以外、体のどこにも異常はないという診断だったから、数日としないうちに出てこれた。
入院なんて初めての経験だったけど、大分早く出てこられたのだろうなと思う。
けれど、けれど。
けれど、この頭の痛みだけは。どうしても消えることはなかった。
殺し合いから脱出し、病院で目覚めてからずっと続く、この痛み。
お医者様も、こればかりは分からないと匙を投げた。最後には記憶喪失から来る弊害だと言っていたが、しかし記憶喪失はわたしの嘘である以上、原因は他にあるわけで。
あるはずだ。これは決して嘘や幻痛の類ではない。こんなにも、ずきずきと、刺すような、まるでわたしがわたし自身を責め立てているような、ひどい痛みがはっきりとあるのだから。
だけど、その原因が分かる人などここにはおらず。疼く痛みに耐えて、わたしは家に帰ってきたのだ。
幸いなことにこの頭痛はずっと続くものではないみたいで、1日に何度か訪れる痛みを我慢さえすれば、普通に日常生活を送れるようであった。

そうして、わたしは日常へと回帰する。大好きなお父さんとお母さんに囲まれて、満面の笑みを浮かべて。
その笑顔の裏に、痛みと不安を押し隠して。












「きみは、どうしたいの、イヴ」











「ゲルテナ展?」

朝を告げる小鳥たちの囀りと、朝食の美味しそうな匂いにつられて起きてきたイヴの耳に入った言葉。
父と母が話していたそれを、イヴはそのまま問い返す。

「ええ、ゲルテナ展。明日で最終日みたいなの」

「ほら、あれからもう一ヶ月になるだろう? それでちょっと思い出しちゃって、母さんと話してたんだ」

そう話す両親の表情はどこか曇ったもので。わたしたちにとってはあまり愉快な話題ではないのだから、それも仕方ないけれど。
そう、一ヶ月。わたしがこの世界に帰ってきてから、もうそれだけの時間が経っていた。
あの出来事は決して忘れることはないだろう。けれど、その起点となった美術展のことは、正直すっかり忘れてしまっていた。
ゲルテナ展。確か、わたしはそこで―――

―――疼く痛みが激しさを増す。

突然の痛みに、表情を繕う余裕はなく、つい顔を歪めてしまう。
それを見た両親は慌てて明るい声と共に話題を打ち切り、わたしを朝食へと誘った。
思い出したくないものを思い出させてしまったと、恐らくはそう考えたのだろうけど。その心遣いはとても嬉しいのだけど、違う。
ゲルテナ展。そのことについて考えようとすると、酷く頭が痛むのだ。

―――視界の端に、誰かの後姿。

ふと、何かを思い出したような感覚があった。
それが何かは分からない。名前も知らない誰かの姿。
ボロボロのコートを着込んだ、紫色の髪をした人。
頭をよぎったのは一瞬のことで、次の瞬間には視界は平常さを取り戻していた。

「……今のは」

誰だったんだろう。いつの間にか止んだ頭痛のことも忘れて、呆然とそう呟いた。


―――そして、その日の晩のこと。


日暮れの中、学校からの帰り道。友人達からの誘いを断って、イヴは一人思案に暮れていた。
原因不明の頭痛、思い出した記憶の片鱗。思えば、この痛みはあの殺し合いから生還した日から続いている。
それならば原因もまたあの殺し合いの中にあるのではないか。なるほど、そう考えれば理に適う。
日々の対応に追われ、殺し合いから日常へと変遷した環境の変化も相まってそこまで考えが及んでいなかったが、改めて思えば盲点だった。
あるいは、あの狂気がこれ以上関わってくることなどないと、心のどこかで思いたかったのか。

(……そういえば)

ふと、思い出す。全てが終わり、あまりに消耗して立つことさえできなかったわたしに、"彼"が何事かを呟いていたことを。
"彼"、レオナルド・ダ・ヴィンチ。
ジェントル・レオ。あの紳士が、わたしの額に触れ、何かを言っていた。
その時のわたしは半分意識を失いかけてて、よく聞き取れなかったけど。
けれど。

「……優しい顔、してた」

少なくとも、その表情はとても穏やかなものだったと思う。そこに悪意や害意はなかったはずだ。
なら、この頭痛や記憶の原因は、彼にあるのではないだろうか。
しかし確証はどこにもなく、思考は堂々巡りを繰り返すばかり。

結局、いくら考えても答えは出なかった。
夜になり、心配する両親に何でもないとだけ告げて、わたしは自室のベッドに横たわる。
あの殺し合いのことを思い出す。怯えていたわたしを助けてくれたギーや、頼れる人だったM。一緒に戦った栄光や、答えを示したレオのこと。
そして、鋼の"彼"のことを。
"彼"は、イヴが気づいた時には既にどこにもいなかった。ギーが最期に残してくれた力だったのか、こちらの世界に来てからは"彼"の姿を目にすることは終ぞなかった。
分からない。この頭痛の正体も、記憶の意味も。"彼"が一体何であったのかも。

しかし、一つだけ分かることがある。
ゲルテナ展。わたしがあの殺し合いに招かれることになった、始まりの場所。そこにこの痛みと記憶に繋がる何かがあるかもしれない。
何もないだろうと理性は訴える。あれは単なる美術展で、何ら不可思議な要素のあるものではないと。
だが、今はこれしか手がかりがない。例えそれが、名前を耳にして頭痛がより酷くなったという微かなものだとしても。

「……行かなきゃ」

ゲルテナ展に。
それが何かは分からない。けれど何かがあるはずだと、わたしはそう考える。
これしか、手かがりは、ない。












「きみは、何を願うの」











翌日、イヴは両親と共にゲルテナ展に赴いていた。
渋る二人を必死で説得し、もう一度この場に連れてきてもらった。両親とも、もうこの場には来たくない様子だったけれど、未だ子供のイヴは一人では美術展に入ることができなかったから、どうしてもと我がままを言ってしまった。
まあ、滅多に言わない我がままなんだし。そう言って苦笑する両親に心から感謝して、イヴは車に揺られてこの場所へと降り立つ。
ゲルテナ展。出自の分からない記憶を解く鍵があるかもしれない場所へ。

―――微かに思い出せる、後姿。
それはきっと、この記憶の謎に迫る鍵だと思う。
実感なんてない。記憶がないのだから。けれど思い出そうとすると痛み出す。
頭の中で、爪を持った小さな子鬼か鼠か猫が暴れているんじゃないだろうか、とか、そんなことまで考えられるようになってきたのは、こういう状況に慣れてきた証なのかも知れない。

「……」

声にならない、溜息をひとつ。

「……すごい眺め」

ゲルテナ展は最終日ということもあってか、非常に大勢の人でごった返していた。
かつて自分が訪れた時は比較的空いていたが、この盛況ぶりを見るに、ワイズ・ゲルテナという芸術家はかなり人気があるようだ。
列に並び、両親に告げて一人で中を見て回ることにする。
かつての事から、両親はわたしが一人で歩くことには反対だったけど。でも、これだけは自分の手でやらなきゃいけないから。どうしてもと頼み込んで認めてもらった。
わたしは一人、展示品を確認していく。

深海の世―――違う、これではない。

悪意なき地獄―――これでもない。

絵空事の世界―――近いものを感じるが、けれど違う。

それらを見て回るたび、痛みは少しずつ強くなっていく。
わたしは痛みに強いほうじゃない、そういう自覚はある。怪我をしたらすぐ泣いてしまうほどに。でも、わたしは、歯を食いしばって、頭の奥の痛みと胸の奥の嫌な塊に耐えながら、展示品を確認していく。
そして―――

「……見つけた」

見つけた。それは、一枚の絵画だった。
一人の青年が描かれた油絵。それを見た瞬間に、奇妙な感覚を味わって。

描かれているのは若い青年。似ている、と思う。記憶によぎる誰かの後姿に。
はっきりとした見覚えはない。やっぱり、ない。湧き上がる記憶も、ああそうかという実感もないというのに。

「知ってる」

わたしはきっと、知っている。
―――思い出せなくとも。
―――今にも嘔吐しそうなくらい、胸が詰まっていても。

頭が痛い。頭が痛い。
痛みはもう、耐えられないくらい酷くなっている。
けれど、立ち止まることはしなくて。
その絵画に向けて、ふらふらと近づいていった。

「この人は……」

「きみの、大切な人だったね」

ふと、自分以外の誰かの声。それは背後から聞こえてきた。
その時、もうわたしは殆ど何も考えられなかったと思う。頭と胸の痛みと、原因不明の幻視。体はともかく精神的には疲れ果て、頭もぼんやりとして。
うわごとに近い自分の呟きが何であるとか、誰かが聞いているとか、そういうことにも考えが及ばなくて。

だから。
わたしは、ぼんやりと顔を上げて。

声をかけてきた、"誰か"を見るの。
あなたは、誰?

「覚えているの、イヴ」

綺麗な声。聞き覚えのない声。誰、あなた。
男の子か女の子か分からない、黒髪の子。
わたしと年の変わらない、子供。
気がつけば、周りからは音が一切消えていた。あれだけたくさんあった人の気配も、残らず消えうせていた。
わたしと、この名前も知らない子以外、この場所には誰もいない。

「あなたは……」

自然と、わたしは手を差し伸ばしていた。
誰かは分からない。けれど、どうしようもなく懐かしいこの子に、手を伸ばして。
頬に触れる。綺麗な白色の、柔らかな頬に。

「イヴ」

その子は、わたしの名前を呼んだ。
そして、言った。

「きみは」

わたしと同じように、絵画の前で立ち尽くして。
頬に触れたわたしの手を取って。

「何を願うの」

―――わたしが、何を、願う?

「わたし……わたし、は……」

―――わたしは。

―――痛み。

―――空白。

―――そして、胸が張り裂けそうなほどの不安。

「わたしは……」

「何を、願うの?」

「……わたし、の……願い、は……」

わたしは告げる。
それは、言葉になったかどうか、定かではないけれど。









「…………」









わたしは瞼を閉じる。
この頬を伝って流れ落ちるものがあった。暖かな。
そして。
わたしは、思い出す。

ボロボロの服を着て、ちょっと変な言葉遣いで、わたしに見つかるまでずっと斃れてて、実はちょっと怖がりで、でも何より強い勇気を持っていたあなた。
彼の名前、名前は。
そう―――

「わたしは―――ギャリーを助けたい」

全てを思い出す。
異形の美術館のこと。そこで助けてくれた彼のこと。

「それが、きみの願いなんだね」

わたしの言葉を聞いて、黒髪の子は静かに微笑む。
ああ、あなたは。

「そうだよ、ポルシオン」

今、わたしは確信する。
この子の名前は、ポルシオン。
生まれなかった命のひとつ。ギーと、わたしの背後に佇んでいた鋼の"彼"。
けれど今は違う。鋼ではない、確かな人のかたちでそこに在る。

頬に触れる。暖かな、真紅の鋼ではない彼の頬に。
そして。
ポルシオンと呼ばれた子が、わたしに手を差し伸べる。
小さく綺麗な、細い右手。それに重なるように、黒い影が現れて。

―――鋼の右手が―――
―――空間を裂く―――
―――鋼の兜に包まれて―――
―――鋭く輝く、光がひとつ―――

「きみを見ているよ」

そこに在るのは異形の影。《奇械》と呼ばれる御伽噺。
ポルシオンと呼ばれた彼は、既に鋼の姿になって。
それでも、綺麗な声は何も変わらない。

「きみを見ているよ、イヴ」
「刃でも影でもない、きみの手が」
「きみの願いが、何に至るかを」

告げる彼に、イヴは静かに手を寄せる。
刃の右手に、重なり合う白い繊手。
何の力もないイヴの右手。しかし、ある種の実感があるのだ。
背後の"彼"にできることは、なにか。
イヴと"彼"がすべきことは、なにか。
かつて、なにをすべきだったのか。
わかる。あの時と同じように。

そして、またひとつ思い出す。
この記憶を、何より失いたくなかった記憶を取り戻すきっかけとなる、出来事を。



『これで君の願いのきっかけが戻ってきたはずだ。君の願いの果ては、君自身がたどり着くべきものだからね』



ジェントル・レオ。万能の王たる彼。
今までわたしに在った頭の痛み。これは、彼がくれたきっかけ。
人の輝きを、尊さを、なにより奉じる彼がくれた、最初で最後の贈り物。

「……行こう、ポルシオン」

"あの場所"へ繋がる道は、既に"彼"が作っている。
鋼の右手が空間を裂き、そこには奥へと続く階段がある。
そこへと、わたしは歩みを進めた。

不安がないと言えば、嘘になる。
怖い、泣きたい。もう二度と、あんなところになんか行きたくない。
けれど、けれど。
―――けれど。

「―――今度はわたしがあなたを助ける番だよ。ギャリー 」

けれど、なにより譲れない想いがあるから。
ただ、右手を伸ばすのだ。
かつて助けられなかった人に向けて。
力の及ぶ限り、ただこの手を―――









そして世界は輝きを取り戻す。
忘れられた肖像はもう、何処にもいない。

【オールジャンルロワ イヴ 完】

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2014年09月18日 04:40