何かまぶしいと思って眼を開けると、抱えているギターのペグが光っていて、なぜかと思って見ると、数日前から閉めきっっているカーテンの隙間から差し込む日光が反射していた。
目が覚めて、水銀燈はまず寒いと思った。鈍い頭で思い出すと、信じがたいことだが昨日自分は泣き疲れて、帰宅したそのままの姿で眠ってしまったのだった。
身体を起こすと、床に寝ていたせいで肩やら背中が痛い。おまけにコートも脱いでいなかった。
脱いでいたら風邪をひいていただろうが、今のところ状況のわりに気分は悪くなかった。
立ち上がってカーテンを開けると、視界が強烈に白く、目を細めた。
光に慣れてから見ると、外は雪が積もっていた。
5~10センチほどだろうか、空は晴れているから、今日中にとけてしまうだろうが、今は地上のあらゆる物の上向きの面があらかた白に覆い尽くされていた。
しばらくぼうっとその場に立って、普段と色違いの光景を眺めていた。
雪に隠されたせいで、普段意識しない窓の外の、雪の前の光景と照らし合わせて、あそこには郵便ポストが立っている、あの屋根は柿色の瓦だった、あそこには生垣がある、といった風に、物や建物の存在や配置の細部へと注意が向かう。
どのくらいそうしていたか、ぼんやりと聞こえてきた、くぐもった低い音で、我に帰る。
振り返って昨夜からほったらかしの荷物にふらふらと近づき、携帯を取り出すと、振動とLEDの発光が着信を注げていた。『CALL:薔薇水晶』の液晶表示。
昨日病院でマナーモードにしたままだった。二つ折りの携帯を開く手が、少しかじかんで動かしづらい。後で銭湯に行こうと思った。
『……おはようございます……お姉さま』
普段しゃべっていると周りの音に紛れて聞こえづらかったりする薔薇水晶の声は、電話だと不思議と聞き取れないということがない。
それにこんな朝から……今何時だろう……食卓の上の置時計を見る……6時20分、ということはやはりこんな朝早くに電話をしてきたことも、これまでに無い。
「おはよう……だけどちょっと早すぎじゃないの」
『……すみません、お休みでしたか』
「いいえ、さっき起きたとこ。別にいいんだけど、どうしたの」
『お姉さま』
いきなり『……』無しだった。
『お風呂へ参りましょう』
その言葉の後、部屋のブザーが鳴って来客を告げた。
まさかと思って扉を開けると、さすがにまさかで、いつも配達に来るヤクルトのおばちゃんだった。
「……びっくりさせないでよね」
ヤクルトを受け取り、おばちゃんが原付きで去っていく音を背中に聞きながら引き返すと、今度こそまさかだった。
『「……おはようございます、お姉さま」』
薔薇水晶が携帯を持って部屋の真ん中で正座している。
目の前からと携帯から同時にセリフが聞こえてきた。
『「お風呂へ参りましょう」』
水銀燈は携帯を切り、ヤクルトのフタを歯で開けて、薔薇水晶にも一本投げて渡した。
◇
近所にある24時間営業の銭湯で風呂につかって、サウナに入った。
並んで座った隣で、さすがの薔薇水晶も全身に汗を浮かべているが、表情はやはりいつもと変わっていない。
これが意識的でないとすれば、この娘は極端に生理と感情の結びつきが薄いのかもしれない。
たまに考えることだが、考えるだけで別に何をどうしたいわけでもなかった。
身体が温まるにつれて、身体の各部がまだ少し痛むことを除けば、水銀燈は妙にすっきりした自分の気分を不思議に思った。
やはり、泣いたせいだろうか、と考えて、まさか薔薇水晶がそのことを知るはずは無いが、自分の思っていることがひょっとして伝わりはしないかという考えが不意に浮かんでしまい、思わず横目で薔薇水晶を見るが、冷静に考えて伝わるはずもなく、少なくとも見た目にはさっきから特に変わりなく、薔薇水晶は肌だけをほんのりと紅くして座っていた。
「それで、こんな朝からどうしたわけ?」
水銀燈はさっきから気になっていたことを訊いた。
と言っても薔薇水晶の行動が突飛なのは前からなので、納得いくような解答が得られるとも思っていなかった。
「……もう大丈夫」
「……え?」
「こうして……洗い流せるものも、あります」
だからやっぱりその言葉も、まず文脈に沿っていないのだが、喋っていればその言葉の内容が時系列とか因果関係とかを無視した内容でもぼんやりとわかってくることもあるのが薔薇水晶なので、とりあえず訊き返して話をつなぐ。
「よく来るの?」
「はい……お風呂は良いものです……湯上りはもっといいものです」
「ふぅん、あなたが銭湯好きとは知らなかったわね」
「お姉さまは……?」
「部屋に無いから、まあ来てるわ。わりに会わなかったみたいだけどぉ」
「私は……朝専門です……」
あっそぉ、と息をついて、水銀燈は後ろの壁にもたれかかった。わかってこないこともある。
額の汗と水滴を手でぬぐったりしながら、またしばらくじっと座っていると、昨日のようだ、と思った。
昨日も突然薔薇水晶が現れて、こうして黙ったり、話したりしていた。
それは別に悪いことではなくて、むしろ逆で、結果、自分のために薔薇水晶がしてくれたことだった。
本当は水銀燈にしてもわかっていないわけではなくて、今もきっとそうなのだろうと思っていた。
そんなことがこれまでに……薔薇水晶から、ということではなく、他人から……あっただろうか?めぐと会う以前に?
なんとなく、浮かんでくる顔がいくつか、あるのだった。
(紅茶マニアに、顔以外似てない双子に、うにゅーとかしら、あとメガネとか剣道娘……)
別に何をされた覚えが……いやうっとおしい思いをした記憶は色々あるが、
特別なことをされた記憶があるわけではない。
なのに、色々な場面でお互いがどのような言葉を交わしてきたかもいちいち覚えていないのに、何故だろう。
「薔薇水晶」と呼びかけると、わずかに身体をこちらに傾けた。
やはり昨日のようだ、と思って、次に『打ち明け話』という言葉が浮かんだ。
らしくない、と思った。この雰囲気は、苦手だ。昨日は考えもしなかった。
けど、なんだか、この状況は出来すぎている。
それで恥ずかしいような気がして、言おうとしていたことを、何を言おうとしていただろうか、そう、思ったことをただ話してみようと思っただけだったが、それをひっこめて、代わりに何を言おうか考えていたところで、
「めぐのところに行きましょう」
と、薔薇水晶が前を向いたまま言った。
「私たちで……話をしましょう。
言っていなかったこと、言いたかったこと、言いたいこと、聞きたいこと、聞きたかったこと……
これからのこと、なんでも」
本当は薔薇水晶は、昨夜の水銀燈のこともわかっているのかもしれない。
と言うより、多分自分にはわからない色んなことがわかっているのだろうと思った。
昨日までならつっぱねていただろうその提案が、今は素直に受け入れられる気持ちだった。
「そうね」
水銀燈はうなずいた。
めぐの顔を見たら、今ならきっと色んな話ができるだろう。
「そろそろ出ようかしらぁ」
と立ち上がった時に、きゅうぅ、と水銀燈のお腹が鳴って、ごまかしようもなく、空腹がわかった。
そういえば、今朝のヤクルトの前には昨日の昼にピルクルを飲んだ以外、何も口にしていない。
しばらくの沈黙の間、水銀燈はサウナでもう赤くなっていて、よかったと思った。
「……行きましょう」
薔薇水晶が立ち上がって、水銀燈の手をとった。
「どこかで……モーニングを頂きましょう……おいしいご飯で……元気になれます」
そう言って振り向いた、サウナの暑さの中でも表情に変化のなかった薔薇水晶が、少し笑っているように見えた。
「その前に水風呂よぉ」
と言って、逆に薔薇水晶を引っ張ってサウナを出た。
◇
ある時間が過ぎれば、その時間の内に起こりうることは、起こる。
だから予期しない出来事というのはは予期していないのが当たり前で、予期していたらそれは、『出来事』などとも考えずに過ぎ去っていく。
この場合はそして、起こった。
毎日のように通っている水銀燈だから特に面会の手続きもせず、薔薇水晶と連れ立ってまっすぐに病室を目指してエレベーターに乗って目的の階に着き、扉が開いて聞こえてきた音が慌しいまばらな足音と緊張を含んだ響きのいくつかの声だったために、「まさか」も何もその時には思う暇もなく、ただ一瞬薔薇水晶と顔を見合わせて、早足で進んだ。
だから「何も思う暇も無かった」とは思わず、後で思うことも無かった。
オレンジ色の日が射しているから日没も近くなった病室で、水銀燈は眠っているめぐのベッドの傍らに座って、時間の経過と物事の順番が一致しない記憶の中から、まずめぐが生きていること、次に発作を起こして一時やや危険な状態に陥ったが、処置によってそこからは脱して、今は小康状態にあるということ、詳しい原因はわからないが、体力が著しく低下していたため、空調があるとはいえここ数日の急激な気温の低下も関係しているかもしれない、しかし意識は二、三日中に戻るだろうと誰かが言っていた内容のことを思った。
直接医者か看護婦に聞いたのか、隣にいる薔薇水晶から聞いたのかは覚えていない。
めぐの枕元でいわゆる心電図というものが一定の間隔で電子音と緑色や青色で数字と波のような表示を繰り返していて、それは今現在の安定を感じさせてはくれたが、そんなものはこれまでここで見た事が無かったし、さっきの速い感覚で鳴っていた音の不安な感じの方がまだ強く残っていて、さっきまでめぐが危険な状態にあったことの証拠みたいなそれを外してしまいたいが、 外しても起こったことはなかったことにはならない。
今になって手と唇がかすかに震えているのを感じて、足も、た、た、た、とブーツの踵が弱く床を叩き続けていた。
後ろでジャッ、と音がして、ずっと見ていためぐの、呼吸器をはめられた顔に影がおりて、西日が直接めぐに当たっていたのだと気づいた。
ロールカーテンを下ろした薔薇水晶が戻ってきて、また隣に座った。
「……何やってるのかしら、私は」
独り言のように、半分は薔薇水晶に向けて言った。
ここへ来た時から医者たちが行きかう様子と、その合間から見えるぐったりした様子のめぐを前に、自分はぼさっと立っていただけで、薔薇水晶に促されて、出入りの邪魔にならない場所でほとんど何も考えることができずに居ただけだ。
思えば、めぐの病気についても自分はほとんど何も知らない。
本人があまり自分の病状について言いたがらず、普段も元気いっぱいとはいかないまでも、普通程度に見えるふるまい(あれはだから無理をしていたのか、気力のようなものがそうさせていたのだろうか)をしていたこともあるだろうが、めぐが病気であることを現実として実感したのも、入院の知らせを聞いて初めてこの病室に駆けつけたつい何週間か前、その時だけだった。
(ごめんね、水銀燈)
弱々しく笑っていた。
「ごめんね、めぐ」とは言えなかった。本当なら言いたかった。でも、あまりに何も知らなかったくせに、知ってたとしてもどうせ何ができたわけでもないのに、言葉だけで謝るなんて、できるはずがなかった。
めぐが苦しんでいる間、長い間、そして今日も、何もわからずにいた自分を、歩いている自分を、その背中を見ている、頭上から見ている、鏡ではなく真正面から見ている、視点が次々と浮かんできて、ぐる、とめまいのような、身体が傾いたかと思ったが、頭を少し手で押さえて、 その一瞬の間に、心にある感情が入り込もうとしたが、踏みとどまった、と水銀燈は思った。
『引きずられていってはいけない』と水銀燈は思った。
めぐは、一度危険な状態だったかもしれないが、今はまず、大丈夫になった。
逆ではない。逆ではないから、『危険な状態だった』ことに引きずられて、意味の無い自責とか、悲しみ……自分の初めてそれと知った感情だが、それを噛みしめている場合ではない。
場合ではないというか、それには完全に意味がない。
意味がないだけじゃない。それは……絶対に違うことだ。
めぐの顔を見ると、薔薇水晶とここに来ようと話した今朝思ったように、次々と色々な言葉が、気持ちが浮かんでくるのだった。そしてめぐの目が覚めた時には、一番に言いたいことがある。
それはめぐのことを考えれば、一人よがりの言葉だと思う。それでも、伝えたかった。
だから今はその知ったものを持っておくのだと、水銀燈は思った。
しばらく見失っていた自分の音とともに、それは新しく見出したもうひとつの自分の言葉で、その新しい言葉で、めぐと話さなければいけない。
(だから、めぐ)
そっとその白くひんやりとした頬に、涙をすくうような形で指をあてた。
(待ってるから)
◇
しかし、二日過ぎ、三日過ぎ、一週間、二週間、三週間が過ぎてもめぐは目を覚まさなかった。
最終更新:2008年06月17日 22:20