パラソルの下とはいえ、砂浜の熱気は強く、だというのに団扇で真紅を扇ぐ手を止めるわけにもいかず、ジュンは額や首筋にじわじわと汗が染み出すのを感じながら、20メートルほど前方の波打ち際でわいわいきゃっきゃと声を上げて水をかけあったりしている翠星石たちの様子を眺めた。
楽しそうだった。何より飛び散る水しぶきが涼しそうだった。
隣で真紅のグラスから氷の音がした。とっくにぬるくなったペットボトルのお茶をあおった。
「ジュン、手が止まっているわ」
真紅の声でそのことに気づいて、止まっていた手をまた動かす。
「おまえは行かないのか」
行ってくれれば不必要な運動をしなくてもすむんだけどという意味もこめて、ジュンはさっきから気になっていたことを訊いてみた。
ここはけっこう暑い。普段から暑いだの寒いだの喉が渇いたのと環境の快適さには人一倍うるさいはずの真紅が、この熱気の中で海に入らないのはどういうわけなのか。体を動かすのが面倒とか?
「……ここで充分なのだわ」
「別に荷物なら見てるし、暑いだろ。せっかく来たんだからさ、みんなと」
そこまで言ったところで真紅がのそりとデッキチェアから上半身を起こした。
見上げるとこっちを怖い顔で睨んでいた。そんなに怒るようなことを何か言っただろうかと会話の内容を振り返っても心当たりは無い。
「……わ、私はここがいいの」
怒りの表情からまたぴしゃりと来るものと予想したが、何故か歯切れの悪い感じで真紅が目線を外して言った。
その態度には少し違和感を覚えたが、暑さのせいでとにかくやる気がせず、追求しようという気も起きなかった。
「で、ずっと僕が扇いでなきゃいけないってわけか」
とにかく海に入る気が無いのならそういうことになる。
ジュンは当てつけというかささやかな反抗を見せただけのつもりでそう言ったのだが、
「なら別のことをしてもらおうかしら」
と、真紅が言って、デッキチェアから降りるとジュンの目の前に背中を向けて立ち上がった。
目の前をするりと落ちていったのは真紅が腰に巻いていたパレオだった。
砂の上に落ちたそれを反射的に追った目線が、別の白さにひきつけられて上へ。真紅の肌の色だった。
細いふくらはぎ、脚、腰から背中の曲線、肩甲骨の上を横切る細い水着の紐、普段は見えない首筋、そしてバレッタでまとめて留められた金髪の毛先だけでなく、髪全体の輪郭が日差しに透けて、それ自体発光しているみたいに見えた。
その強い光に目を細めて、狭まった視界の中で真紅の全身は、髪も、水着も、肌も、もとの色以上に白く、強く輝いていた。
しかしそれもほんの一時のことで、真紅がぐっと空に向かってのびをした腕と踵をおろし、振り返ってこちらを見たその目には、数秒前までの自分の間抜けな表情……たぶん、口を半開きにして、見とれていた……はもう映っていなかっただろう。
とは思ってもあまり自信は無くて、ジュンは顔を伏せて「別のことって?」とだけ訊いた。
そういえばずっと日陰にいたから、日差しの下で真紅の水着姿を見たのは今日初めてだった。
真紅は無言でシートに上がるとジュンの隣に来て屈みこんで、ジュンがその急な近さに動揺して目線をさまよわせている間に後ろの荷物から「あったわ」と何かを取り出して持った手を差し出して来た。
白っぽいチューブのようなそれは、歯磨き粉なわけはなくてそれよりは少し大きめで、良く見ると『UV Cut』と印字されていた。
「……日焼け止め?」
「塗って頂戴」
その意味するところを2秒ほどかかって理解し固まっていると、汗が流れて目に入った。
沁みる目を首に巻いたタオルで拭っていると真紅が動いた気配がして、ジュンの隣に座って日焼け止めを塗り初めていた。
腕や肩にチューブから絞り出された乳白色のフォームが乗ったかと思うと手の塗る動きの下で見えなくなっていって、かわりにその部分につややかな反射を残していった。
お腹や脚にもその手が伸びて、そこでじっと見すぎていたと思って見すぎていたことを見られたかと真紅の顔をうかがうと、そんなこともなくて、うつむき加減でけだるそうに伏せられた長い睫毛が目に入った。
ゆっくりとしたまばたきの下の瞳は手足に視線を落としていて、光が映っていないせいか奇妙に立体感が無くなって見えた。
顔だけでなく、パラソルの下で、背後の風景より数段光を欠いた影に覆われた真紅の全身は、まるでそこだけ切り取ったように浮き上がっている、と言うよりむしろ後退しているかのように見えた。
さっきは強すぎる光を感じた同じ相手が、今度は平面のようにも見えながら、ゆるやかに動いている。
それとは逆に背景の砂の白と空の青が強くこちらに押し出されている。遠近感が狂っている。
「なにをぼうっとしているの」
わずかに覗きこむようにこちらに身を寄せてきた一瞬で、砂浜と空と雲が遠ざかって真紅の全身が立体感を取りもどした。
「あ、ああ」とあまり意識していない返事をすると、手に何かを持たされて、さっきの日焼け止めのチューブだった。
塗れとか言ったくせに自分で塗ってたなそういえばと遠い以前のことのように思い出していると、真紅が今度はうつぶせにねそべって、と思ったら寝そべったまま自分のカゴみたいなバッグからタオルを取り出して顔のところに置いた。
枕代わりだろう。だろうということはその姿勢でしばらく動かないということで、つまりああやっぱり僕が今から塗るのか、背中に、と意識したら、これまでそんな経験は一度も無いというか女の子にまともに触れたことさえそうそう無い上、改めて真紅を女の子だと思うと強い違和感を感じてじゃあ普段何だと思っているんだという声は目の前の真紅が言っても無いのに真紅の咎める声として頭の中で聞こえて、言われても無いことにいやだからそれはと心の中で口ごもっている間に真紅が自分で水着の紐を解いた。
「ジュン、塗り残しのないように」
見ないようにした。それでも、どうしても、ちらっとだけ見えてしまった。
顔の下に腕を敷いている真紅の、無防備な脇腹に、わずかに、わずかに確認できるふにっとした、胸の、ふくらみが、つまり、つぶれて……
ジュンは即座にメガネを外して畳むと、自分のショルダーバックを開けてメガネケースに放り込むと、ぼやけた視界で、座ったまま90度回転すると真紅の方を向いた。
ド近眼の裸眼視力では、のばした自分の手の指と爪の境目さえはっきりと見えなかったが、なるべく真紅の側面を見まいと真上から背中を覗きこむように正座から膝をついたまま腰を上げるという無理のある体勢をとった。
そのまま震える手で真紅に渡されたチューブをしぼり、日焼け止めのクリームっぽい感触……その、ぬるっ、とした……を軽く伸ばした指の先で、真紅の背中の真ん中に触れ、る前にいっそ手の甲で塗るべきかとも思ったが不自然すぎるのでやめた。
だが普通に塗るとして指先を使うのと手のひらを使うのとどちらがよりマシか判断がつかなかった。
マシというのは、つまりこの真紅の命令に含まれる不可避のジレンマであるところの異性への接触をどれだけ無機的に、他意なく達成するかという意味においてマシということだが、なるべく感触の無い小指側の腹を使うか。
だからそれも変か。妙に意識する方がおかしいのか。いや、こんなことを男の僕に頼むのがそもそもおかしいんじゃないのか。
いや真紅を相手に男とか女とか意識する僕がおかしいのか。真紅は意識してないからこそ僕に頼んでるんじゃないのか。
僕の一人相撲というわけか。夏の女神とやらがいるなら別にそこらのカップルの世話を焼かなくてもいいから、そこのところだけ教えてくれないか。僕に。おそらくこの海岸にいる人間の中で一番困ってる僕に。神だろ。
「ジュン?何をしているの、早くして頂戴」
顔だけこちらに向けた(それくらいは見える)真紅の急かすような声に押され、反射的に指が真紅の背中に触れた。
触れてしまった。熱い。そして、やわらかい。肌、に触れている。
思考というより物として頭の奥にある脳がオーバーヒートしそうだった。
しかしじっと触っているのもおかしいから、そう、塗らなきゃならない。素早く塗って、素早く終わる。それだけが救いの道だ。
などと筋道だてて考えられるような落ち着きはなかったから、とにかく事前に強く意識していた、この苦行の終わりだけを思ってクリームを塗り始めた。
手のひら全体を使ってすっ、すっ、とのばす。のばす。丁寧に。ムラなく。塗りすぎず。塗り残しなく。
これでいい。すぐ終わる。なにせ、薄い小さな背中だ。直接触れて改めて感じたのは、そのことだった。
細い首、小さくて丸い肩。この季節なら多くの女性がうらやむような腰まわり。
別に男の体を見たり触ったりに慣れているわけではないが、真紅の体全体の小ささはやはりジュンにとって異質なもので、意識から外れかかっていた「異性」を強烈に感じさせて、それと同時に戻ってきた思考力がさっきから真紅が首や肩や腰に触れるたびに小さく体を震わせていることに気づかせた。
……細い、首?
……肩……腰?
ジュンは手を止めた。止めざるをえなかったが、悪いことにその手のひらはまさに真紅の腰にしっかりと回りこむかたちで固まっていた。
「……ジュン?」とわずかにうわずった、疑問系の声。
理由はわかっていた。真紅がすごく小さな声で呟いた。
「そこは……自分でも」
「……すまん、勢いで」
自分で塗れないのは背中の真ん中あたりだけで、腰とかわき腹とかうなじとか肩とかそんなところは真紅自身で塗れる。
いうかさっき塗っていたんじゃないだろうか。そんなことも頭から飛んでいた。
ゆっくりと引き剥がすように真紅の腰から手を離した。もうとっくに塗るべきところは塗り終えていた。
手のひらをひっくり返して見る。日焼け止めが残っていた。それだけでなく、真紅の肌の熱さと、首すじや肩や腰の感触までもがまだ消えていなかった。
つまりそこ全部に触れてしまったわけだ。ぬるぬるで。わりとスピーディな感じで。
広げた指の間から真紅が後ろ手に水着の紐を結んでいるのが見える。
さて一目散に逃げ出すべきか一応土下座してでも謝ってみるか、逃げ出すなら海の家の方向にして、何か甘いものでも買って戻れば少しは罪滅ぼしになるだろうかと考えるのも馬鹿馬鹿しいほどに忘れていた暑さが猛烈に戻ってきて自分の身の安全を含めてもうどうでもいいという投げやりな気分になって、ペットボトルの底に残ったお茶を飲みほした。苦味が強く残っていた。
そのうち隣で真紅がすっくと立ちあがって、水着を直す気配がした。
投げやりな気分が一瞬で遠のいて、同時に血の気も引いていくのがわかった。
海の方を向いて座るジュンの隣で、真紅は真後ろを向いて立っている。
振り向きざまにでもいつものツインテールビンタが飛んでくるかと予想を立てるが今は髪型が違っていたからそれはない。
蹴りでもくりだしてくるか。ちょうどいい位置にある自分の顔。その場合メガネは外してあるから破壊は免れることになる。
代わりに顔面を守るものは無い。いや後ろまわし蹴りが後頭部から来ればどっちみち同じか。
しかしジュンの被害シュミレーションに反して真紅はシートをおりてまたデッキチェアの上に腰掛けた。
ぎきっ、と少しだけチェアが軋んで、そのままだった。寝転がりもせず、こちらの方を見ている視線を感じた。
もしかして軽蔑?無視?やっぱり?急に肋骨の下あたりが痛んだ。ショックということか。
いっそいつもよりひどくても罵倒されて往復ビンタでもくらった方がマシだった。
「あのさ……ごめん」
顔を見ては言えなかったが、どうにかそれだけを口にしてジュンは真紅の反応を待った。
「……かまわないわ」
しばらくしてそう言われたような気がした。
「……そうか……そうだよな……かまわないよな……ん、んん?」
「べ、別に気にするようなことじゃないのだわ。
多少、多少日焼け止めを無駄づかいしたかもしれないけれど
塗り残しの無いようにと言ったのはこの真紅だし
下僕の勤めとして命令を不足無く果たそうという心構えがそうさせたというのなら
今後より一層注意を払うよう努力するのは当然として別に咎め立てするようなことではないわ」
真紅がすごい早口で言った。平たく言うと許してくれるということだった。
真紅の攻撃に備えていた体の緊張が解けて、一時完全に止まっていた汗がどっと噴きだした。
「そ、そうか……わ、悪かったな」
安心したせいか、また変に素直に真紅に謝ってしまう。
よくよく考えるとだいたい変な命令をしてくる真紅がそもそも悪いというか原因なのだから、これで文句でも言われたらむしろこっちが怒っていいようなものだが、これが飼いならされているということなのか。
従順になっているのか僕は。長年の習慣によって。
そのうち金髪の女というだけで逆らえなくなるんじゃないだろうか。
ここが日本でよかった。海外旅行とか絶対行かないからな。
急激に喉が乾いて、ジュンはクーラーボックスを開けた。氷水の中に数本の缶やペットボトルのジュース類が浮いたり沈んでいる。
数えると6本あった。自分以外の6人分。買ってくるしかない。
真紅の方をうかがうと目が合った。正直まだ顔を直視できるほどにはさっきの出来事及び感触をを忘れられていなくて、手元に視線を落とした。
クソ重かったクーラーボックスだが、その中身が今はきんと手を包んで、この暑さにはありがたかった。
「ここはいいから行ってきなさい」
……解放?
ありえない。真紅が「飲み物を買ってきていい」と言っている。僕は脱水症状でも起こしそうに見えてるのか。
「荷物は見ているから」
一瞬の混乱のあと、いいのか、とか余計なことは聞かずにジュンは立ち上がった。
真紅とのつきあいにおける鉄則の一つ、気が変わらない内に動く、今がその時だ。眼鏡、忘れるところだった。
「それと」
サンダルを履いて日差しの下に出たところで、真紅に呼ばれて振り返った。
「翠星石たちの様子を見てきて頂戴」
言われて見ると、さっきまで波打ち際に見えていた5人の姿が無い。
少し離れた、沖の方にそれらしき人影が見え、今どういうわけかかすかに届く悲鳴とともに宙を舞って着水、水柱を上げたのは金糸雀だろうか、たぶんそうだろうが、いつの間にか随分離れたところに行ってしまっている。
「あまり遠くに行かないようにと、乙女たちに変な虫がつかないように、見回りに行くのも下僕の勤めだわ……と言うより、」
いつもの下僕うんぬんのくだりを、はいはい……と背中で流して歩き出そうとしたところに、
「紳士の務めね」
思わぬ言葉が来た。
こんな時だけ人を持ち上げようってか。
実際、まあ一緒に来てる以上、最低限のことはするつもりだ。真紅の傍にいるとそれが最大限になりかねないけど。
その自負心みたいなものに対してその言葉が向けられたようで、悔しいけど悪い気はしなかった。
「おまえこそ変な虫、寄ってくるかもよ」
冗談めかして言ってはみたが、正直、真紅は人目を引くし、そこは心配と言えば心配だった。
しかし真紅の反応はそんな程度の懸念をばっさり斬って捨てるような、
「私を誰だと思っているのかしら」
というものだった。
水銀燈みたいなこと言いやがる。
まあ実際問題、あんなのをまともに相手にできる奴はそうそういない。
自分がそのそうそういない人種になってしまっていることに複雑な心境を抱きながら、今度こそ、はいはい……を全身で表しつつジュンは歩き出した。
◇
ジュンの背中が人とパラソルの間に紛れるのを見送った後、真紅は上体を倒して、頭上のパラソルの裏側を見つめた。
その反対側、日差しにさらされている表面はとても熱くなっているだろうと思った。
きっと触っていられないくらいだろう。
ここから届かないその表面の代わりに、真紅は自分の首筋に手をやって、その温度は不思議と熱いようで冷たかった。
首筋と、肩を撫でて、その感触が、さっきジュンに触れられていた時の感触としてよみがえってきて、
「……馬鹿ね」
一人つぶやいてから、水銀燈みたいだと思った。
人は冷静さを失った時に、自分らしくない、と言うが、それどころか他の誰かのようになるのかもしれない。
真紅はクーラーボックスが開けっぱなしのままになっていることに気づいて、中から自分の分のアイスティーのボトルを取り出した。
「……これは」
いつもの一日の後半を示すラベルとは違うものだった。
今日来る前に皆で100円ショップに寄って色々と買いしてきた、その時ドリンクは金糸雀の担当だったはずだが、今手にしたそれはいつも飲んでいるものと微妙にラベルが似ているもののしっかりと別物、ショップオリジナルのドリンクだった。
(後でお仕置きが必要だわ……)
怒りに震える手で仕方なくボトルのキャップを開け、勢いよく中身をあおった。
変に苦味が強かった。
最終更新:2008年07月18日 11:38