一体、自分の目の前で何が起きたのかが、未だに解らなかった。
つい先ほどのことだというのに、記憶が欠落したようにまるで思い出せない。
呆然と、辺りが静かになるまでずっと俺は動くことが出来ないでいた。
ふと持っていたはずの鞄が何処かに投げ飛ばされたことに気づき、ようやく放心状態から覚醒する。
四つん這いのまま目を上げると、夕暮れの茜色の中、自転車が倒れているのが見えた。
しかし、その姿はどう見ても明らかにおかしかった。
まずハンドルのフレームが奇妙な方向に捻じ曲がっている。
それに、よく見ればその車体はどこもかしこも傷だらけで、カゴに至ってはぺしゃんこに潰されていた。
完全、大破。
それはまさに、我が愛車の無残としか言いようの無い最期の姿だった。
「嘘だろ……?」
━━━━どうして、こんなことに?
声にならない思いを抱きながら、俺はまだ朦朧とする頭を振った。
思い出せ。
そうだ。とにかく、落ち着いて思い出してみよう。それから動き出すというのも遅くない。
確か俺は、いつも通りに学校から家へと帰宅途中だったはずだ。
塾の時間まではまだ随分時間があったし、それに家に帰っても何もすることが無かったので、ぶらぶらと自転車を降りて歩いていた。
そして、帰り道にある、県内では複数店舗を抱える有名書店に寄り、毎月購読している雑誌を購入する。
ああ。ここまではオッケーだ。
それから俺は……。俺は夢想に耽っていたんだと思う。
何を?
いや、別に人様に言えないような不純なことでは断じて無いぞ。
書店で買ったばかりの雑誌の内容やら、明日の授業のこと、はたまた進学のことなんかを気ままに夢想しながら、自転車を押し帰路を歩いていたのさ。
青臭い青春チックにな。
えっと……それから、どうなった?
一体、何が起こった?
「あ」
からからと虚しく回る自転車の後輪の音に、意識を引き戻される。
いやに地面が堅いと思い、四つん這いの上半身を起こした。
見るとそこはコンクリートの上だった。
ハシゴ状の白線のようなものが敷かれ、少しだけ顔を上げれば何か緑色の蛍光がちかちかと点滅しているのが見える。
そうして、自分が今座り込んでいる場所が一体、何なのかが解った瞬間、全身に寒気が走るのを感じた。
「……まさか」
そのまさかだった。
やや歩道寄りの横断歩道の真上。
俺はそんな無謀な場所で、じっと座り込んでいたのだ。
慌てて周囲に視線を巡らせるが、車道の向こうには何処にも車の影は見えず、そして道行く歩行者も全く存在しない。
思わず、安堵にも後悔にも似たため息を吐き出す。
そして、車道のど真ん中に転がる圧死した我が愛車を眺め、もう一度、ため息をついた。
「悪運にも程があるな、こりゃ……」
大方、自転車でこけるやら、何か馬鹿なことをやらかしたのだろう。
それにしても、ここまで自分が哀れだとむしろ逆に笑えてくる。
ここ最近、トラブルに出くわすことが全然無かったと思えば……。
溜まりに溜まっていた悪運が、今日になって一気に押し寄せてきたというわけな。
親に対する言い訳とエンドレスな叱責、明日からの徒歩通学に顔を歪ませながら、俺は立ち上がる。
体を検めてみるが、制服自体にはほとんど傷が無く、体の方もこれといった怪我はしていないようだった。
まぁ、五体満足に越したことはないだろうし。
と、負け惜しみのようなことを内心思いつつ、車道に転がった自分の鞄を拾いにかかる。
「ぎゃあ」
どうやら、鞄のボタンが地面に落ちた時に開いてしまったらしい。
横断歩道には、教科書やら数学のプリントやらが盛大に撒き散らかされ、広がっていた。
特にショックだったのは、きちんと整理したはずのファイルの中身がぐしゃぐしゃになっていたことだろうか。
プリント類に皺をつけない俺のポリシーに、深い傷がついたような気がする。
「ったく、どうすんだよこれ」
やり場の無い悪態。
散らばったそれらを適当に掴みながら、鞄に押し込んでいく。
あらかた教科書などは回収し終え、次は大量のプリント群というところになって、俺は遂にある違和感に気づいてしまった。
見間違えか?、見間違えだろう、見間違えに違いないと勝手に決めつけ、目を細めてみたがやっぱりそれは"アレ"に見えてならない。
俺は恐る恐るその紙束に近づいていく。
この散らばったプリント……おいおい。
「楽譜じゃん……」
ピアノやそんな楽譜では無い。
1段、2段、3段、4段ごとにテンポがあからさまに違うこの楽譜。
そして、その傍らを見るとGt.1やらBaやらDsやらが所狭しと書き連ねてある。
全く音楽に関わりの無い者から見れば意味不明だろうが、とりあえず俺には、それが一体何なのかは解った。
━━━━ああ。どう見てもバンドスコアである。
本当にありがとうございました、と心の内で締めくくりながら、俺はまじまじとそれに見入ってしまった。
見る限り確かに、バンドスコアだった。
どうやら途中のパートらしく、その曲名まで窺い知ることは出来ない。が、今はそんなことはどうでもいい。
そう……そんなこと以前にさ。
「……これ、誰の?」
僅かな不信は、一気に確信に変わる。
予め言っておくが、これは俺の物では無い。
というよりも、俺は今までこの方、"自分のバンドスコア"と云うものを手にしたことすら無かったのだ。
んじゃ、どうしてバンドスコアだって解るんだよ、という当たり前過ぎな質疑応答は今は置いておくとして……。
俺は、手書きで書いた物をコピーしたのだろう、僅かに濃淡の薄い箇所があるその楽譜から視線を引き剥がした。
「っ」
喉を鳴らす。
嫌な予感がした。
視線を動かすと、歩道と車道の間に黒い何かが倒れ伏しているのがようやく目に飛び込んできた。
突然、どくどくと心臓が脈打ちし始め、背中に言いしれない悪寒がずるりと流れて行く。
俺の荷物。
そして、俺の物ではない荷物が転がっている。
ってことは、つまり、これは……そういうことだった。
一歩一歩確かめるように歩み寄り、その黒い影がはっきりと見えるところまで来た時、俺は思わず悲鳴を上げた。
「あ、わっ!」
その黒い影は、微動だにしない。
けれど、間違いなく、影は人間━━━それも、なんとセーラー服を身に纏った女の子だった。
後退ろうとしてけつまずき、結果として思いっきり尻餅をついてしまう。
……とにかく。とにかくさ。何とかしなきゃ。何とかしなきゃ。何とかしなきゃダメだ!
「あのー!大丈夫ですかあっ!?」
語尾が裏返った声になるが、今はそんなことを言っている場合ではない。
夕日に照らされても解るくらいに青白い彼女の表情は、確実に大丈夫そうではなかった。
まして動いていないのだ。尚更だ。
そもそも大丈夫かという問いに答えられないってことが、事態の緊迫さを表していると言っていい。
あーー!違う!そんなんじゃなくて!
此処だよ、此処!車道のど真ん中だぞ!?
「や、やばっ!」
もう廃棄自転車なんかに興味は無かった。
それに躊躇している時間も無かった。
風のように俺は立ち上がり、荷物や鞄やらを置き去りにして、車道で倒れこむ少女を体を抱き上げた。
自分でも驚くほどの速さと力で、彼女を歩道の安全な場所に降ろし、大きく肩を揺すった。
「大丈夫!?ねぇ、大丈夫!?」
反射的に、指先を彼女の鼻先に近づける。
ふぅっ、と息が当たるのを感じて、とりあえず最悪の事態は免れたことを知り、俺は胸を撫で下ろ… さなかった。
生きている、呼吸をしているとは言え、意識を失った人を見たのはこれが初めてだったからだ。
どうする?どうする?なぁ……これから、俺はどうすりゃいいんだ?
倒れた人を介抱するなんて非日常的な時間に迷い込んだ俺は、これからどうすればいいんだよ!?
何だかもうどうしていいかさえ解らず、それに何で自分がこんなことに巻き込まれているのか考えただけで泣きそうだった。
辺りを見回してみても、助けてくれそうな人どころか人一人いやしない。
嘘だろ?と何度嘆いてみても、実際、嘘なんかじゃなく事実で助けの手は一向に現れなかった。
「そ、そうだ!」
頭が落雷に打たれたように、閃く。
こんなん、常識じゃないか!
大怪我を負った人を見かけた時は、どうする?
一般の手で負えない患者が苦しんでいる時、どうすればいい!?
考えるまでも無いことだ!
「ひゃくとーばん、だよな!?」
俺はいつから殺人犯になったんだろう?間違いにもほどがある。119番だった。
しかし、その時はそんなことも全く頭にも浮かばなかった。
正直な話、大真面目だ。
俺は、車道に散らばった荷物を手当たり次第に掻き回して、自分の携帯電話を探す。
そういえば今日、携帯電話、持ってきたっけ?充電中じゃなかったか?なんて、嫌な汗を滲ませる悪寒が背後霊のように付き纏ってくる。
そうして、1分ともかからずに鞄の奥底から赤い見慣れたそれが出てきた時は、無信教な俺だがこれからはありとあらゆる神を信じようとさえ思っていた。
「えーと、え、え、えーっと!」
所詮、3つの番号なのに、いつもより7割増しのスピードでプッシュしながら、俺は携帯を耳に押し当てた。
今日ばかりはコール音が、どうしようもなく遅いように感じる。
と言っても、まだ1コール目も鳴り終わっていないのだが、それはそれこれはこれ。
地団駄を踏みながら待っていると、相手が受話器を取る音がはっきりと聞こえた。
「はい。こちら、110……」
「あ、あああ!はいはいはい!きゅ!救急車あああああああっ!1台お願いします!!」
……もう一度繰り返すが、俺は大真面目だった。
最終更新:2006年06月05日 10:58