3-161 「無題」



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「オーラスが終わってトータルトップは白糸台高校。
清澄高校の大将・宮永も健闘しましたが、僅かに届きませんでした。
これで白糸台高校は去年に続いての団体戦連覇。
高校麻雀の歴史にまた一つ新しいページが書き加えられました」

全国大会の決勝戦。
前年度の優勝校、白糸台高校の前に清澄高校麻雀部は惜しくも敗れてしまいました。

対局終了のブザーが鳴った瞬間、私達の控え室は長い溜息に包まれました。
そこにはあと一歩で手が届かなかった悔しさが篭もっていましたが、
部長も、優希も、染谷先輩も清々しい顔をしていて、
後悔の色は見受けられませんでした。
優勝は適わなかったけれど、決勝の舞台に辿り着くまでの日々が
無意味になってしまったわけではない。
そんな心内が伝わって来ます。
全てを出し尽くし、満足感に包まれているその三人の横で、
私はたった一人、深い悲しみに沈んでいました。

「全国大会で優勝出来なければ、東京の進学校に転入する」

誰にも言わないまま抱え込んでいたお父さんとの約束が引っ掛かり、
笑顔で大会を締めくくることが出来なかったのです。

「残念だったけど、みんなで団体戦を戦えたこの何ヶ月かはとても楽しかったわ。
さあ、笑顔で咲を迎えに行きましょう」

部長に促されるまま控え室を出て、対局室へと歩いていく廊下がとても長く感じられました。

(このまま時が止まってしまえばいつまでも宮永さんといられるのに………)

けれどそんな想いが適うはずも無く、私はじきに対局室の前に辿りついて、
そこで宮永さんがお姉さんと笑顔で話し合っているのを目にしました。

(麻雀を通して分かり合って、昔の関係に戻れたんですね……)

お姉さんを前にした宮永さんは本当に嬉しそうで、私は思わず目を背けてしまいました。
いつもなら宮永さんの笑顔を見ると心が温かくなるはずなのに、
今は悲しみしか浮かんできません。

(宮永さんの思い描いていた未来の中心にはやっぱりお姉さんがいたんですね)
(もし私が全国を目指していた理由を話していれば、そこには私がいたのでしょうか?)

いつか話そうと思ってはいたのですが……宮永さんのことを好きになるにつれて、
私はお姉さんと天秤にかけられるのが怖くなっていきました。

(宮永さんはまた家族一緒に暮らせればそれでいいのかも知れない)
(そこに私は必要ないのかも知れない)

もしそうだったらと思うと怖くて、結局私は本当のことを話せないまま
ここまで来てしまいました………。

やがてお姉さんとの話を終えた宮永さんが私に気付いて近寄ってきて、
そして曇りのない笑顔を浮かべます。

「私、麻雀部に入って良かったよ。和ちゃんに励まされて全国大会に出られて、
お姉ちゃんとまた分かり合うことが出来た」

宮永さんを祝福してあげなくてはいけないとわかっているのに、
その言葉を聞いて全てが崩れ去ってしまったような気になりました。
「良かったですね、咲さん」と言おうとしましたが、言葉になりません。

「ど、どうしたの和ちゃん!?」

宮永さんにそう言われて、私は自分が泣いていることに気付きました。
(咲さんがお姉さんと会うために全国を目指していたことは知っていたのに)
(私と違って全国優勝を目指していたのではないって知っていた筈なのに)
それなのに………

(酷いですよ……宮永さん)

私は涙を止めることが出来ませんでした。




「『宮永さんといつまでも一緒にいたい』
そう言ってくれて、凄く嬉しかったよ。
私もずっと和ちゃんと一緒にいたい」

全国大会が終わったらこの気持ちを伝えたいって思っていた。
だけど、原村さんはもういない。
全国大会が終わってすぐ、秋学期が始めるのを待たずに転校してしまった。
後で聞いた話だけれど、ずっとお父さんに転校を薦められていたらしい。
連絡先は誰も知らされていなくて、何処に行ってしまったのかもわからなかった。

(どうして? 原村さん……)

頭に浮かぶのはそればかり。私はその問いの前に立ち尽くして、どうすることも出来ない。
全国大会での涙の理由も聞けずじまいになってしまった。

原村さんのいなくなってしまった部室は以前に比べて活気が無くなって、
優希ちゃんも、染谷先輩も……あと京ちゃんも、口数が少ない。
私は気付くと窓の外ばかり眺めている。
ひょっとしたら、旧校舎に続く川沿いの道を
桜色の綺麗な髪を揺らして歩いてくるんじゃないか。
そんな風に思いながら原村さんの姿を探してしまう。

雷が怖いのにあの嵐の日に私を追いかけてきてくれた原村さん。
合宿の時、逃げ出してしまった私を追いかけてきてくれた原村さん。
いつも私を暖かい手で包んでくれた原村さんがもういないなんて……。
あの時神社で交換したお土産が肌寒くなった秋の風に吹かれているのを見ると、
何だか泣きたくなってしまう。
「咲………咲!!」
「わっ! ぶ、部長!? どうしてここに?」
「あんたがあんまり元気がないから、来て貰ったんじゃ」
「引退したんだから、もう部長じゃないわよ。それより調子はどう? 
やっぱり和のことが気になってるの?」
「え、えと、えと………はい」

私が頷くと、部長は労わるように優しく笑った。

「あなたはもうお姉さんに会うっていう目標も達成したのだし、
無理して麻雀を続けることもないのよ。
辛いなら、少し距離を取ってみるのも悪くないと思うわ」

そんな風に言われると、もう原村さんに会えないと言われたみたいで悲しくなる。
思うそばから目頭が熱くなってしまって、私は俯いて唇を噛んだ。

「ずっと麻雀が嫌いだった私に麻雀の楽しさを教えてくれたのは原村さんです。
もうここにはいないけれど………でも、
私と原村さんを出会わせてくれたのが麻雀であることに変わりはなくて。
だから、その繋がりを自分から手放したくないって思います。
それに、続けていたらまた会えるかも知れないじゃないですか。
そんな気がするから、私麻雀部を辞めません」
「そう」

(自分でも馬鹿みたいな話をしていると思う)

けれど、部長はそんな私の言葉を聞いて嬉しそうに笑った。
「部長、これからも麻雀部に居ていいですか?」
「当たり前じゃない。いつか和と再開した時に恥ずかしくないようしっかり練習しなさい」
部長の言葉を聞いて、少しだけ心に垂れ込めていた雲が晴れた気がした。

いつも私を励ましてくれた原村さん。追いかけて、つかまえてくれた原村さん。
今度は私から気持ちを伝えるよ。麻雀を続けていれば、またいつか、きっと会えるよね。

何の進展もないまま年が明け、春を迎えた。
一つ変化があったとすれば、原村さんの中学時代の後輩二人が
清澄高校の麻雀部に入部してくれたこと。
部長と原村さんの抜けた穴を埋めて女子部員は丁度五人になった。
これでまた団体戦で全国を目指せる。
そう思うと、嬉しくなった。
そんな風に感じたのは、進入部員が原村さんの後輩だったからだろう。
なんだか原村さんの忘れ形見のように感じられて、私は何度も特打ちに付き合った。
合宿をして、部室でお茶を飲んで、そして時折原村さんの思い出話をしたりもした。

まほちゃん達は中学時代の原村さんについて教えてくれたけれど、
それは私が知っている原村さんの輪郭をなぞって、
一緒に過ごした時間の残り香を立ち昇らせた。

「和先輩、ああ見えて凄い頑固で、
ネット麻雀のアバターが気にいらないからって四時間もかけて自分で作ったんですよ」
「ふふ。何だか目に浮かぶよ」

そんな風に言葉を交わしていると、原村さんが隣にいるような錯覚を覚えてしまう。
勿論それは現実ではなくて、それに気付いた時に訪れる寂しさが、
心に引っかき傷を残していくんだけど……。
束の間の幸福と、果てしない絶望を繰り返しながら、
私は段々その痛みを受け入れるようになっていった。
悲しい顔ばかりしていたら

「また泣いてるんですか、咲さん?」

そんな風に心配させてしまう気がしたから。

二年連続の全国大会出場を目指して臨んだ団体戦の県予選だったけれど、
部長と原村さんという去年の中心メンバーが二人も抜けたダメージは大きく、
私達は決勝戦で敗れてしまった。優勝は全員が全国大会を経験している龍門淵。
団体戦で全国大会に進めなかったのは残念だったけれど、
私が個人戦で全国への切符を手に入れたことをみんな本当に喜んでくれた。
ささやかな祝賀会の会場は去年と同じあのラーメンの屋台。

「はいよ、チャーシュー煮卵大盛り」
「相変わらず美味いな親父! ところでタコスラーメンは作ったか!?」
「はぁ~。まったくあんたは、またそんなこと言いおって」
「おお、あの時のお嬢ちゃんじゃないか。
また来てくれるなんて嬉しいねぇ。リクエストされたタコスラーメン、ちゃんと開発したよ」
「って、あるんかい!?」
「おおっ!! 話がわかるじぇ。親父! 早速そのタコスラーメンを作れ!!」

(優希ちゃんはどこに行っても変わらないなぁ。でも、染谷部長も楽しそう)

二人がいつものように丁々発止のやりとりをしている横で、
一年生達が随分可愛らしく麺を冷ましながらラーメンを食べている。

「美味しい?」
「はい、おいしいです」
「そう。良かった」

私の問いかけに大きく頷いた二人を見ている内に、
なんとなく一年前の原村さんのことを思い出した。

(まるで初めてラーメンを見たように、おっかなびっくり食べていたっけ)
(髪を片手で押さえながら、
まるで小鳥が餌をついばむみたいに少しずつ麺をすすっていて、可愛かったな)

今ここに原村さんはいないけれど、それがたまらなく寂しいけれど、

「ん? なんじゃあ、咲は全然箸が進んどらんのう」
「咲ちゃん、いらないのか? それなら私が代わりに食べてやるじぇえ!!」
「駄目ですよぉ! それは咲先輩のなんですから」
「そもそも今日は咲先輩の祝勝会じゃないですか?」
「えっと、そういうことだから。優希ちゃん、ごめんね」
「ちぇえ、肩透かしだなんて、咲ちゃんも人が悪いじぇ」
「えへへ。頂きます」

私は悲しむ代わりに笑顔を浮かべる。
もし原村さんが麻雀を続けていたら、きっとまた巡り合えるって信じているから。

ラーメンを食べ終えて、屋台の前でみんなと別れた私は
草深い田畑を両手に見ながら家路を歩き始めた。
見上げた夜空で一際美しく瞬いているのは夏の大三角形。
こと座のベガとわし座のアルタイルは、織姫と彦星なんだったっけ。
遠くに離れていても、瞬き合ってお互いの存在を確かめているんだよね。

(私は頑張ってるよ、原村さん。全力を出すっていう約束を今も守ってる)

漆黒の夜空を覆うような天の川の中で輝き合う二つの星を眺めながら、
私は心の中で原村さんに呼びかけた。

(もしかしたら、どこかで私と同じようにこの空を見上げているのかな)

そんな風に思いながら。




「おい、あの子って、去年の全国大会でも活躍してた子だよな」
「あ? ああ、そうだな。確か元インターミドル王者の」
「なんか、学校が変わってないか?」
「そう言えばそうだな。なになに、私立咲和ジャスティス学園? 聞いたことあるか?」
「いや、知らないな」
「しかし、あんな名前も知らないような弱小校に移ってたなんて」
「一体どういう風の吹き回しだろう」
云々

お姉ちゃんが優勝していたことすら知らなかった位麻雀界の話題に疎い私だから、
その年の全国大会に起こった波乱も勿論知らなかった。

「随分面白いことになってるみたいだね」

解説に来ていたカツ丼さんに言われて初めて知ったのだけど、
その波乱というのは西東京地区で起こったらしい。

「例年、西東京の個人戦出場者枠は白糸台高校の生徒で埋まってしまうんだけど、
今年は何年か振りに他校の生徒が出場権を勝ち取ったんだ。
部員が一人しかいない学校にも関わらず、白糸台の選手達を抑えて優勝してね。
しかも学校創立以来の初出場だって言うんだから。
まったく、よくあんな風に無駄を削ぎ落とした打ち方を身につけたものだよ。
デジタル打ちを極めた結果、あの子も全国区の魔物になったのかも知れないな」

「えっと、初出場って言ってましたけど、
カツ丼さんは前からその人を知っていたんですか?」

私の問いを聞いて微笑を浮かべつつ煙管から紫煙を燻らせると、
カツ丼さんはおもむろに視線を巡らした。

「いたいた。ふふっ、知らないわけないさ。あの子だよ」

そう言って指差した先に居たのは―――――――――――

「は、原村さん!!!」

突然名前を呼ばれた原村さんは辺りをきょろきょろと見回してから、
ようやく私に気付いてびっくりしたような、恥ずかしいような、
それでも凄く嬉しそうな顔を浮かべた。

私は暫く言葉を失ってから、弾かれるようにして人混みを掻き分け、
夢中で彼女の元へと走った。
全国から集まっているということもあって前を塞ぐ人は多く、
真直ぐ進めないことがもどかしい。

心はもう原村さんで一杯になっているのに、現実では人波に飲まれてそうはいかない。
想い人を視界にとらえているのに、近付けないまま過ぎ行く一秒、一秒が
これまで会えなかった一年に匹敵する位に長く感じられた。
それでも何とか辿り着いて

「原村さん!!」

私はその体に抱きついた。

「さk………宮永さん」

目の前にあるのは忘れもしないあの優しい眼差し。

「どうして? どうして何も言わずにいなくなったの?」
「そ、それは……」
「私、凄く寂しかったんだよ。あの時いつまでもずっと一緒にいたいって言ってくれて。
それが凄く嬉しくて、私も原村さんといつまでも一緒にいたいって思ったから、
ずっと待ってたんだよ?」
「………そう、だったんですか?」
「あの後、東京に引越してまた家族四人で一緒に暮らさないかって話も出たんだ。
だけど、もしかしたら原村さんが清澄に戻ってくるかも知れないって
そう思って、あっちに残ったの。私、ずっと待ってたんだよ!?」

押し込めていた気持ちが膨れ上がって、私は一気にまくし立てた。
そうすることで会えなかった間の寂しさを原村さんにわかって貰いたかった。
口をついて溢れる感情の中には何も言わずにいなくなってしまったことに対する
怒りもあって、私の口調は随分激しいものになった。
この怒りをぶつけたくて、私がどれだけ悲しかったかわかって欲しくて、
心のどこかでそんな風にも思っていたけれど、でもその気持ちは急速に萎んでいった。

原村さんが、泣きだしてしまったから。

二つの青い瞳から涙の雫がこぼれるのがスローモーションみたいにはっきり見えた。
それはすぐに二本の筋になって、白いつややかな頬の上で照り返した。
いつもクールな原村さんが私の手の中で身を固くして、
そして声を上げて泣いてしまうなんて思いもよらなかった。
その声は周りの人なんてまるで気にしていないみたいに大きくて、
私は原村さんも自分と同じ気持ちでいてくれたことを知った。
もう怒りなんて消えうせて、ただ抱きしめてあげたいって、そう思った。
心の一番大事なところを抜き去られてしまったようなあの寂しさ。
もし原村さんも私と同じように感じていたのなら、それを慰めてあげたかった。

(あんな辛い気持ち、原村さんには味わって欲しくないよ)

それで癒されるのかはわからないけれど、私は抱きしめる腕に力をこめた。
さっきの怒りよりもずっとずっと強い気持ちで、大切にしたいと思った。

「原村さん、大丈夫だよ。私はここにいるから」
「うぅっ。も、う、、の、……ん、でく、……んで、すか?」
「え?」
「もう、の、和とは、よ、呼んで、くれないん、ですか?」

嗚咽で震える声を振り絞るようにして発せられた声が、すぐ近くから降ってきた。

私は涙で濡れた青い瞳を見つめて、首を振った。

「和ちゃん、ずっと会いたかったよ」
「私も、です。咲、さん」

原村さんの頬はいよいよ涙に濡れて、抱き合った私の頬を濡らした。
どうして原村さんは居なくなってしまったのか。
その理由なんてもうどうでも良くて、
今はただ目の前にいる原村さんがいるという事実を感じたいと思った。

「和ちゃん」
「咲、さん」

会えなかった時間を埋めるように、『私達』は抱き合う腕に力をこめた。


その日は開会式だけでまだ本戦は始まらなかった。
団体戦に出ないということもあって私達には時間があったから、
ゆっくりどこかで話をしようということになった。
偶然私と原村さんのホテルが同じということもあって、
制服を着替えて最上階の展望スペースで落ち合った。
平日のためか人は少なく、私達は殆ど二人きりで眼下の眺めを味わった。

「東京って凄いね。こんなにビルが沢山」
「そうですね。私もこっちに来たばかりの頃は驚き通しでした。
今でもまだ少し馴れないんですが」
「そっか」
「ええ」

私達は少し緊張していて、上手く会話が繋がらなかった。
気持ちが通じ合っているのはわかるけれど、
やっぱり会えなかった一年という月日が私達の間にはっきりと横たわっていた。

「みんな元気だよ。個人戦が始まるのに合わせて
こっちに応援に来てくれることになってるんだ」
「そうですか。久し振りに会いたいです」
「うん。きっとみんな喜ぶと思うよ」

原村さんの方を見ると、その目は東京のビル郡の上に掛かる夕日を見つめていた。
あの時合宿の露天風呂で見た夕日とは少し違っていて、
改めて会えなかった月日が感じられた。

(どうやったらこの空白を飛び越えることが出来るのかな)

わからなくて、私はただ赤く滲む東京の街を眺めた。

(この夕日が沈んで明日になったら、全国大会が始まる)
(それが終わったら、また離れ離れになっちゃう)

ぽつんと一人取り残されてしまうようで、気分が落ち込んだ。
すると、それを感じ取ったみたいに

「咲さん」

と声を掛けられた。

「ふぇっ。何?」

突然の言葉にびっくりして顔を向けると、
原村さんが少しの翳りも無い澄んだ顔で私を見ていた。

「私、怖かったんです」
「え? な、何が?」
「咲さんとずっと一緒にいられないんじゃないかって、そう思って」
「ど、どうして?」
「咲さんはお姉さんと仲直りするために麻雀をするんだって、教えてくれましたよね。
だから、全国大会までは隣にいられても、その後咲さんは
お姉さんと一緒に歩いていくんじゃないかって、思っていたんです。
咲さんの思い描く未来で咲さんの隣に居るのは、
私じゃなくてお姉さんなんじゃないかって」
「そんなことないよ!!」

私が思わず大きな声で言うと、原村さんはちょっとびっくりしながらも嬉しそうに笑った。

「……嬉しいです。私が、ちゃんと気持ちを伝えれば良かったんですね。
そうすれば、少なくとも何も言わずにいなくなることだけはしないで済んだのに」
「……え? どういうこと?」
「私が全国大会で優勝しなければいけなかった理由。
それは清澄高校に残って、いつまでもみんなといるためだったんです。
全国大会で優勝出来なければ、東京の進学校に転入する。
そうお父さんと約束していたから、私はどうしても優勝したかったんです。
優勝すれば咲さんと一緒にいられる。
でも、もし咲さんの思う未来の中に私がいなかったら。
そう思うと言い出せなくなってしまって。ごめんなさい」

原村さんはそう言って、申し訳なさそうに微笑んでみせた。
その顔はとても自然で、余計な感情が全て剥がれ落ちているみたいで……
その分なんだか儚くて、諦めのようなものが感じられて私は少し胸が痛んだ。

「団体戦で優勝した後、みんなでプールに行ったことを覚えていますか?」
「うん……覚えているよ。泳げない私の手を和ちゃんが引いてくれたよね」
「あの時咲さんはとても嬉しそうで、やっぱりお姉さんが大事なんだろうって、
そんな風に醜い嫉妬をしてしまったんです」

原村さんはそう言って何かを思い出すような遠い目をしながら窓の外を見つめた。

「個人戦の予選のでも部長に気を遣って本気を出していませんでしたし、
団体戦で全国にいければそれでいいのかなって。
咲さんは優勝を目指しているわけじゃない。だから途中で私と咲さんの道は別れてしまう。
そんな風に思えて仕方無かったんです。
こんなことを言われても、嫌な気分になるだけですよね? ごめんなさい。
私は本当に弱くて、さっき咲さんがしてくれたみたいに
自分の気持ちを伝えることが出来なくて………」

「ううん。そんなことないよ。自分の気持ちを伝えられなかったのは私も同じ。
『いつまでも、ずっと一緒にいたいって言ってくれて、凄く嬉しかった。
私もずっと和ちゃんと一緒にいたいんだ』
全国大会が終わったら、和ちゃんにそう言おうと思ってたんだ。
だから、和ちゃんがいなくなってから、もっと早く言えれば良かったって、凄く後悔した。
どうして和ちゃんがいなくなる前に言えなかったんだろうって、そればかり考えていたよ。
和ちゃんはいつも私を励まして、手を差し伸べてくれたのに、
私からは何もしてあげられなかったね。
いつも頼ってばっかりで、その上不安にさせちゃって、ごめんね。和ちゃん」

夕日が地平線にかかって、街は暮れなずんでいた。
原村さんの顔も赤い斜光に照らされ、柔らかな稜線を描いていた。
沈みゆく太陽の光が描き出す、束の間の光景。
やがて夜の帳が落ちればそれは闇の中に消えてしまう。
そのまま留めておけないのが悲しくなるくらい、原村さんは綺麗だった。
終わりつつある夕刻の世界で、私は名残惜しくなってその頬に触れた。
柔らかくて、温かくて、まるで幸せそのものに触れたみたいに思えた。

それっきり、私達は黙って見詰め合ったまま何も言わなかった。
それは先程のような不自然な沈黙ではなくて、心地よい静寂だった。
やがて頬に触れている私の手の上に、原村さんの手が添えられた。
どちらからともなく顔が近づいて、私達は初めての口付けを交わした。
唇の先に柔らかい感触が生まれて、それと同時に心が満たされて、
何だかよくわからないけれど、唐突に私は今幸せなんだろうと思った。

どれくらいそうしていたのかわからない。やがて触れ合っていた唇が離れた時、
僅かに開いたその隙間から

「咲」

という原村さんの声が零れ落ちるのが聞こえた。
ずっと呼んで欲しいと思っていたその名前に心臓が大きく反応して、
少し苦しい程の胸の高鳴りを感じながら

「和」

と夢中でその名前を呼んだ。
見詰め合った原村さんの顔は今まで見たことが無いくらい綺麗で
私は我慢出来ずにその唇を奪ってしまった。

「東京の夜は明るいね」
「そうですね」

夕日がすっかり落ちてしまってもまだ、私達は展望スペースに並んで、
窓の外を眺めていた。
満たされる喜びを感じた後で、その場所を離れ難かった。
いつの間にか手を握り合っていて、私がそのことに気付いた瞬間
不意に原村さんが口を開いた。

「もう隠し事をしたくないので、言いますね」
「うん」
「お父さんは去年の頑張りを認めてくれて、
東京の進学校に転入した後も麻雀を続けることを許してくれたんです」
「うん」
「でも、それには条件があって……。
私は今回の個人戦で優勝しなければいけないんです。
もし今年優勝出来なければ、きっぱり麻雀を辞める。
お父さんとそう約束しました。だから………」

言葉に詰まった原村さんの手を、私はそっと握った。
原村さんは俯いて呼吸を整えてから、私の方に向き直った。

「だから、全力を出して下さい。もし最期になるのなら、私は全力の咲と闘いたいです。
勝っても負けても、一生胸に残るような思い出にしたいんです。
だから絶対に全力で私と闘って下さい。
もしここで負けるようなら、
きっとこの先麻雀を続けていくことなんて出来ないと思います。
いずれ終わってしまうのなら、
咲ともう一度会えたこの大会で区切りをつけたいんです」

原村さんの目はあの時と少しも変わらない意思の強さを秘めていた。
その気持ちが痛い程伝わって来て、私は黙って頷き、右手の小指を差し出した。

「うん。約束するよ……和」
「絶対、ですよ…?…咲」

私達は小指と小指を繋いで、
再び出会えたこの大会を一生胸に残る思い出にすることを誓い合った。



そして、個人戦の幕が上がった。


3-239 無題に続く



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最終更新:2010年04月23日 15:32
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