大鳥城(福島市)

大鳥城
(おおとりじょう)
所在地福島市飯坂町舘ノ山
別称鳳城、鵬城、丸山城
築城年寛治年間(1087-94)、保元二年(1157)など
築城者佐藤季春、佐藤元治(基治)など
城主変遷奥州藤原氏[佐藤氏]…
廃城年文治五年(1189)か
現状舘ノ山公園(大鳥神社)、大鳥中学校

概要

大鳥城は福島県福島市に所在した城館跡であり、奥州藤原氏に従い信夫郡周辺を支配した信夫庄司佐藤氏の本拠地であった。

歴史

寛治年間(1087-94)信夫庄司佐藤季春が築いたとも、保元二年(1157)季春の孫(子とも?)佐藤元治(基治)が築いたともいわれている。「吾妻鏡」に拠れば後者とされているが、季春の代にはすでに築かれていたと考えられている。元治が築城の際に鶴を城中に埋めて守護神としたため大鳥城と名付けた、とする伝説がある。

佐藤氏は俵藤太藤原秀郷の後裔で、平泉の奥州藤原氏、西行法師らと同族であり、元治は秀郷より13代目の子孫にあたるとされている。奥州藤原氏に従い信夫郡近隣を支配し、元治の子継信、忠信兄弟は源義経に従い源平合戦に参加している。継信は文治元年(1185)屋島合戦で義経の身代わりとなり討死、翌年忠信は吉野山で義経一行を救うも捕らえられ、京都で自害を遂げている。

文治五年(1189)源頼朝は、藤原氏攻略のために28万といわれる大軍を奥州へ送った。藤原氏はこれに備えて阿津賀志山防塁を築き、17万の軍勢で頼朝軍を迎え撃った。しかし決戦となった石那坂、阿津賀志山合戦で大将であった西木戸(錦戸)太郎藤原国衡(藤原氏4代泰衡異母兄)は敗走、軍勢の中心であった元治ら佐藤一族もことごとく討死した。大鳥城をはじめ、朝日館五十目館、芋殻館、五郎兵衛館名倉館、平田館など、佐藤一族の城館はこの合戦ののち壊滅し荒廃したとされている。

一説には、元治は奥州合戦で敗れた後捕らえられ、その後許されて本所へ帰されたともいわれ、元治の長男隆治が信夫郡に居住、佐藤一族の主流として勢力を張ったとも伝わる。また元治の弟師泰の末裔佐藤清親が、建武五年(延元三・1338)佐藤十郎左衛門入道を称し、伊勢国に移住するまで信夫本郷を本拠に活躍したことも知られており、大鳥城は南北朝期まで整備、拡張され使用されたとも考えられている。 また、根子屋に残る赤舘という地名から、応永年間(1394-1428)大膳大夫政宗が関東公方足利満兼との合戦で拠った赤館がこの城であるとも考えられている。

現状・感想

現在、主郭部である一の平周辺は舘ノ山公園となっており、大鳥神社の周囲には土塁、空堀が残っています。二の平はその西方の平場で、矢庫の跡と伝えられ、その西側が搦手とされています。三の平は現在野球場や大鳥中学校の敷地となっており、佐藤一族の館があったといわれています。

大手門のあった付近は「大門」の地名が残っており、近くの住民の方にお聞きしたところ、昔は明瞭な土塁が残っていたとおっしゃってました。

関連項目

最終更新:2012年10月02日 20:36
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。