幕内館 (まくのうちだて) | |
所在地 | 会津若松市神指町南四合字幕内 |
別称 | |
築城年 | (承久二年(1191))、天授五年(康暦元・1379)など諸説 |
築城者 | (佐原義連、)蘆名直盛 |
城主変遷 | 蘆名氏… |
廃城年 | 不明 |
現状 | 新城寺、二本木稲荷神社 |
幕内館は福島県会津若松市に所在した城館跡で、会津領主であった蘆名氏の初期の居館であったという。
文治五年(1189)奥州合戦の戦功で会津の地頭職を賜った蘆名氏祖佐原十郎左衛門尉義連がこの地へ来た際、二本木稲荷神社の地に幕を張って陣所としたのが幕内村の名の由来という。その後天授五年(康暦元・1379)7代孫である蘆名直盛が会津へ下向して幕内館(新城寺)に入り、元中元年(至徳元・1384)東黒川館(小高木館、のち黒川城)へ移るまで居住したという。直盛が東黒川館を築城するにあたり二本木稲荷神社に祈願したところ、遣いの白狐が城の縄張りを示したと云われ、現在の鶴ヶ城稲荷は二本木稲荷の分神とも伝えられている。
また、幕内館は義連が会津を拝領した2年後の建久二年(1191)に築かれ、その後の承久四年(1221)に孫の光盛が小田山城を築城、その麓の小田館へ移ったとする説もある。しかしいずれにしても、当時義連が会津へ入ったとは考えにくいとされている。
実際のところは良くわかりませんが、一般には直盛が会津へ下向した際に入った幕内館とは飯寺館を指していると考えられています。佐原義連が会津へ来たというのも併せて、伝説の域を脱していない様です。きつねの話も含めてね。
本当言うと、幕内集落は天文年間(1532-55)、寛永十年(1633)の2度に渡って東へ移動しているらしく、往時は今より西約1kmの地点にあったらしいです。ですので現在は大川(阿賀川)の河川敷となっているとの事。館跡は旧村の新城寺の場所なんでしょうね。