小堤城(亘理町)

小堤城
(こづつみじょう)
所在地亘理町泉ヶ入
別称亘理城
築城年乾元元年(1302)
築城者武石宗胤
城主変遷武石(亘理)氏…相馬氏、伊達氏[亘理氏]
廃城年天正年間(1573-92)か
現状大雄寺

概要

小堤城は宮城県亘理郡亘理町に所在した城館跡であり、伊達氏重臣亘理氏の居城であった。

歴史

文治五年(1189)奥州合戦で功を挙げた千葉介常胤は、戦後源頼朝より陸奥国諸郡の地頭職を与えられた。翌建久元年(1190)、常胤は亘理、伊具、宇多三郡を下総国千葉郡武石郷の在地領主となっていた三男左衛門尉胤盛に与え、胤盛は当初代官を遣わして当地を治めていた。その後の乾元元年(1302)、武石氏4代肥前守宗胤が亘理へ下向、小堤城を築いて居城とし、延元四年(暦応二・1339)7代因幡守広胤が足利尊氏より亘理、伊具、宇多三郡の所領を安堵され、以降武石を改め亘理氏を称したという。

以後亘理氏は伊達、相馬両勢力の狭間にありながらその所領を維持するも、戦国時代末期には伊達氏より嗣子を迎えてその勢力下に組み込まれてゆき、17代兵庫頭元宗の頃には伊達氏一族として勢力拡大に大きく貢献した。

小堤城は亘理氏代々の居城であったが、天正年間(1573-92)元宗が亘理城を築いて移った後廃城になったとされる。亘理氏はその後天正十八年(1590)遠田郡涌谷城へ移封となり、亘理城には片倉小十郎景綱が封ぜられた。さらにその後片倉氏が刈田郡白石城へと移ると、慶長七年(1602)より伊達安房守成実が入城、以降代々亘理伊達氏として仙台藩領南東部の要衝を押さえる任に当たった。

小堤城の地には慶長九年(1604)成実によって信夫郡より父実元の菩提寺雄山寺が移され、万松山雄大寺と号された。後に大雄寺と名を改められ、亘理伊達氏累代の御霊屋が祀られて今日に至っている。

現状・感想

大雄寺境内地が城跡であり、比高約15mほどの丘陵地となっている。東西約100m、南北約130mの小規模な単郭式の館跡であり、周囲を巡っていた土塁の一部が残る以外、遺構はあまり残っていない。

一段高くなった城域南側は亘理伊達氏歴代の御廟所となっており、亘理伊達氏初代成実と父実元、そして13代邦実までの御霊屋、墓石が並んでいる。

亘理へ行くと亘理神社へは大体参拝するものの、久しく行ってないな~大雄寺…。少なくともりんが生まれてからはお参りしていないので、今度行ったら神社とセットで行かなきゃだなぁ…。

関連項目

最終更新:2012年10月08日 11:42
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。