SASUKEのレジェンド、山田勝己に付いての情報


小中学生時代

1965年10月22日、兵庫県加古郡播磨町誕生。阪神タイガースの掛布雅之に憧れて、小学2年生で地元のソフトボールチームに所属。全国大会出場の経歴あり。陸上の長距離走が得意であり、小学4年生からマラソン大会は毎年優勝していた。躍進のきっかけは、自信を持って臨んだ小学3年生のマラソン大会で4位に終わった悔しさから練習を続けたことだという。中学では野球部に入るつもりだったが、強力な勧誘があった陸上部に入部した。

高校時代

高校野球
兵庫県立東播磨高等学校に8期生として進学。「今度こそ、野球部に入る」と心に決め、合格発表の翌日にはジャージ姿で野球部の練習に押し掛けた。幼い頃からソフトボールには親しんでいた。野球は未経験のまま入部。エースで4番を目指していたが、すぐに肩を壊して投手から野手に転向した。

高校1年生の11月、その年の最後の練習試合に、9回二死2、3塁の一打逆転の場面で代打に指名されたが、すべて見逃しで三球三振に終わった。山田は「ひざがガクガク震えてバットを振ることができなかった。野球ではそのとき初めて悔しいと思った」と語り、「そこからなにかにのめり込む際の度合いが激しくなっていったんです。春までの約5カ月、学校や寝ている時間以外はほとんどバットを振っていました」と語るほど野球に没頭。1500本のスイングを自身に課し、授業後の学級活動を抜け出して打撃練習をしたこともあったという。その後、高校2年生の春の第2試合目に8番で出場。2打席続けて初球のストライクをホームランにし、その後は4番で固定されたという。山田は「あの三球三振がなければ、今のようにはなっていないです」といっていた。

高校時代後→SASUKEとの出会い



高校卒業を境に野球を辞めた後は、22歳でソフトボールを始め、全国大会を目指すハイレベルなチームで汗を流し、25歳からトレーニングを再開し31歳でSASUKEと出会う。後に山田は「学生時代は人より運動ができましたので、できない人の気持ちを理解することができなかったですが、SASUKEは挑戦する度に落ち続け、非難を受けたことが挑戦を続ける理由の一つになりました」と述懐している ほか、「『俺より出来るやつなんて世の中におらへん』と思っていたんですよ。でも、SASUKEはやっても出来ひん、やっても出来ひんという。そこで自分って何やろうと考えたとき、自分って何にも出来ひんのやって気付かされたし、自分の弱さも実感出来ました」と語っている。

1996年、TBS『筋肉番付』の『クイックマッスル全国選手権』に出場。これはソフトボールの練習中に大怪我をして、1年ほどソフトボールができず、まともなトレーニングは腹筋と腕立て伏せしかできなかった頃に、テレビで腕立て伏せをやっている姿を見て、「これなら自分でもできそうだな」と思い、応募に至った。結果は準優勝(後述)。これが後のSASUKE出場のきっかけとなる[2]。

1997年、SASUKE第1回大会に「クイックマッスル全国大会準優勝」の肩書きを引っ提げて出場した。

同年、TBS『筋肉番付』の『MUSCLE RECORD 9ミニッツ』(9分間腕立て伏せ)に出場。644回の記録を打ち立て準優勝となった。

1999年、第3回大会に出場。本大会開催前に、山田は自宅の庭にSASUKEを模したセットを製作して練習を重ねた。同大会は完全制覇まで残り約30cmまで迫り、初の大会最優秀成績を記録。

同年、第4回大会で初めてゼッケン100番を与えられるなど、一躍SASUKEを代表する選手となる。

2000年春、仕事中にSASUKEの練習に熱中したことにより、放置したボンベが爆発したり、仕事の合間にいろんな施設に行って、筋トレや走り込みをしていたことが会社に知られ、ボンベ配送業の仕事をリストラされる[2]。その後は妻の実家の鉄工所でアルバイト、野球場でビール売りのアルバイト(売上は1位)で生計を立てながら出場を続ける。同年秋開催の第6回大会にて2回目の大会最優秀成績を記録。しかし、この頃は1日に700回もの懸垂や何十キロの重りを背負った坂道ダッシュなどのオーバーワークを、仕事から帰ってきてから夜中の2時くらいまでトレーニングしていたため、膝や腰を痛める不調が続き、満身創痍の状態に。その後、紹介状をもらって病院に行ったが、病名がないと診断された。結果、翌大会の第7回大会では、自身初の1stステージでリタイアとなった。

2002年秋、第10回記念大会にて3回目の大会最優秀成績を記録。

2012年、第28回大会をもってSASUKEを引退。

2013年以降、「山田軍団 黒虎」というチームを結成し、自身を慕う若手選手たちとトレーニングを重ね、指導者という形でSASUKEに携わる。軍団の運営については「コーチという生温い形は嫌なので、師匠と弟子のように厳しく精神面も技術面も鍛えていきたいと思っています」と語っている。

2014年、ゼッケン2934で第30回記念大会に出場したが、総合演出の乾雅人は本大会の山田の出場について「申し上げることはない」としている。山田本人によると「30回大会は自分から放送をカットしてくださいとお願いしました」としている。

2017年、妻の実家の鉄工所の跡を継ぎ、社長となる。

2020年、『SASUKE2020』第38回大会より現役復帰。

2021年、生涯現役宣言

大会ごとの成績一覧


大会 ゼッケン ステージ 脱落エリア 備考
第一回 92 2ndstage 5連ハンマー 3本目
第二回 91 2ndstage スパイダークライム 6枚目
第三回 89 FINAL 綱上り 残り30cm、最優秀成績
第四回 100 3rdstage クリフハンガー 2個目の空白
第五回 100 2ndstage スパイダークライム 3枚目
第六回 99 3rdstage パイプスライダー 着地失敗(転落)最優秀成績
第七回 100 1ststage ロープクライム タイムアップ
第八回 100 1ststage そり立つ壁 タイムアップ
第九回 99 2ndstage ウォールリフティング 2枚目、タイムアップ
第十回 1000 3rdstage パイプスライダー 着地失敗、最優秀成績
第十一回 100 2ndstage バランスタンク 対岸付近、後方に転落
第十二回 98 2ndstage スパイダーウォーク改 手袋つけ忘れで失格。2ndには3回挑戦している。
第十四回 99 1ststage ジャンプハング 掴むのを失敗
第十五回 99 1ststage クロスブリッジ コースアウト
第十六回 99 1ststage ロープクライム タイムアップ
第十七回 100 1ststage そり立つ壁 手をかけた直後にタイムアップ
第十八回 73 1ststage ロープラダー タイムアップ、ゼッケンは、ゼッケン争奪マラソンによって決定。
第十九回 91 1ststage ジャンピングスパイダー 張り付き失敗
第二十回 1999 1ststage ジャンピングスパイダー 張り付き後転落
第二十一回 96 1ststag そり立つ壁 タイムアップ
第二十二回 81 1ststage ジャンピングスパイダー 張り付き後転落。
第二十三回 71 1ststage スライダージャンプ つかみ失敗
第二十四回 80 1ststage そり立つ壁 タイムアップ
第二十六回 90 1sttage ジャンピングスパイダー 張り付き失敗
第二十七回 91 1ststage そり立つ壁 タイムアップ
第二十八回 99 1ststage 2連そり立つ壁 1つ目の登った直後にタイムアップ
第三十回 2934 1ststage 2連そり立つ壁 2つ目でタイムアップ
第三十四回 33 1ststage タイファイター 中盤
第三十八回 97 1ststage ドラゴングライダー 中盤
第三十九回 96 1ststage クワッドステップス 4枚目
第四十回 3996 1ststage フィッシュボーン 2本め
第四十一回 95 1ststage ツインダイヤ 1個目→2本目
最終更新:2024年11月21日 08:47