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史実ネタ/大戦国について - (2011/11/25 (金) 13:21:57) の編集履歴(バックアップ)


小見出し


Ver1.0大戦国


◆稲葉山城攻防戦

稲葉山城は、美濃斎藤氏の居城として知られる。天文年間から続く尾張織田氏による攻撃を幾度と無く跳ね返した。
斎藤義龍の死後、斎藤氏は急速に求心力を失う。重臣の西美濃三人衆の寝返りが致命傷となり、織田信長の攻勢の前に稲葉山城は落城する。

◆伊勢攻防戦

1570年9月の本願寺の反信長蜂起(石山合戦)に伴って、長島でも門徒が蜂起。更に願証寺が北勢四十八家の豪族や紀伊の雑賀衆などに檄を飛ばしこれらが長島へと集結した。これに呼応し斎藤龍興や、尾張弥富の服部党、石橋義忠らの非門徒の武士団の連合軍も一斉に蜂起した。数万に及ぶ一揆衆は、長島城を攻め落とし城を奪うと、続けて11月には信長の弟、織田信興を尾張小木江城に討ち同城を奪取し、伊勢桑名城の滝川一益を敗走させた。
これが契機となり、第一次長島侵攻が開始される。
近江で織田軍が優位に立ったため翌年5月12日、信長は5万の兵を率いて伊勢に出陣。ひとまず帰ろうとしたところを待ち伏せされ、殿軍の柴田勝家が負傷。勝家に代わって殿をつとめた氏家卜全と、その家臣数名が討ち死にした。
この後、73年に第二次長島侵攻が開始され、船の調達を次男織田信雄に命じてたが失敗したためまたも撤収する。
74年6月に第三次長島侵攻が開始され、兵糧攻めに耐えきれなくなった長島城の者たちは、9月25日に下間頼旦が降伏を申し出て長島から退去する代わりに城内の人間の助命を嘆願し、信長はこれを受け入れた。そして9月29日に約定どおりに一揆勢は船で長島を退去しようとしたが、信長はここで態度を転じて一揆勢を攻撃し、この時に顕忍や下間頼旦を含む門徒衆多数が射殺、あるいは斬り捨てられた。こうして、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊、長島城は滝川一益に与えられた。

Ver1.1大戦国


◆観音寺城の戦い

観音寺城の戦いとは、1568年9月12日に足利義昭を奉ずる織田信長と六角義賢との間で起こった戦いである。
1565年に足利義輝が三好三人衆や松永久秀に討ち取られるという事件(永禄の変)が発生、弟義昭は和田惟政らの手引きで脱出。その後3年間の漂流生活が始まった。武田義統や朝倉義景を頼るも動かないことを探知し、信長を頼る。信長は正親町天皇からの綸旨を受け、1568年8月に上洛を開始した。
途上、観音寺城にいる六角義治に義昭の入洛を助けるように使者を送るも義治と父の六角義賢はこれを拒否、開戦を決定した。
9月7日、軍勢を整えた信長は1万5千の兵を引き連れて岐阜城を出発、これに三河の徳川家康勢1千・北近江の浅井長政勢3千を加える。
一方の六角方は和田山城を攻撃すると予測し、そこを1万の兵で観音寺城や箕作城から出撃して挟撃することを狙っていた。
しかし信長は、羽柴秀吉隊2千3百・丹羽長秀隊3千らと共に箕作城を真っ先に攻撃、その日の夜に秀吉の夜襲で落城した。
それを聞いた和田山城の兵たちは稲葉隊が攻撃に来る前に一目散に城から逃げ出し、和田山城も落城する。これを聞いた六角義治は夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びていった。
これにより六角氏の没落は決定的となり、京都を支配していた三好三人衆らは信長軍に駆逐される。こうして信長は畿内の覇権を掴み、義昭は念願であった征夷大将軍の座に着いた。
なお、六角家の蒲生賢秀がこの敗北後も日野城に籠もっていたが説得に応じて信長に質子を差出して忠節を誓った。この質子が後の蒲生氏郷である。

◆駿河侵攻戦

駿河侵攻とは、武田信玄が西進のために駿河に侵略した3度の戦いを表す。
(ここでの駿河侵攻はそのうちの1回目、1568年の戦いを記す)
信玄は第一次駿河侵攻にあたり徳川家康と今川領分割の密約を結び、大井川を境にして東部を武田氏が、西部を徳川氏がそれぞれ攻め取ることにした。
こうして始まった駿河侵攻に対し今川氏真は庵原忠胤に1万5000の軍勢を預けて迎撃させたが、戦わずして敗走。これを契機に瀬名信輝、朝比奈政貞、三浦義鏡、葛山氏元ら21名を調略した。こうして12月13日に駿府に入った。
一方西の家康も12月27日に掛川城を包囲するに至る。東の北条は氏真の援軍要請にこたえるも時遅く伊豆三島に対陣するに留まった。
信玄は結局撤兵させることもできず、兵糧切れのため翌年正月に撤収。そこをすかさず家康が駿府を占領、5月17日には掛川城に籠城していた氏真を無血開城させることで降伏させた。
こうして今川家は家康の手によって滅ぼされ、信玄は今川軍を圧倒しながら駿河を手に入れることができなかった。
しかし信玄はあきらめておらず、後に三方原の戦いが起こる原因にもなった。

◆姉川の戦い

観音寺城の戦いの後、足利義昭を奉じての上洛を果たした信長は朝倉義景に上洛要請を行うも義景はこれを拒絶したため、
1570年4月に信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉氏との縁も深かった長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲った。
(これが金ヶ崎の戦いである)
信長は、この報復戦のために軍備を整えると北近江へ出陣。まずは報復に出撃してきた六角義賢父子を野洲河原の戦いで一蹴。
浅井氏の本拠である小谷城へ迫る織田軍に対して朝倉義景は一族の朝倉景健を総大将とする兵を派遣した。
一方で信長へも徳川家康軍が参着。6月28日、姉川河原で織田信長・徳川家康の連合軍2万8千と、浅井・朝倉同盟軍1万8千が琵琶湖へ注ぐ姉川を挟んだ。
徳川方の酒井忠次、小笠原長忠の隊が朝倉軍に攻撃したのを皮切りに合戦が開始されたところへ、磯野員昌の十一段崩しがが始まる。しかしこれを森可成が止め、横山城攻城をしていた稲葉一鉄や丹羽長秀らが駆けつけ戦線は膠着状態になる。
一方朝倉軍はというと1万の兵で徳川軍に攻撃をしていたが、本多忠勝が単騎中央突破を開始。そこへ榊原康政隊が横から奇襲をかけ、家康らが応戦を開始したところ、義景が出陣しようとしなかったことも相成って朝倉軍は一気に崩れ始め、敗走した。
朝倉勢を撃破した徳川軍や横山城を攻めていた氏家卜全、安藤守就らが織田軍の増援として浅井軍攻撃に駆けつけ、浅井軍も崩れ始めた。
こうして、浅井・朝倉両軍は北国往還道へ敗走を余儀なくされ、織田・徳川軍の勝利に終わる。
浅井・朝倉両家は遠藤直経や長政の実弟浅井政之、真柄直隆、真柄直澄らを失うも力はまだ残っていた。さらには三好三人衆が挙兵する。
これを見た信長は天王寺に出陣したため、野田城・福島城の戦いや宇佐山城の戦いが発生する。

◆宇佐山城の戦い

宇佐山城の戦いとは、1570年9月に織田軍の森可成率いる1千と浅井・朝倉・六角・延暦寺連合3万が近江の宇佐山城をめぐり戦った戦いのことである。
連合軍は摂津で勃発した野田城・福島城の戦いに信長始め織田軍主力が投入されているのを好機として背後を突くべく坂本占拠を試みる。
しかし、可成らは坂本にて果敢に応戦、本願寺軍の要請を受けた延暦寺の僧兵までもが連合軍に駆けつける事態となった。
開戦から4日後、可成は討死したが肝心の宇佐山城は城兵の頑固な抵抗により信長到着まで4日間耐え続けた。
結局同年12月に和解が成立。後にこのことが原因で信長は比叡山焼き討ちを行うことになる。