北陸

飛騨  武将     4名

越後  武将    22名

越中  武将     6名

能登  武将     7名

加賀  武将    12名

越前  武将    17名

若狭  武将     5名

    域計    73名
    累計    306名

武将
能力値 スキル 列伝
Lv 1 2 3 4
0234
江馬 時盛


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
(1509-1573)飛騨の豪族。諏訪城主。三木家と争う。武田家
と友好を結ぼうとするが、上杉家との関係構築を主張する嫡
男・輝盛と対立し、輝盛の刺客によって殺された。
0235
高山 外記


2
2
3
3
3
4
4
4
5
5
5
6
0236
三木 直頼


3
3
2
4
4
3
5
5
4
6
6
5
(1497-1554)飛騨の豪族。桜洞城を築いて居城とし、版図を
拡大する。飛騨国司・姉小路家や美濃の土岐家、本願寺など
と友好関係を結び、飛騨国内に一大勢力を築いた。
0237
三木 嗣頼


2
3
3
3
4
4
4
5
5
5
6
6
(1516-1572)飛騨の豪族。直頼の子。飛騨国司・姉小路家の
名跡を継ぎ、姉小路姓を名乗る。上杉謙信に通じ、武田信玄
と結んだ江馬家との間で軍事・外交戦を繰り広げた。
0238
色部 勝長


6
4
3
7
5
4
8
6
5
9
7
6
(1493-1568)上杉家臣。平林城主。上条定憲の乱の際は一時
上条方に属す。川中島合戦で活躍し、感状を授かった。
謀叛を起こした本庄繁長の居城・村上城を攻囲中に病死。
0239
色部 顕長


3
2
1
4
3
2
5
4
3
6
5
4
(1549-1587)上杉家臣。平林城主。勝長の子。主君・謙信か
ら名を授かった。父の死後、家督を継ぐ。本庄繁長の謀叛鎮
圧で活躍し、以降、繁長より上位の席を与えられた。
0240
本庄 房長


5
3
1
6
4
2
7
5
3
8
6
4
(1494-1544)越後の豪族。揚北衆。時長の子。大和守と称
す。上条定憲の乱の際は長尾為景に属した。のちに弟・小川
長資や鮎川盛長に攻められて居城を追われ、死去した。
0241
中条 藤資


6
5
4
7
6
5
8
7
6
9
8
7
(1480-1574)上杉家臣。主君・為景が関東管領・上杉顕定と
戦った際は、為景に従い各地で活躍した。一時背くが、間も
なく帰参。のち川中島合戦に従軍し、感状を受けた。
0242
本庄 実乃


2
5
5
3
6
6
4
7
7
5
8
8
(1511-1580)上杉家臣。栃尾城主。主君・景虎の栃尾城入城
以来、側近となる。景虎の初陣の際は補佐役として活躍し
た。のち景虎が当主になると、政権の中枢に参画した。
0243
本庄 秀綱


4
2
2
5
3
3
6
4
4
7
5
5
0244
北条 高広


9
6
4
10
7
5
11
8
6
12
9
7
(1517-1587)上杉家臣。厩橋城主を務め、関東経略を担当す
るなど活躍した。武田信玄や北条氏康らの誘いに乗り、たび
たび謀叛を起こすが、そのたびに許されて帰参した。
0245
柿崎 景家


11
7
1
12
8
1
13
9
2
14
10
3
(1513-1575)上杉家臣。主君・謙信に「越後七郡で彼にかな
う者はなし」と評された家中随一の猛将。上杉軍の主力とし
て活躍したが織田信長への内通疑惑により殺された。
0246
新発田 綱貞


7
4
2
8
5
3
9
6
4
10
7
5
(1512-1561)上杉家臣。新発田・五十公野城主。伯耆守と称
した。上条定憲が長尾為景と戦った乱の際は、はじめ長尾方
に属したが、のちに上条方に転じて長尾軍と戦った。
0247
新発田 長敦


5
3
2
6
4
3
7
5
4
8
6
5
(1538-1580)上杉家臣。新発田・五十公野城主。綱貞の子。
上条定憲の乱が終息したあと、上条方国人の長尾家への帰参
を斡旋した。御館の乱の際には上杉景勝に属した。
0248
吉江 宗信


4
2
2
5
3
3
6
4
4
7
5
5
0249
吉江 景資


6
3
2
7
4
3
8
5
4
9
6
5
(1527~1582)上杉家臣。謙信の旗本として、関東や越中を
転戦。謙信の死後は景勝に属し、越中魚津城在番を務める。
柴田勝家の越中平定軍と戦い、善戦するも敗死した。
0250
直江 兼続


6
6
12
7
7
13
8
8
14
9
9
15
(91)包囲上手
(86)大規模陽動
(16)直江の仁義
(1560-1619)上杉家臣。筆頭家老を務めた。豊臣秀吉の評価
は高く、陪臣ながら出羽米沢30万石を領した。関ヶ原合戦
の際は西軍に属し、徳川家康に「直江状」を送った。
0251
長尾 景虎


11
8
1
12
9
2
13
10
3
14
11
4
(76)騎兵突撃
(98)士気回復
(15)軍神光臨
(1530-1578)越後の戦国大名。為景の次男。上杉憲政から関
東管領職を譲られ、上杉姓を名乗る。「毘」の軍旗を翻して
疾駆する姿は軍神と恐れられた。通称「越後の龍」。
上杉 謙信

14
9
4
15
10
5
16
11
6
16
12
7
(76)騎兵突撃
(89)カリスマ
(15)軍神光臨
0252
安田 景元


2
3
1
3
4
2
4
5
3
5
6
4
(1514-1563)上杉家臣。安田城主。上条定憲の乱の際は長尾
為景に従い活躍した。北条高広が主家に背いた際は、これを
直江景綱に報じ、主君・謙信に従って高広と戦った。
0253
宇佐美 定満


11
4
3
12
5
4
13
6
5
14
7
6
(88)魅力
(93)完全包囲
(17)ウサ耳援護
(1489-1564)上杉家臣。越後流軍学の祖という。上条定憲の
乱の際は上条方に属すが、定憲の死後、帰参。国政に参画す
るなど活躍したが、長尾政景と舟遊び中に溺死した。
0254
斎藤 朝信



6
4
3
7
5
4
8
6
5
9
7
6
(1527-1591)上杉家臣。川中島合戦や唐沢山城攻めなどで活
躍し「越後の鐘馗」の異名をとった。御館の乱では上杉景勝
に属す。私欲なく、行政にも優れた手腕を発揮した。
0255
大熊 朝秀


2
1
6
3
2
7
4
3
8
5
4
9
(1517-1582)長尾家臣。箕冠城主。主君・景虎の側近として
政務に参画した。景虎の出家騒動に乗じて謀叛を起こすが敗
れる。以後は武田家に仕え、甲斐天目山で戦死した。
0256
山本寺 為常


5
4
2
6
5
3
7
6
4
8
7
5
0257
山本寺 定長


5
3
2
6
4
3
7
5
4
8
6
5
0258
長尾 房長


2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
6
5
(1488-1552)長尾家臣。魚沼郡上田荘を領した。上条定憲の
乱に呼応し主家に敵対する。しかし定憲の戦死、越後守護・
上杉定実の死去により劣勢となり、主家と和睦した。
0259
長尾 政景


4
2
2
5
3
3
6
4
4
7
5
5
(1526-1564)上杉家臣。房長の子。父とともに主家に敵対す
るが和睦し、主君・景虎の姉を娶った。その後は景虎を補佐
して活躍するが、宇佐美定満と舟遊び中に溺死した。
0260
神保 長職


2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
6
5
(1505-1572)越中の豪族。富山城主。神保家を越中最大の勢
力に築き上げるが、上杉謙信に敗れ、降伏した。のちに意見
の対立により家中が分裂し、再び神保家は衰退した。
0261
水越 勝重


1
2
5
2
3
6
3
4
7
4
5
8
(1513-1577)神保家臣。富山城や滝山城の築城に携わった。
主家衰退後は一向一揆とともに上杉謙信と戦うが敗れ、一揆
勢の首謀者を捕らえて上杉軍に降伏し、助命された。
0262
神保 職広


1
1
1
2
1
1
3
2
1
4
3
2
0263
椎名 康胤


3
2
1
4
3
2
5
4
3
6
5
4
(1499-1576)越中の豪族。松倉城主。上杉謙信の従兄弟・長
尾景直を養子とし、謙信と結ぶ。しかし、のちに武田家と結
んだため、謙信に攻められて敗れ、戦死したという。
0264
天平寺僧兵衆


1
1
1
2
1
1
3
2
1
4
3
2
0265
斎藤 利基


1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
5
5
0266
畠山 義遠


1
1
1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
0267
長 続連


5
3
2
6
4
3
7
5
4
8
6
5
(????~1577)畠山家臣。義続以降の4代に仕える。畠山七
人衆の1人として政務を遂行。上杉謙信が能登に攻めてきた
とき、遊佐氏が謙信に内通したため、殺害された。
0268
遊佐 続光


2
2
3
3
3
4
4
4
5
5
5
6
(1527-1581)畠山家臣。温井家との政争に敗れて出奔する
が、和睦して帰参する。のちに上杉家に通じて能登を治める
が、織田家の台頭により逐電し、捕縛され斬首された。
0269
温井 総貞


1
4
7
2
5
8
3
6
9
4
7
10
(1491-1555)畠山家臣。和歌に造詣深く、主君・義総の寵愛
を得る。遊佐家を倒して主家の実権を握り、領内の動揺を招
く。のちに権力奪回を目指す主君・義綱に殺された。
0270
温井 続宗


1
2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
6
(1511-1560)畠山家臣。総貞の子。父を軍事面で補佐し、温
井家を家中最大の勢力に発展させた。父が主君・義綱に殺さ
れたあと、一族とともに謀叛を起こすが、敗死した。
0271
畠山 義続


1
1
2
2
1
3
3
2
4
4
3
5
(1518-1590)能登守護。義総の嫡男。相次ぐ内乱で権力を失
い、重臣の台頭を許す。子・義綱と協力して実権を回復する
が、のちに重臣たちに反発され、能登を追放された。
0272
畠山 義綱


3
1
3
4
2
4
5
3
5
6
4
6
(1536-1593)能登守護。義続の嫡男。父とともに実権の回復
に尽力するが、重臣らに追放されて失敗に終わる。その後、
何度も能登入国を試みるが、すべて失敗に終わった。
0273
津幡 門徒宗


2
1
1
3
1
1
4
1
1
5
2
2
0274
広瀬 貞清


1
1
1
2
1
1
3
2
2
4
3
3
0275
金沢 坪坂衆


4
2
1
5
3
2
6
4
3
7
5
4
0276
赤野井 慶信


2
1
1
3
2
1
4
3
2
5
4
3
0277
下間 頼照


1
2
7
2
3
8
3
4
9
4
5
10
(1526-1575)本願寺の坊官。法主・顕如の命で越前の一向宗
門徒を指導し、織田信長を苦しめた。のちに信長が比叡山や
長島と同じ焦土化作戦をとったため敗北、殺された。
0278
七里 頼周


6
4
4
7
5
5
8
6
6
9
7
7
(1517-1581)加賀の本願寺の代官。一向宗門徒の要請により
富田長繁を討つが、翌年、織田信長の討伐軍に降る。のち法
主・顕如の命によって松任城主・鏑木頼信を討った。
0279
若林 長門守


4
2
2
5
3
3
6
4
4
7
5
5
0280
松任 門徒衆


4
1
1
5
1
1
6
1
1
7
2
2
0281
舟岡 山内衆


2
1
1
3
1
1
4
1
1
5
2
2
0282
鈴木 重泰


6
2
2
7
3
3
8
4
4
9
5
5
(1541-1580)紀伊雑賀の鈴木家の一族という。本願寺から加
賀に派遣され、鳥越城を築いて加賀の一向宗門徒を指導し
た。のちに柴田勝家に討たれ、首級は安土に送られた。
0283
富樫 晴貞


1
1
1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
(1516-1570)野々市城主。稙泰の子。父が享徳の錯乱により
能登に逃れたあと、家督を継ぐ。織田信長の越前侵攻軍に通
じたため、一揆勢に居城を攻撃され敗北、自害した。
0284
大聖寺門徒宗


2
1
1
3
1
1
4
1
1
5
2
2
0285
堀江 景忠


4
3
3
5
4
4
6
5
5
7
6
6
(1527-1576)朝倉家臣。各地で功を立てるが、謀叛疑惑によ
り能登に退去させられる。織田家に通じて本領を回復する
が、一向一揆討伐の恩賞に不満を表したため殺された。
0286
堀江 景逸


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
0287
堀江 景利


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
0288
豊原 僧兵衆


2
1
1
3
1
1
4
1
1
5
2
2
0289
鳥居 景近


6
7
4
7
8
5
8
9
6
9
10
7
(68)突撃
(72)一番槍
(70)統率号令
(????~1573)朝倉家臣。織田信長の越前侵攻で、景鏡が信
長と通じて裏切り、賢松寺を攻めると、景近は景鏡の軍勢と
戦った後、寺に戻り義景の介錯を務めた後に自害した。
0290
朝倉 義景


2
1
2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
(94)無気力
(87)虚報
(95)愚将号令
(1533-1573)朝倉家5代当主。孝景の嫡男。将軍・足利義昭
と結び織田信長包囲網の一角を担うが、次第に勢威を失う。
刀禰坂合戦で敗北を喫し、一族に背かれて自害した。
0291
朝倉 景健


4
3
3
5
4
4
6
5
5
7
6
6
(1536-1575)朝倉家臣。景隆の子。姉川合戦では朝倉軍の総
大将として奮戦。主家滅亡後は織田信長に属すが、一向一揆
に降伏したため、信長の怒りを買い自害させられた。
0292
朝倉 景連


4
4
4
5
5
5
6
6
6
7
7
7
0293
山崎 吉家


6
2
1
7
3
2
8
4
3
9
5
4
(????~1573)朝倉家の臣。朝倉宗滴に従って一向一揆を鎮
圧した。織田家と戦い、織田信治、森可成を討ち取った。
朝倉義景の殿軍を務め、退却中戦死した。
0294
真柄 直隆


8
5
1
9
6
1
10
7
1
11
8
2
(1536-1570)朝倉家臣。弟・直澄とともに家中随一の剛勇の
士として名を馳せる。姉川合戦で味方兵が敗走する中、徳川
軍を相手に奮戦するが、子・隆基とともに戦死した。
0295
青木 景康


2
5
6
3
6
7
4
7
8
5
8
9
0296
印牧 美満


3
2
3
4
3
4
5
4
5
6
5
6
0297
前波 景定


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
0298
河合 吉統


4
2
2
5
3
3
6
4
4
7
5
5
(1521-1573)朝倉家臣。一乗谷四奉行の1人として国政に参
画したほか、浅井家救援のために近江に出陣するなど活躍し
た。刀禰坂合戦において、織田軍に討たれたという。
0299
朝倉 景鏡


1
11
10
2
12
11
3
13
12
4
14
13
(97)愚かな蔑み
(96)愚かな妬み
(95)愚将号令
(????~1574)朝倉家滅亡時に、従兄弟である主君・義景を
裏切って自害に追い込んだ。その功によって本領を安堵され
るが、一向衆に攻められて敗死した。
0300
朝倉 宗滴


12
11
9
13
12
10
14
13
11
15
14
12
(91)包囲上手
(70)統率号令
(36)冷静な鎮圧
(1477-1555)朝倉家臣。朝倉家初代当主・敏景の子。軍奉行
を務め、周辺諸国へ出兵し朝倉家の武威を内外に知らしめ
た。加賀一向一揆討伐の際に発病、帰国後に死去した。
0301
朝倉 景紀


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
(1503-1572)朝倉家臣。朝倉家3代当主・貞景の子。朝倉宗
滴の養子となる。敦賀城主を務め養父とともに加賀や若狭、
近畿などを転戦し活躍した。のち敦賀郡司となった。
0302
粟屋 勝久


3
2
3
4
3
4
5
4
5
6
5
6
(1523-1585)若狭武田家臣。国吉城主。のち織田信長に属し
て各地を転戦する。旧主・元明が蟄居させられた際は、赦免
を信長に嘆願した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属す。
0303
武田 元光


1
1
1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
(1494-1551)若狭守護。後瀬山城を築き居城とする。管領・
細川高国の要請により上洛するが三好・柳本軍に敗れ、将
軍・足利義晴を奉じて近江に逃れた。和歌に優れた。
0304
武田 信豊


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(1514-1566)若狭守護。元光の子。細川晴元に協力して三好
長慶と戦うが、家臣・粟屋右京亮を失う。のちに子・義統と
不和になり近江に逃れるが、和議成立後に帰国した。
0305
武田 義統


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(1526-1580)若狭守護。信豊の子。父と和睦したあとに家督
を継ぐ。のち義弟・足利義昭が頼ってくるが、内紛が相次い
でいたため、義昭を奉じての上洛は果たせなかった。
0306
逸見 民部


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(1532-1581)若狭武田家臣。高浜城主。逸見家は若狭武田家
の庶流。織田信長の若狭侵攻軍に降り、各地を転戦した。
その功により、旧領を安堵され、3千石を加増された。

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最終更新:2012年02月03日 10:13
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