山陰

丹後  武将     4名

但馬  武将     5名

因幡  武将     4名

伯耆  武将     6名

出雲  武将    10名

石見  武将     5名

    域計    34名
    累計    424名

武将
能力値 スキル 列伝
Lv 1 2 3 4
0391
吉原 党


3
1
1
4
1
1
5
1
1
6
2
2
0392
沼田 勘解由


2
1
2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
0393
松倉 党


3
1
1
4
1
1
5
1
1
6
2
2
0394
一色 義幸


4
2
3
5
3
4
6
4
5
7
5
6
(1498-1563)丹後の戦国大名。隣国の若狭武田家としばしば
戦った。一色家は清和源氏足利家一門で、山名・赤松・京極
家とともに四職の家格となり、幕府で重きをなした。
0395
田結庄 是義


2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
6
5
(1518-1575)山名家臣。鶴城主。田結庄家は山名四天王の
一。織田家への従属を唱え、毛利家への接近をはかる垣屋続
成と対立。続成を討つが、続成の子・光成に討たれた。
0396
山名 祐豊


1
2
4
2
3
5
3
4
6
4
5
7
(1511-1580)但馬守護。出石城主。叔父・誠豊の養子となっ
て家督を継ぐ。弟・豊定を因幡に派遣し、但馬・因幡両国を
支配した。のち羽柴秀吉に攻められ敗北、降伏した。
0397
垣屋 続成


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
(1482-1570)山名家臣。楽々前城主。主君・致豊の但馬守護
就任に伴って守護代となり、領国経営の実権を握った。
のちに田結庄是義と対立し、是義に奇襲されて自害した。
0398
垣屋 光成


2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
6
5
(1523-1592)山名家臣。続成の子。父を殺した田結庄是義と
戦い、是義を討った。のちに羽柴秀吉の中国征伐軍に降り、
因幡鳥取城攻撃などに参加、因幡で1万石を領した。
0399
大田垣 朝延


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
(1506-1570)山名家臣。宗寿の子。1538年、5代目の竹
田城主となった。居城・竹田城は室町時代中期に、太田垣光
景が築いた。光景の子・景近は応仁の乱で活躍した。
0400
吉岡 春斎


2
1
2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
0401
武田 高信


4
4
5
5
5
6
6
6
7
7
7
8
(????~????)山名家に仕えていたが、主家の内紛に乗じて
独立し、鳥取城を奪った。その後、山名豊国に奪還された。
0402
山名 豊定


1
2
4
2
3
5
3
4
6
4
5
7
(1512-1560)因幡守護。鳥取城主。叔父・誠豊の死後兄・祐
豊の命により因幡に入る。因幡守護を自称して主家に対抗す
る山名誠通を討つなど、因幡の領国経営に尽力した。
0403
矢部 吉茂


2
2
1
3
3
2
4
4
3
5
5
4
0404
南条 宗勝


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
(1498-1575)南条家7代当主。羽衣石城主。尼子経久の攻撃
を受けて居城を追われ、浪人となる。のち毛利元就の援助を
受けて居城の奪還に成功し、以後は毛利家に属した。
0405
南条 元続


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
(1549-1591)南条家8代当主。羽衣石城主。宗勝の嫡男。
豊臣秀吉に仕え、九州征伐などに従軍した。病のため弟・元
清に政務を任すが、小田原征伐には病の身で参加した。
0406
小鴨 元清


5
3
3
6
4
4
7
5
5
8
6
6
(1551-1605)南条家臣。南条宗勝の庶子。東伯耆の名門・小
鴨家を継ぐ。朝鮮派兵の際、甥・元忠の讒言に遭い失脚し、
小西行長に属す。関ヶ原合戦後は加藤清正に仕えた。
0407
山田 重直


3
2
1
4
3
2
5
4
3
6
5
4
(1524-1592)伯耆の豪族。毛利家に仕え、父・高直の代に尼
子家に奪われた居城・堤城を奪還した。のちに南条元続に属
す。元続が羽柴家に属した際、元続と戦うが敗れた。
0408
尼子 国久


6
3
4
7
4
5
8
5
6
9
6
7
(1492-1554)尼子家臣。経久の次男。新宮党を率いて甥・晴
久を支えるが、のちに対立。これに乗じた毛利元就の謀略に
より、晴久に討たれ、尼子家衰退の一大要因となる。
0409
尼子 誠久


6
3
2
7
4
3
8
5
4
9
6
5
(1520-1554)尼子家臣。国久の長男。父とともに新宮党を率
いるが、自らの武勇を誇りすぎ、従兄弟・晴久と対立。
毛利元就の謀略にかかった晴久の襲撃を受け、戦死した。
0410
米原 綱寛


4
4
3
5
5
4
6
6
5
7
7
6
0411
松田 満久


4
3
2
5
4
3
6
5
4
7
6
5
(????~1563)尼子家臣。白鹿城主を務めた。同城は月山富
田城への食糧搬入の重要拠点であったため、毛利元就軍の最
初の標的にされる。40日間の篭城戦の末、自害した。
0412
三刀屋 久祐


2
1
3
3
2
4
4
3
5
5
4
6
(????~1591)尼子家臣。主家が毛利家攻めに敗れると大内
家に寝返る。しかし、大内家が尼子家攻めに失敗すると、再
び尼子家に帰属する。最後は毛利家に降った。
0413
宇山 久兼


1
2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
6
(1511-1566)尼子家臣。筆頭家老を務めた。月山富田城籠城
戦では、私財を投じて糧食を購入し、城兵に配った。
のちに毛利元就の離間策にかかった主君・義久に殺された。
0414
湯原 春綱


5
3
2
6
4
3
7
5
4
8
6
5
0415
尼子 晴久


4
6
8
5
7
9
6
8
10
7
9
11
(71)士気号令
(69)統率
(87)虚報
(1513-1560)出雲の戦国大名。祖父・経久の死後家督を継
ぎ、中国8ヶ国の守護となる。毛利元就の謀略により新宮党
を討ち、自ら弱体化を招いた。毛利軍と交戦中に急死。
0416
尼子 経久


8
12
12
9
13
13
10
14
14
11
16
15
(86)大規模陽動
(89)カリスマ
(43)黒き策謀
(1458-1541)出雲の戦国大名。京極家に仕えるが、所領押領
の罪で出雲守護代を罷免される。のちに居城・月山富田城を
奪回して勢力を広げ、中国11ヶ国の太守となった。
0417
山中 鹿介


9
5
6
10
6
7
11
7
8
12
8
9
(72)一番槍
(99)全体回復
(42)根性突撃
(1545-1578)尼子家臣。三日月に対し「我に七難八苦を…」
と願ったという。尼子勝久を擁して主家再興を企むが、播磨
上月城で毛利軍に敗れ、安芸への護送中に殺された。
0418
三沢 為清


5
4
2
6
5
3
7
6
4
8
7
5
(1536-1588)尼子家臣。三沢城主。一時大内義隆に属すが、
義隆の出雲侵攻が失敗した際に帰順した。のちに毛利元就の
出雲侵攻軍に降伏した。子孫は長府毛利家に仕えた。
0419
赤穴 久清


3
3
2
4
4
3
5
5
4
6
6
5
(1471-1553)尼子家臣。出雲瀬戸山城主。子・光清とともに
大内義隆の出雲侵攻軍と戦うが、光清が戦死したため、大内
軍に降る。大内軍の撤退後、居城の奪還に成功した。
0420
福屋 隆兼


5
4
3
6
5
4
7
6
5
8
7
6
0421
本城 常光


6
4
1
7
5
1
8
6
2
9
7
3
(1513-1562)尼子家臣。山吹城主を務め、大森銀山を守る。
毛利元就や吉川元春の攻撃を撃退し、勇名を馳せた。
のち元就に降伏するが、その豪勇を恐れた元就に殺された。
0422
益田 藤兼


2
2
3
3
3
4
4
4
5
5
5
6
(1529-1596)大内家臣。益田城主。主家滅亡後は毛利家に従
い、山陰平定戦で活躍した。晩年は仏教を厚く信仰した。
家臣・品川大膳は山中幸盛と一騎討ちをして敗れた。
0423
小笠原 長雄


1
1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
5
大内家臣。温湯城主。主君・義隆の死後は尼子家に属した。
大森銀山に進出し、これを領有した。のちに毛利元就軍に攻
められ、抵抗するが敗北し、降伏した。
0424
吉見 正頼


1
1
3
2
1
4
3
2
5
4
3
6
(1513-1588)大内家臣。主君・義隆の姉を娶る。義隆の敵・
陶晴賢打倒を目指して挙兵し、毛利元就と結んで晴賢と戦
う。晴賢が厳島合戦で敗死したあとは毛利家に属した。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2012年01月10日 00:11
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。