九州

豊前  武将     6名

豊後  武将    16名

筑前  武将     8名

筑後  武将    10名

肥前  武将    19名

肥後  武将    12名

日向  武将     4名

大隈  武将    11名

薩摩  武将    13名

    域計    99名
    累計    619名

武将
能力値 スキル 列伝
Lv 1 2 3 4
521
杉 重矩


2
4
6
3
5
7
4
6
8
5
7
9
(????~1551)大内家の臣。豊前守護代を務めた。対立して
いた陶晴賢と手を組み、共に謀叛を起こして主君である義隆
を滅ぼす。しかし再び晴賢と敵対し、長門で自害した。
522
高橋 重種


2
1
1
3
2
2
4
3
3
5
4
4
523
大庭 景尚


1
1
1
2
2
1
3
3
2
4
4
3
524
原田 右京進


1
1
1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
525
田北 紹鉄


2
3
6
3
4
7
4
5
8
5
6
9
526
貫 親清


2
2
1
3
3
2
4
4
3
5
5
4
527
奴留湯 主水


1
1
1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
528
野仲 重兼


4
3
4
5
4
5
6
5
6
7
6
7
(1529-1588)大内家臣。下毛郡代を務めた。主家滅亡後は大
友家と争うが敗れ、家臣となる。豊臣秀吉の九州征伐後、
豊前に入国した黒田孝高と戦うが敗北し、滅亡した。
529
田尻 親種


1
1
1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
530 木村親諸


1
1
1






531 木村鎮秀


4
4
4






532
小原 鑑元


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
533
臼杵 鑑続


1
2
4
2
3
5
3
4
6
4
5
7
(1509-1561)大友家臣。筑前好士岳城督を務め、筑前経略に
従事。また主家の外交事務を管理し、大内家との和睦や主
君・宗麟の弟・晴英の大内家入嗣などをとりまとめた。
534
臼杵 鑑速


1
3
7
2
4
8
3
5
9
4
6
10
(1518-1575)大友家臣。豊後三老の1人。外交事務を担当す
る一方で、肥前方分を務めて主家の国政に参画する。
また筑前平定軍の総大将を務めるなど、各方面で活躍した。
535
大友 F宗麟


4
4
4
5
5
5
6
6
6
7
7
7
(95)愚将号令
(88)魅力
(51)愛の教え
(1530-1587)大友家21代当主。義鑑の子。のち宗麟と号
す。最盛期には九州6ヶ国を領したが、耳川合戦で島津軍に
敗れて家臣を多数失い、以後は没落の一途をたどった。
大友 宗麟

7
7
7
7
8
8
8
9
9
9
10
10
(91)包囲上手
(88)魅力
(51)愛の教え
536
吉岡 長増


3
4
8
4
5
9
5
6
10
6
7
11
(1499-1573)大友家臣。豊後三老の1人。知略に優れた。
大友家と毛利家が筑前で対峙した際は、大内義隆の従兄弟・
輝弘を扇動して周防に侵攻させ、毛利軍を撤退させた。
537
一萬田 親実


4
3
3
5
4
4
6
5
5
7
6
6
538
高橋 紹運


12
6
5
13
7
6
14
8
7
15
9
8
(72)一番槍
(71)士気号令
(53)堅実な守り
(1548-1586)大友家臣。筑前岩屋城主。吉弘鑑理の次男。
立花道雪と双璧をなした猛将。島津軍5万の軍勢を居城にて
わずか7百の兵で迎撃、敵兵多数を道連れに玉砕した。
539
立花 道雪


13
8
6
14
9
7
15
10
8
16
11
9
(91)包囲上手
(70)統率号令
(52)堅実な攻め
(1513-1585)大友家臣。立花城西城督。落雷で歩行不能とな
るが、輿に乗って常に大友軍の先陣を切り「鬼道雪」の異名
をとった。生涯を軍陣で過ごした、家中随一の猛将。
540
宇都宮 長房


5
4
3
6
5
4
7
6
5
8
7
6
(1506~1588)豊前城井宇都宮家15代当主。若くして子・
鎮房に家督を譲り、再興を託す。豊臣秀吉の九州征伐軍に降
るが、のち黒田長政と対立し、暗殺された。
541
城井 房統


4
3
4
5
4
5
6
5
6
7
6
7
(生没年不詳)豊前城井宇都宮家14代当主、宇都宮正房の
弟。竜王城を治めていたが、豊後の大友義鎮に攻められた
際、戦わずして開城し、以後は大友氏に従属した。
542
加来 成恒


2
2
1
3
3
2
4
4
3
5
5
4
543
宗像 氏続


1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
5
5
544
宗像 氏貞


2
1
2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
(????~1586)宗像正氏の子。宗像神社大宮司。宗像氏最大
の版図を築いた。しかし、後継がないまま急死し、豊臣秀吉
の九州派兵の際に全領を没収されて宗像家は滅亡した。
545
麻生 隆実


2
2
2
3
3
3
4
4
4
5
5
5
546
原田 隆種


1
2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
6
(1513-1588)筑前の豪族。高祖城主。大内家と結んで筑前西
部に勢力を築き、大友家の軍勢をたびたび撃破した。原田家
は藤原純友の乱の鎮定に功を立てた大蔵春実の嫡流。
547
秋月 文種


2
3
4
3
4
5
4
5
6
5
6
7
548
秋月 晴種


3
4
1
4
5
2
5
6
3
6
7
4
549
大橋 豊後守


4
4
3
5
5
4
6
6
5
7
7
6
550
筑紫 惟門


1
3
4
2
4
5
3
5
6
4
6
7
(1531-1567)肥前の豪族。五箇山城主。少弐家に属し大内家
臣・陶興房に攻められ敗れる。大内家滅亡後は秋月文種とと
もに毛利元就に属すが、大友軍に攻められ自害した。
551
問註所 鑑豊


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
552
佐伯 惟教


7
4
2
8
5
3
9
6
4
10
7
5
(1524-1578)大友家臣。二階崩れの変の際は、主君・宗麟を
奉じて変を鎮圧した。一時西園寺家に仕えるが、のち帰参。
宗麟の命で日向に進出するが、耳川合戦で戦死した。
553
志賀 親守


5
3
2
6
4
3
7
5
4
8
6
5
(1514-1598)大友家臣。豊後岡城主。肥後方分を務めた。
耳川合戦の際は消極的行動を取り、大友軍大敗の原因を作っ
た。主君・義統が朝鮮派兵に従った際は豊後に残った。
554
奈多 鑑基


1
1
1
1
1
1
1
1
1
2
2
2
555
吉弘 鑑理


4
3
4
5
4
5
6
5
6
7
6
7
(1515-1571)大友家臣。豊後三老の1人。主君・義鎮の執政
を補佐した。勢場ヶ原合戦で大内軍を撃退し、また多々良浜
合戦で毛利軍を破るなど、多くの合戦で功を立てた。
556
蒲池 鑑盛


4
5
7
5
6
8
6
7
9
7
8
10
(1520-1578)筑後の豪族。柳河城主。鑑久の嫡男。大友家に
属した。滅亡の危機に瀕した龍造寺家を2度に渡って保護し
た。耳川合戦に参陣し、一族郎党とともに戦死した。
557
田原 親宏


4
3
2
5
4
3
6
5
4
7
6
5
558
田原 親資


1
1
1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
559
蒲池 親広


1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
5
5
560
小河 信安


4
3
3
5
4
4
6
5
5
7
6
6
(1508-1557)龍造寺家臣。居城・春日山城を神代勝利に落と
され、一族の多くを失った。弔い合戦のために出陣した際、
鉄布峠で勝利本人と遭遇し、一騎討ちの末討たれた。
561
松浦 興信



2
2
2
3
3
3
4
4
4
5
5
5
(1495-1554)肥前の豪族。平戸城主。大内家に属し、主君・
義興の偏諱を受けた。松浦家は、嵯峨源氏渡辺家の流れで、
渡辺久が肥前松浦郡に住み松浦姓を名乗ったという。
562
松浦 隆信


2
3
4
3
4
5
4
5
6
5
6
7
(1529-1599)肥前の豪族。平戸城主。興信の子。平戸港を拠
点として南蛮貿易を行う。豊富な資金力を背景に勢力を拡大
するが、のちに龍造寺隆信に敗れ、隆信に従属した。
563
千葉 胤頼


4
3
2
5
4
3
6
5
4
7
6
5
564
少弐 冬尚


1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
5
5
(1529-1559)少弐家17代当主。資元の子。龍造寺家兼の一
族を殺し、東肥前の領主の後援を得て勢力回復をはかるが、
再起した家兼の曾孫・隆信の軍勢に敗れ、自害した。
565
少弐 政興


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
566
馬場 鑑周


1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
5
5
567
江上 武種


2
1
1
3
2
2
4
3
3
5
4
4
(1526-1575)少弐家臣。肥前勢福寺城主。龍造寺隆信の家督
相続に反対した東肥前十九将の1人。龍造寺家臣・小田政光
を討つなど活躍したが、のちに龍造寺家臣となった。
568
神代 勝利


5
2
2
6
3
3
7
4
4
8
5
5
(1511-1565)少弐家臣。肥前三瀬城主。「北山に枕し南海に
足を浸す」という夢を買い取り、武運に恵まれる。龍造寺家
臣・小田政光を討つなど、終生龍造寺家に対抗した。
569
龍造寺 隆信


8
7
6
9
8
7
10
9
8
11
10
9
(97)愚かな蔑み
(90)強襲上手
(71)士気号令
(1529-1584)龍造寺家19代当主。周家の子。村中・水ヶ江
両家を統一して勢力を拡大し、九州5ヶ国2島を領した
「肥前の熊」。沖田畷合戦で島津軍に大敗し、戦死した。
570
木下 昌直


7
3
1
8
4
1
9
5
2
10
6
3
(68)突撃
(92)強襲突撃
(76)騎兵突撃
(1524-1610)龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人といわれる。
沖田畷合戦で主君・隆信戦死の報を聞くと、鍋島直茂を離脱
させたのち、敵陣に突入した。生死は諸説あり不明。
571
百武 賢兼


7
8
6
8
9
7
9
10
8
10
11
9
(83)騎兵弱体
(84)槍兵弱体
(85)弓兵弱体
(1538-1584)龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人。今山合戦な
どで活躍し、武勇百人にまさると主君・隆信から百武姓を賜
る。沖田畷合戦の際は隆信の身辺を守り、戦死した。
572
円城寺 胤


6
9
5
7
10
6
8
11
7
9
12
8
(74)弱体矢
(91)包囲上手
(56)円城寺弓術
(1541-1584)龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人といわれる。
沖田畷合戦で主君・隆信戦死の報告を受けると、隆信に似せ
た出で立ちをしたのち、敵陣に斬り込んで戦死した。
573
成松 信勝


11
5
2
12
6
3
13
7
4
14
8
5
(90)強襲上手
(93)完全包囲
(92)強襲突撃
(1540-1584)龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人。今山合戦で
大友軍総大将を討つ功を立てた。沖田畷合戦に軍奉行として
従軍、主君・隆信の戦死を聞くと敵陣に突入し戦死。
574
信常 エリ


9
5
1
10
6
2
11
7
3
12
8
4
(72)一番槍
(68)突撃
(55)エリの陽動
(1548-1584)龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人。沖田畷合戦
で主君・隆信戦死の報を聞くと、単身で島津家久軍の本陣に
突入し戦死。「無双の剛の者」と家久に賞賛された。
575
鍋島 直茂


8
8
11
9
9
12
10
10
13
11
11
14
(70)統率号令
(71)士気号令
(54)鍋島奇襲術
(1538-1618)龍造寺家臣。清房の子。主家の発展に貢献した
知勇兼備の将。主君・政家を後見して国政を執った。
関ヶ原合戦で東軍に属し、戦後、肥前の支配権を獲得した。
576
後藤 純明


3
5
6
4
6
7
5
7
8
6
8
9
577
大村 純前


2
3
4
3
4
5
4
5
6
5
6
7
(1473-1551)肥前の豪族。三城主。有馬晴純の圧迫を受け、
嫡男・貴明を後藤家の養子とし、晴純の次男・純忠に家督を
譲り和議を結ぶ。このため、家臣団の反発を招いた。
578
有馬 晴純


4
1
2
5
2
3
6
3
4
7
4
5
(1483-1566)肥前の豪族。日野江城主。島原半島を中心に勢
力を拡大、有馬家最大の版図を築く。また大村家に次男・純
忠を入嗣させて和睦、安定した支配体制を確立した。
579
有馬 義貞


6
1
2
7
2
3
8
3
4
9
4
5
(1521-1576)肥前の豪族。日野江城主。晴純の嫡男。将軍・
足利義晴の相伴衆となった。龍造寺隆信と抗争を展開するが
敗北を続け、所領を失った。詩歌に傾倒したという。
580
大津山 資冬


2
1
2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
581
隈部 親永


4
3
2
5
4
3
6
5
4
7
6
5
(1516-1588)菊池家臣。肥後長野城主。主家没落後は龍造寺
家に属す。豊臣秀吉の九州征伐軍に降るが、佐々成政の検地
に抵抗して肥後国人一揆を起こし、敗れて殺された。
582
赤星 親家


6
4
2
7
5
3
8
6
4
9
7
5
(1514-1562)菊池家臣。主君・義武の肥後隈本城回復戦の際
は大友家に属し、恩賞として肥後隈府城主となり、菊池郡を
支配した。のちに隈部親永と対立し、戦うが敗れた。
583
城 親冬


2
2
5
3
3
6
4
4
7
5
5
8
(1511-1575)菊池家臣。主君・義武の肥後隈本城回復戦の際
は大友家に属し、恩賞として肥後隈本城主となり、飽田・詫
摩二郡を支配する。のちに肥前に出兵するが敗れた。
584
甲斐 宗運


11
8
6
12
9
7
13
10
8
14
11
9
(1515-1584)阿蘇家臣。肥後御船城主。大友家と結んで龍造
寺家や島津家と外交交渉を行い、阿蘇家の存続に努めた。
島津家に属した相良義陽の攻撃を受けるが、撃退した。
585
名和 行興


2
2
2
3
3
3
4
4
4
5
5
5
586
阿蘇 惟豊


3
3
4
4
4
5
5
5
6
6
6
7
(1493-1559)肥後の豪族。岩尾城主。兄・惟長に一時居城を
追われるが、家臣・甲斐親宣の助力で阿蘇大宮司職に復し
た。のちに禁裏修理料を献上し、勅使の下向を迎えた。
587
阿蘇 惟将


2
2
2
3
3
3
4
4
4
5
5
5
(1526-1583)肥後の豪族。岩尾城主。惟豊の子。阿蘇大宮司
を務めた。大友家に属す。家臣・甲斐親直の助力で、龍造寺
家および島津家と和平交渉を行い、領国を維持した。
588
相良 晴広


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
(1513-1555)肥後の戦国大名。古麓城主。上村頼興の子。
相良義滋の養子となり家督を継ぐ。対明貿易を行う。また分
国法「相良氏法度」を制定し、支配力の強化に努めた。
589
犬童 頼安


7
4
2
8
5
3
9
6
4
10
7
5
(1521-1606)相良家臣。武勇に優れ、各地で活躍。肥後水俣
城攻防戦では敵将・新納忠元と連歌を応酬した。主君・義陽
の死後は、深水長智とともに幼主・頼房を補佐した。
590
上村 頼興


2
2
7
3
3
8
4
4
9
5
5
10
(1490-1557)相良家臣。肥後上村城主。子・晴広を継嗣とす
る約束で主君・義滋に協力する。義滋政権の陰の実力者とし
て、その実現と存続のために義兄や実弟を謀殺した。
591
上村 頼孝


3
3
2
4
4
3
5
5
4
6
6
5
(1518-1567)相良家臣。肥後上村城主。頼興の次男。父の死
後、2人の弟とともに甥・義陽に背くが敗れ、薩摩に逃亡。
のちに謀略によって帰国させられ、義陽に殺された。
592
土持 親成


5
3
4
6
4
5
7
5
6
8
6
7
(1519-1578)県土持家16代当主。親佐の子。松尾城主。
歴代当主の中でもまれにみる文武両道に優れた名将と評され
ていた。島津家と結ぶが、大友軍の攻撃に敗れ、自害。
593
北原 兼守


2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
6
5
594
伊東 義祐


4
3
3
5
4
4
6
5
5
7
6
6
(1512-1585)日向の戦国大名。伊東家最大の版図を築くが、
木崎原合戦で島津軍に敗れ衰退。豊後の大友宗麟を頼るが、
大友軍が耳川合戦で大敗したあとは各地を流浪した。
595
北郷 忠親


2
1
2
3
2
3
4
3
4
5
4
5
596
肝付 兼演


1
1
1
2
1
2
3
2
3
4
3
4
597
蒲生 茂清


5
3
4
6
4
5
7
5
6
8
6
7
(????~????)大隅の豪族。肝付家と結んで島津家に対抗し
た。島津貴久を窮地に陥らせ、島津義弘に重傷を負わせるな
どしたが、遂に敗北し、身を隠した。
598
蒲生 範清


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
(1564-1649)国人衆の頭領。一軍を率いて戦うなど強い影響
力を持った。軍馬や鉄砲を売買する者もいたという。
599
新納 忠茂


2
2
1
3
3
2
4
4
3
5
5
4
600
伊地知 重武


3
2
2
4
3
3
5
4
4
6
5
5
601
伊地知 重興


1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
5
5
(1528-1580)大隅の豪族。小浜城主。肝付家と結んで島津家
に対抗するが、島津軍に居城を落とされたため、降伏した。
その後は島津家に属し、大友家攻めなどに従軍した。
602
肝付 兼続


9
5
3
10
6
4
11
7
5
12
8
6
(1511-1566)大隅の戦国大名。高山城主。肝付家最大の版図
を築く。島津忠良の娘を娶るが、のち忠良の子・貴久と敵
対。居城を島津軍に奪われたとの報を聞くと自害した。
603
大野 出羽守


2
3
1
3
4
2
4
5
3
5
6
4
604
薬丸 弾正


2
2
1
3
3
2
4
4
3
5
5
4
605
薬丸 兼将


1
2
1
2
3
2
3
4
3
4
5
4
(1517-1576)肝付家臣。伊集院忠朗の催した宴席において、
鶴の羮(肝付家の家紋は対い鶴)を勧められる。この一件を
契機として主家と島津家が争うようになったという。
606
禰寝 清年


5
2
3
6
3
4
7
4
5
8
5
6
(1500-1547)禰寝家15代当主。根占領主。肝付兼続らとと
もに島津勝久と島津忠良の間を仲裁するが、失敗。のちに
兼続から大隅高隈城を譲られるが、やがて奪回された。
607
菱刈 重明


1
2
1
2
3
2
3
4
3
4
5
4
608
祁答院 良重


6
4
3
7
5
4
8
6
5
9
7
6
609
祁答院 重経


2
2
1
3
3
2
4
4
3
5
5
4
610
伊集院 忠棟


5
4
6
6
5
7
7
6
8
8
7
9
(1547-1599)島津家臣。忠倉の子。老中を務めた。豊臣秀吉
の九州征伐軍に敗れ、人質となった。秀吉から主家と同格の
扱いを受けたため、主君・忠恒と対立して殺された。
611
新納 旅庵


2
5
8
3
6
9
4
7
10
5
8
11
612
入来院 重朝


1
1
1
2
2
2
3
3
3
4
4
4
613
入来院 重嗣


3
1
2
4
2
3
5
3
4
6
4
5
614
島津 義久


4
3
5
5
4
6
6
5
7
7
5
8
(88)魅力
(98)士気回復
(18)姉の愛
(1533-1611)島津家16代当主。貴久の嫡男。優秀な弟たち
の協力により領土を拡大、九州をほぼ手中に収めるが、豊臣
秀吉の九州征伐軍に敗北し、薩摩1国を安堵された。
615
島津 義弘


11
5
2
12
6
3
13
7
4
14
8
5
(72)一番槍
(68)突撃
(19)死地の奮起
(1535-1619)島津家17代当主。貴久の次男。伊東・大友両
家を粉砕し、島津家を隆盛に導いた家中随一の猛将。朝鮮派
兵の際は明の大軍を破り「鬼石曼子」と恐れられた。
616
島津 歳久


8
10
5
9
11
6
10
12
7
11
13
8
(74)弱体矢
(86)大規模陽動
(20)悪天銃運用
(1537-1592)島津家臣。貴久の三男。日置島津家の祖とな
る。豊臣秀吉の九州征伐軍に最後まで抵抗した。多くの家臣
が梅北国兼の乱に加担したため、責任をとり自害した。
617
島津 家久


7
6
10
8
7
11
9
8
12
10
8
13
(98)士気回復
(89)カリスマ
(21)島津式銃術
(1547-1587)島津家臣。貴久の四男。永吉島津家の祖とな
る。沖田畷合戦の際は10倍の兵力の龍造寺軍を破る。
豊臣秀吉の九州征伐軍に降り、豊臣秀長との会見後に急死。
618
川上 忠智


10
5
1
11
6
2
12
7
3
13
8
4
619
穎娃 兼堅


4
2
1
5
3
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6
4
3
7
5
4

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最終更新:2012年01月29日 02:50
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