著:3スレ目>>104殿



永禄5年、前年におこなわれた宿敵上杉輝虎との第四次川中島決戦
武田典厩信繁、山本道鬼勘助らが鬼籍に入り、武田家は新たな局面を迎えていた
高遠に信玄四男、諏訪四郎勝頼が領主としてやってきたのはその永禄5年であった
三郎兵衛は所用があり高遠城に立ち寄った際の話である


(`・ω・´)昌景「おおう、向山出雲殿、何をやっておられるのじゃな?」

向山出雲とは勝頼高遠入城に際し、信玄より勝頼側近として遣わされた七人の侍大将の一人である

[´△`]出雲「これはこれは、、飯富様、いえ、勝頼様が甲府から持ってこられた荷物を整理しておるのです」

勝頼側近はどちらかというと文治派が多く、利に敏い連中ばかりで三郎兵衛はあまり好感を持っていなかったのであるが
この向山出雲は甲斐の寺社を寄進したりと穏やかな人物で、三郎兵衛とも仲が良かった。

(`・ω・´)昌景「ほう、それはそれは、、しかし、たくさんの書物じゃな。どれ、それがしもお手伝いいたす」

[´△`]出雲「あいすいませぬ、この書物の多くは長坂釣閑斎様が勝頼様のために内外から取り寄せたものです」

(`・ω・´)昌景「(長坂殿か、彼は文治派の統領としてわれら武断派の中では嫌うものが多いが、意外にいい所があるではないか・・・)」

[´△`]出雲「?どうなされました」

(`・ω・´)昌景「いや・・・ほう、この書物は『あーさー王と円卓の騎士』とな」

[´△`]出雲「それは南蛮渡来の書物ですな、イスパニアよりさらに遠い国の軍記物とか」



(`・ω・´)昌景「南蛮の軍記物、興味がありますな」

[´△`]出雲「それがしもさらりと読んだことがありますのでかいつまんであらすじを」

南蛮でも最も西方に位置する「ぶりたにあ」という国
あーさーなる王が紆余曲折ありながら国を一つにまとめ、
円卓の騎士と呼ばれる優れた家臣たちの助けもあり、
「ぶりたにあ」を統一に向かっていく

[´△`]出雲「そんな話でございます」

(`・ω・´)昌景「優れた王の元に集う優れた家臣たち・・・・まるで我が武田家のようじゃな!」

[´△`]出雲「そうでございますな、あーさー王の家に伝わる伝説の聖剣えくすきゃりばーというものがありますが
        さしずめ、これは武田家でいえば楯無の鎧ですかな?」

(`・ω・´)昌景「それで、あーさー王はぶりたにあを統一できたのか?この話の結末はどうなるのじゃ?」



[´△`]出雲「・・・それは」

若干言いよどみながら出雲は話を続けた

ほぼ「ぶりたにあ」を制したあーさー王。
しかし、崩壊の種は思わぬところにあった。
呪われた子と呼ばれたあーさー王の息子
もるどれっど卿の謀反により、国を二分する戦となり
もるどれっど卿はあーさー王に殺され、あーさーもまた
深い傷を負い、死んでしまう。。。


(`・ω・´)昌景「・・・・・・・・・・」

三郎兵衛は出雲が言いよどんだわけがわかった。
鋭敏な向山出雲は既に甲府において信玄とその嫡子義信との不和がこれ以上ないものとなっていることを
既に知っていたからである。

[´△`]出雲「・・・しかし、あーさーと円卓の騎士たちは南蛮において最高の騎士たちであると今においても讃えられております」


(`・ω・´)昌景「ふむ・・」

三郎兵衛は手に取った本を片付け始めた。
出雲も黙々と片付け始めた。

城の窓から、遠掛する勝頼の姿が見えた。まだ20になったばかりの勝頼は初々しく、そして活力に満ち溢れていた。


(`・ω・´)昌景「勝頼様もたくましくなられた」

[´△`]出雲「ええ・・・」

二人は少し救われた気持ちになった。
この時はまだ、二人は知らなかったのである
真に武田家にとって「呪われた子」が誰であるのか。
13年後、二人は長篠の地でともに果てることになる


107 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2006/10/28(土) 22:30:33 ID:urllbMw2
[´△`] 向山出雲守
勝頼側近の一人、甲斐の寺社に寄進をした
現在の甲府市南部に領地を持つ古い国人衆の一人
勝頼側近には他に小田切孫右衛門・安部宗貞・竹内与五右衛門・小原継忠・同下総守(継忠の兄)・秋山紀伊守がいる
生没年は諸説あるが一説には1537年~1575年。
一族の向山又七郎は板垣信方、駒井高白斎と連判状を作ったり、甲相同盟推進をしたりと有能な外交官であったよう。
一族の向山正盛は武田家滅亡後、徳川家康に使え旗本として江戸時代を迎えることになる

顔文字AAはロッテの渡辺俊介を流用(なんとなく

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最終更新:2009年12月15日 19:01